幻想小夜曲
「薔薇がお好きなの?」
精市が問うと、相手は狼狽した様に、ただ笑みを作った。
申し訳ありません、と謝る理由も無しに頭を下げる彼女に、もしかしたら何か嫌なことが合ったのかも知れない、と幼心に思う。
何処と無く、寂しそうな笑顔である。
「薔薇がお好きなのだったら、一輪手折れば良いよ」
一面に咲き誇る薔薇は彼の母親が大切にしている物だったけれど、わざわざ許可を得る必要も無い。
花は人を―特に女性を―笑顔にする力を持っているのだと、彼は信じている。
しかし、彼女は更に困った様に眉を下げて、勿体無い…等と口籠るばかりだった。
益々彼女の機嫌を損ねたらしいことを見て取った聡い少年は、それじゃあ、と機転を利かせる。
「ぼくの為に一輪手折って下さい」
それは命令であった。
漸く彼女はぎこちない手付きで先程まで一心に見詰めていた特に見事な茎を細い指で掴み、器用に棘を避けながらぽきりと小気味良く折り取った。
白い絹のような花弁から、雫が一つころころと滑り、彼女の肌で弾けた。
丁寧に茎から棘を外してから、彼女は精市に花を差し出した。
柔らかな花弁は少しも傷んでおらず、今朝方花開いたばかりと見受けられる、無垢な色をしている。
精市は愛しい物を扱う手付きで受け取り、また彼女に差し出し返した。
「貴女に差し上げます」
こうすれば受け取って貰えると思ったのだが、矢張り彼女は如何すれば良いか判らないと云った面持ちで、受け取れません、と云った。
折角の好意を無駄にされた様で、相手と自分の立場の相違がそうさせているとは判っていても、良い加減まどろっこしかった。
「ぼくが勝手に差し上げたいのです。変な遠慮は為さらないで下さい」
少々乱暴に花を押し付ければ、慌てて彼女はそれを受け止めた。
精市は、彼女の胸に抱かれた薔薇を見て、満足に笑う。
「それじゃあ、またね。新人さん」
彼女は機械仕掛けのバネが弾けた様に腰を曲げ、有り難う御座います、と云った。
薔薇の園を吹き抜ける風は、甘い香りを重たい程に染み込ませ、蒼天の向こうへと抜けて行った。
「なまえ」
「何で御座いましょう」
主人の呼び声に、彼の側仕えは如才無く応える。
精市はふい、と窓の外に目を向けて、今日の天気は良くないね、等と嘯いた。
「左様で御座いますね」
丁度良い呼吸で、彼女は淡々とそう云う。
明日も晴れないかな、と一人呟きながら、精市は椅子に腰を下ろし机に伏せた本の続きに目を通し始めた。
「明日は出掛けなくちゃならないから、こう鬱屈とした天気だと気が滅入るね」
左様で御座いますね、と彼女は先程と同じ調子で繰り返した。
壁際に直立不動できっちりと手を重ねた影は、人形であるかのように微動だにしない。
精市は退屈な文字列を追う作業に没頭仕切れず、早々に本を放り出して、些か行儀悪く肘を付き、組んだ手に顎を乗せた。
「お勉強に集中出来ませんか」
「そうみたいだ。気分転換をしたいな」
「今日は天候が優れませんが」
怪訝に云うなまえに笑って、今日はいいんだ、とさっさと部屋を出て行ってしまう。
勉強が詰まったり、気分が塞いだとき、精市は決まって気分転換に庭に出る。
庭師が土を弄っていればそれを熱心に見物し、そうでなければ本で得た植物についての知識をなまえに話して聞かせた。
この日の空は今にも零れ落ちそうに重く垂れ籠めた雲に覆われ、世界を陰鬱に見せていた。
「ああ、矢張り降りそうだ」
湿った空気を味わい、精市は何故か嬉しそうに云った。
「久し振りの恩恵だ。彼等も喜んでいる様じゃないかい」
確かにしっとりとしなだれた深緑の艶は、冷たい雨に打たれるのを待ち侘びている様にも見えた。
「健気なものだね」
本当に、植物を愛しそうに見る人だと思う。
どんな花も恥じらいに萎んでしまいそうな造形をして、草木をさも優しく見詰めるのだ。
「おっと、もう泣き出した」
ぽつんと雨粒がなまえの鼻先に当たった。
「ねえ、雨の最初の粒を飲んでみたいと思わない?」
そう云って笑う表情は酷く無邪気だ。
「他と味が違うなら、舐めてみたいもので御座いますね」
