02: Never forgive
騎士団の船はカプワ・トリムの港に停泊した。
天候のせいだろうか、ノール港とは正反対の印象だ。白い壁と赤い屋根が陽光を反射して輝き、陽気な雰囲気を鮮やかに彩っている。
ユーリたちはフレンらとともに船を降ろされた。
騎士団が今宿を手配しているから、詳しい話はそこで、とフレンが言うので、ユーリたちは彼の後に着いて港街を歩いた。
ユーリは物珍しげに家並みを眺めた。大陸が違うというだけで空気まで違うような気がする。口を開こうとしてセシリアを見ると、なにやらこそこそしていた。
「何ちぢこまってんだ?」
「えっ? べ、別に?」
明らかに挙動不審である。首を竦めてユーリの傍にぴったりと寄り添っている様は、何かから隠れているようだ。何から隠れているのか、と目を巡らそうとすると、ぐいっと腕を引っ張られた。
「ほら、フレンに置いてかれるよ! 急ごう!」
「おいおい、引っ張んなって」
ユーリの左腕にしっかり腕を絡めて、セシリアはずんずんと進んでいく。やけに慌てている。
「セシリア、どうしたんです?」
エステルたちも小走りしながら眉を寄せた。
セシリアは急ぐ本当の理由を悟られる前に、宿に着くことに成功した。フレンはすでに部屋に入っている。宿の従業員に部屋の場所を教えてもらい、セシリアは部屋の扉を開けた。
「フレン、入るよ――」
扉の向こう、視界に入ってきたのは金髪が二人と、狭い宿にそぐわぬ豪奢な服装の山羊髭だった。その尊大で厚顔な面を見た瞬間、セシリアの手は剣の柄を握り、鞘から引き抜いていた。考える暇もない、反射的な行動だった。
バン、と勢いよく扉が閉められ、気がついたときにはセシリアは廊下の隅に突き飛ばされていた。
「何考えてんだ!」
耳が割れそうなほどの怒鳴り声に、セシリアはおかしな音を立てて息を吐いた。全身の血液が抜け落ちたような、気色の悪い感覚が肌を粟立たせていた。
「ユーリ!?」
「悪い、先に入ってろ」
カロルたちの方をちらりと振り返って、ユーリは短く言った。
言葉を掛けられずにいる彼らを置いて、ユーリはセシリアを立たせると外へと引っ立てていった。
*
「……頭、冷えたか」
宿の前を横切る通りに設置されたベンチにセシリアを座らせ、ユーリは低い声で訊ねた。
セシリアは青ざめてはいたが、落ち着いていた。
「ほら」
危ないからしまっとけ、とユーリはセシリアが取り落とした剣を差し出した。セシリアはそれを無言で受け取ると、鞘に収めた。手が小刻みに震えていたため、柄がカタカタと鳴った。少々大きな音を立てて剣を差し込むと、白い手で顔を覆った。
「……なんで、あそこにいるのよ……」
ユーリはすと、セシリアの前に膝を着く。視線が彼女より低くなった。細い肩に手を置いて、セシリアを見上げる。
「セシリア。お前の怒りはわかる。だが」
そろそろと手を下ろす。その下からはユーリを映す今にも泣きそうな眼があった。
「こんなことはするな。お前が――」
手を汚す必要はない。感情を抑えた、擦れた声でそう言って、彼女の頼りない手を握り締めた。まだ震えは収まっていなかった。
「……ユーリ」
宿屋からカロルが顔を出した。ユーリは今行く、とさっと立ち上がって、セシリアに向き直ると頬を触って上を向かせ、笑って見せた。
「すぐ終るから。ここで待ってろ」
「……うん」
繋いだ手を名残惜しく撫で、するりと離すとユーリはカロルと共に宿へ戻って行った。セシリアはしばらく魂の抜けたような様子で閉められた扉を見つめ、やがて項垂れた。
「……何やってるの、私……」
「やあねぇ、見せ付けてくれちゃって」
すぐ隣で答えたのは聞き覚えのある声だった。セシリアは機敏に顔を上げて相手の顔を見るや驚きで危うくベンチから滑り落ちそうになった。
「おおおおっさん! じゃなくてレイヴン!」
「言いなおしてくれてありがとう。……んでも面倒だったらおっさんって呼んでくれてもいいわよ」
確かにそれはあのラゴウの屋敷で再会を果たしたレイヴンその人だった。飄々とした笑みを浮かべるその顔を、セシリアは呆然と見つめる。開いた口が塞がらなかった。
「あっ、あなたどうしてここにいるんですか!」
「ふふふ、偶然よねぇ。なんだか運命感じない!?」
「私にはあなたを一発殴る権利があると思うんですけど、どうでしょう」
「あらやだ、物騒ー」
さっきも剣抜いてたしぃ、とレイヴンは自分の身体を抱くようにしてセシリアから逃げる素振を見せた。驚愕で真っ白になっていたセシリアの心に、渦巻いていたものがたちまち質量を増して、あっという間にセシリアを捉えてしまった。
一気に悪くなったセシリアの顔色に、レイヴンはどうしたのよ、と訊ねる。セシリアは泣きたくなったが、なんとか堪える。
「……私、初めて人を殺したいほど憎んだ」
代わりに、冷静になるため先ほどの出来事を客観的に振り返ろうと試みる。レイヴンははっとして口を覆った。
「俺様そんなに憎まれてたの!? ショック!」
「あなたじゃありません。少なくともあなたを焼き尽くそうと思っているのは私じゃないです」
うんざりしてそこまで言ったところで、どうやら皮肉を言う余裕はあるようだと、セシリアは内心安堵した。
「……自分でも驚きましたよ。顔を見た瞬間、そのことしか考えられなくなるなんて。……殺意に、乗っ取られたような」
「そんなに嫌いな人がいるの」
「嫌いとか、そんな話じゃありません。あいつは、根っからの悪党です」
腐ってる、と吐き捨てた言葉はその激しさに自分でも驚いたが、撤回する気は起きなかった。
「ふうん。それじゃあ、義侠心からそいつを殺したいって思ったわけ?」
「それは……」
セシリアは目を揺らした。義侠心、だろうか。この、身体の中に膨れ上がっている感情は。あまりにも激しすぎて、今にも焼き尽くされてしまいそうだ。
この炎が全身を焼き尽くしたときは、恐らくこの剣が血に塗れるときだ。
そう想像して、セシリアはぞっとした。自分自身が何をするかわからず怖いだなんて、初めてのことだった。
「うーん、なんだか今のお嬢ちゃんには話さない方がよさそうねぇ」
「何をです?」
顎を摩って言葉を濁したレイヴンに、セシリアはすかさず訊ねた。
持っている情報を開示してくれるなら逃す手はない。レイヴンは聞く準備があるという姿勢を取ったセシリアを見下ろして、薄く笑みを浮かべた。
「熱いねぇ。生命の炎が滾って燃え盛ってるみたいだ」
暗い瞳だった。一瞬光を失った眼は、やけに濁っていた。レイヴンはふと俯くといつもどおりの軽薄な笑みを貼り付けていた。
「そんなエネルギッシュな若人に耳寄り情報〜」
「うわっ、おっさん!? なんでいるんだよ!」
レイヴンが両手を広げたのと同時に、後ろからそんな声が飛んできてレイヴンはそのまま動きを止めた。
首だけ振り返って、暢気な声を上げる。
「あらぁ、青年じゃないの! またまた偶然ね〜」
「偶然じゃねぇだろ。他に、なんか言うことないのか?」
眼を細めるユーリに、何かあったかねぇ、とレイヴンは嘯いた。しらばっくれる気の男に、騙した方より騙された方が忘れずにいるって言うもんな、とユーリは呆れ混じりに言った。
「そんな怖い顔しなくても、大丈夫よ。青年の彼女をおっさんが口説くわけないじゃない」
ねえ、とセシリアに同意を求めるレイヴン。セシリアの方は微妙な顔をしつつも、特にレイヴンを責める様子がないことにユーリは驚いた。
「一体どう口説いたんだ?」
呆れながら感心している風に言うと、案の定レイヴンは調子に乗ってこの渋いダンディな魅力は女性にしか感じ取れないのかねぇなどと言い出し、これにはセシリアも生憎女ですが魅力は感じませんと毒舌を披露した。
「はあ、口が悪いなあ二人とも。似たもの同士って奴〜?」