「きっと甘いよ」
少しずつ勢いを増す雨に、二人は来たばかりの道を早々に引き返すことを余儀無くされた。
昔一度、精市は雨の中を濡れるのに頓着せず、庭に居座り続けたことがある。
服の中まで濡れて、骨まで凍えたから翌朝には体調を崩してしまった。
それは当然のように、なまえの責任になる。
精市は程無く自分の愚行で彼女に害を及ぼしたことを知った。
以来彼は、自分の行動が周囲に与える影響に対して、余計に敏感に、慎重になったとなまえは見ていた。
湿った芝生を踏んで、屋根のある場所まで来る。
幸い雨は小降りで、髪に水滴が付着する程度だった。
「ただいま布をお持ち致します」
なまえは云って、直ぐに屋敷に入ろうとしたところで濡れた敷石に足を滑らせた。
「……危ないな」
倒れる前になまえの身体を精市が支えた。自然なまえの身体を抱き込む様な形になる。
「床が濡れているね」
「御手を煩わせてしまいました。申し訳御座いません」
すと身体を離し、なまえは深々と頭を下げ、今度は転ばぬ様に踵を返し、屋敷に消えて行った。
精市は先程まで温もりを抱いていた腕に目を落とす。
「女というのは、まるで花のように軽くて、柔らかいものなんだね―…」
降り頻る雨はあくまで優しく音すら立てず、渇いた葉を湿らした。
その話を精市が知らされたのは、屋敷に居る人間の中で最後だった。
「誰の紹介だっけ?」
「私の叔母で御座います」
「そう。随分唐突だね」
「そういう物だそうで御座います」
「成る程。相手はいい人なんだね」
「……はい」
はきはきと答えていた調子が、一瞬だけ崩れた。
そう、と精市は笑う。
「それなら良かった。お目出度う」
有り難う御座います、となまえは腰を折る。
「貴方様に御仕え致しましたことは、このなまえ、一生の誇りで御座います―…」
まるで今日にも嫁いで行く様な挨拶に、まだ早いよと精市は笑った。
「いつ、辞めるんだい」
「詳しい日は、未だ」
「そう。だったらそれ迄は今迄通りで、ね?」
「……畏まりました」
うん、と頷いて、ふと精市は遠い目をする。
目前に居る人物が、夢の向こうに立っているかの如く霞んだ様に見えた。
「貴女が居なくなると、寂しくなるね」
なまえはただ、左様で御座いますね、と云って目を伏せた。
黒い睫毛には不安と期待、幾許かの哀しみが揺れていた。
その話を知らされたのは、今回も精市が最後だった。
精市の前に立ち、経過を報告するなまえの態度は普段と何ら変わらない。
「どちらからだっけ?」
「先方からで御座います」
「それは……、残念だったね」
「……はい」
流石にその声は沈んでいた。
無理もない。
普通ならばもっと取り乱すだろう処を、彼女は気丈に振る舞ってみせる。
だから精市は敢えて明るい声音を作った。
「じゃあ、今迄通り、宜しく頼むよ」
「……私の方こそ、どうか今一度、貴方様に御仕え致しますことを、御許し頂きますよう」
「ああ。……こんなことを言うのは不謹慎だけれど―…」
貴女が止まって呉れて、嬉しいよ。
その時彼女の表情は確かに揺らぎ、安堵と歓びがその瞳孔にちらついた。
勿体ないお言葉に御座います―…と、矢張り彼女は頭を下げた。
「なまえ、未だ時間は有るかな」
「いいえ、お急ぎ下さいませ。もう、直ぐに―…」
「――貴方、時間ですわ。何を手間取っていらっしゃるの?」
開け放たれた扉から飛び込むなり、上着を着掛けの精市に不機嫌な声を浴びせた。
華やかなドレスに身を包み、ドレスに合わせた流行の帽子を被って、既に準備万端といった様子だ。
「真璃子。もう少し待ってくれ」
「申し訳御座いません、奥様」
なまえは上着を着た精市に帽子を渡す。
精市は鏡も見ずにさっと被り、では行こう、と妻の腕を取った。
「行ってらっしゃいませ、旦那様、奥様」
「ああ、行って来るよ」
あれから数年後。
精市は生まれたときから定められていた婚約者を娶り、父の跡を継いだ。
なまえは一度縁談を破談されて以来一度も見合いはせず、彼の側仕えとして歳を重ねていた。
主人の居なくなった広い屋敷を、今度は主人を迎える為に整える。
そうして、恐らくは死ぬまでここで働いて行くのだろうと、なまえは漠然と思った。
「貴女、幾つのときから此処にいらっしゃるの?」
或る日の昼下がりのことだ。
嫁いで間も無い真璃子と、一度だけ二人きりになったことがあった。
「……いいえ、教えて下さらなくて結構よ。そうね、貴女が此処に居るのは、私よりも短い時間ですわね」
「はい。おっしゃる通りに御座います」
真璃子は白磁のカップを持ち上げて、茶色の液体を見詰める。
「私は幼い頃から精市さんとは懇意にさせて頂いていましたわ。生まれたときから私には精市さんが居て、精市さんが全てだった」
美しく大切な詩を暗誦するかの如き口調で真璃子は云った。
「あんなに素敵なお方、他には居ないと思いませんこと」
「……唯一無二の、御立派な御方と存じます」
「そうね、そうよね。私時々不安なのですわ。彼の方は私には遠すぎる気がして」
まるで此処ではない何処かを見ていらっしゃるよう。
なまえは真璃子の独白をただ黙って聞いた。
話している内に、紅茶はすっかり冷めてしまった。
なまえに二度目の縁談が持ち上がったことは、直ぐに精市の知る処となった。
今度の相手は最初の相手よりも良いらしい。
精市は百合が風に揺れるのを見ながら、なまえの報告を聞いていた。
「……貴女はその縁談を、受けるんだね」
「はい。結果は判りませんが、お受けするつもりで御座います」
「良い条件なんだね」
「はい」
「そこへ行けば、貴女は仕合わせに成れるんだね」
「……」
なまえからの返事はなかった。
精市は百合から目を上げ、なまえを正面に見る。
なまえは真摯にその顔を見詰め返した。
その顔には確かな覚悟が宿る。
「……はい。仕合わせに成れます」
「……本当かい?」
揺るがない彼女に相反して、精市は微笑んだまま、泣きそうに眉を寄せた。
「ねえ、貴女は知らないでしょう。前回の見合いが破談に成ったのは何故か」
「……旦那様」
「本当は言わぬつもりだったけれど、教えてあげよう。あれは、俺が手を回したのさ」
「、何をおっしゃります」
「本当だよ。あのとき貴女を失わない為には、ああするより他に無かったから」
「っ、」
饒舌に語る主人の笑顔に、なまえは恐怖したかの様におののき、僅かに身を引いた。
「ずっと貴女に側に居て欲しい―…それは俺の我儘で、それを貫けば貴女を苦しめるより無かったから、だからずっと言わずに来た。けれど……」
「……それ以上は、どうか」
「止めないよ。今言わなければどうかなってしまいそうだ。拒まないで、聞いて欲しい。俺は、貴女を失いたくない」
積年の想いを、精市は酷く苦しそうに吐き出す。
なまえは青褪めながらも、目を見開いて、じっと精市を見ていた。
「ねえ、俺が地位も財産も家族も何もかもを全て捨てると云ったら、貴女は俺の物に成って呉れますか」
ああ、となまえは吐息を漏らした。
余りの熱さに胸が震えた。
自分だけを見詰める瞳、燃え尽くすまでの情熱、ずっと焦がれ続けて来た全てが今なまえの物に成ったのだ。
ただその想いが欲しかった。
その言葉を聞きたいと渇望していた。
叶うことなど有りはしないと、絶望すら抱けない程に知っていたから。
「……いいえ」
なまえは、震える心を宥めながら、ゆっくりと答えた。
「私等の為に、その様なことをおっしゃるのはお止め下さいませ。私は、今の旦那様を御敬愛申し上げておりますから」
だから、となまえはそれ以上言えなくなる。
白い頬を涙が伝った。
見詰め合った侭、精市は彼女を抱き寄せ、唇を重ねた。
柔らかく吹く風が百合を靡かせ、二人を包んで抜けて行った。
数日後、なまえは夫の家へと嫁いで行った。
その日迄二人は互いに必要以上に会話をすることも無く、その後も夢にすら出会うことは無かった。
或る時空、或るお屋敷での、有り触れた物語である。
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