「普段はそれなりに温厚なんだぜ? おっさん、あんまふらふらしてっと、また騎士団にとっ捕まるぞ」
「騎士団も俺相手にしてるほどひまじゃないって。さっき物騒なギルドの一団が北西に移動するのも見かけたしね。騎士団はああいうのほっとけないでしょ」
「……物騒か。それって、紅の絆傭兵か?」
すと、ユーリの目が細くなった。レイヴンはさあ、ととぼけているが先ほど言っていた情報とはこれだろう。自然、セシリアの気持ちも引き締まった。
「そもそも、おっさんあの屋敷へ何しにいったんだ?」
「ま、ちょっとしたお仕事。聖核<アパティア>って奴を探してたのよ」
「聖核?」
聞いたことのない単語だ。レイヴンは魔核のすごい版だってさ、と適当な説明をする。つまりは魔核と働きは同じなのだろうと考えて置くことにして、魔核を探す、というキーワードに自然セシリアはモルディオの名を騙った男とバルボスを連想した。
「皆して魔核、魔核って……。なんなのよ」
その時、宿の方からユーリ、とカロルが呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、物凄い勢いでこちらに走ってくる姿があった。リタの形相に怖気づいたように、レイヴンが言う。
「逃げた方がいいかね、これ」
「一人好戦的なのがいるからな」
「おっさん燃やし尽くされるのは勘弁」
燃え尽きるなら恋の炎がいい、と捨て台詞を吐くと素早く身を翻し早々に退散してしまった。逃げ足が速いのは逃げなれているからだろうか、とセシリアがどうでもいいことを考えている内にリタが脇を通り過ぎ、息を切らしたカロルとエステルが追いついた。
「なんで逃がしちゃうんだよ!」
「誤解されやすいタイプなんだとさ」
息巻いていたカロルはずれた返答をされて不意を突かれた。どういう意味? と首を傾げているとリタが戻ってきた。走っただけではない、息の乱れ具合である。
「あいつ、逃げ足速すぎ……!」
三人の呼吸が平常に戻る頃には怒りの頂点も通り過ぎ、落ち着いてきた彼らにユーリはこれからの目的地を伝えた。情報の伝達者は怪しいが、その情報自体は多少曖昧だが信頼してもいいだろう。他に手がかりもない。
紅の絆傭兵団を捕まえ、魔核を取り戻す。そのために、北西にあるカルボクラムへ向かうことになった。その前に一先ず休息を取ろうとの意見で一致して、一向は宿屋に戻った。道中、口数の少ないセシリアにリタが近づいてきた。
「あんた、あのおっさん殴っといてくれた?」
「あー、上手く逃げられちゃった」
まったく癪に触るおっさんね! とリタは髪を掻き毟った。そのまま拳を作り、きっとセシリアを見上げる。
「今度会ったら絶対燃やしてやるから、もしもあんたが見つけたら、絶対逃がさないでよ。いい?」
「オッケー。不意打ちしてやるわ」
そのままじっと見上げてくるので、セシリアは面食らう。何、と聞こうとしたところリタの方が先に口を開いた。
「いい? 罪には罰を。あたしだって、許したわけじゃないんだからね」
翠の瞳には、深い怒りが燃えていた。そこに、自分の中で煮え滾っていたものと同じ熱を感じて、セシリアははっとした。
「……うん。許したら、いけないよね」
「だから! 勝手な真似しないでよ」
ふいにセシリアが足を止めたので、どうしたのよ、とリタは振り返る。セシリアは目を丸くして、リタを見ていた。
「……な、なに?」
「ううん。……ありがとう」
「なっ」
唐突に笑みを向けられて、リタは怒鳴るように言い捨てた。
「何言ってんのよ気持ち悪いわね! あたしは、ただあたしが殴る分も残しといてって言ってるだけだし!」
「そうだった?」
「そうに決まってるでしょ!」
他に何があるのよ、と鼻白む顔は真っ赤だ。セシリアはそんなリタの意図をまるで汲んでいないかのような笑みを向けた。
怒りながら早足で追い越していってしまったリタの背中を見送るころには、その笑みは消えていた。