▼ 情け
「で、別れたと」
机に突っ伏して支離滅裂に騒ぐ名前の話をなんとか自分の中で整理し、だいたいの事情を把握する。
「本気にしたんだ? とか言われたってさー! 本気にしないでどうすんのよ! 彼女よ!? ずっと一緒にいたいな〜とか、子供っていいよね〜とか、最近一人で家にいると寂しくて……とか言われたら考えるじゃん!?」
「そこで逆プロポーズするあんたはなんつーか、男前だわ」
皮肉ではなく割りと真面目に言うと、それ言わないでと蹴られた。
「じゃあ結婚しよっかって確かにちょっと私も軽めだったけどさぁ、本気じゃなきゃ言わないに決まってんじゃないの。それをさぁ、えー結婚とかやだしもっと遊んでたいとかふざけてんのって感じじゃん!」
「付き合って何年だっけ?」
「三年! 何がちょっとそういうの重いよ、普通でしょ! あんたが淡白すぎるっつの! 人の思いをバカにして! むかつく!」
「物にあたんなよ」
机の上の分厚いバインダーに目をつけてバシバシ叩き始めたので一応窘めておく。エスカレートして手当たり次第に物を投げ出し初めたらたまったもんじゃない。
「ま、そこはあんたの美徳っしょ。何にでも真面目で、素直で、真剣に向き合ってさ」
全力でぶつかって、玉砕して、全力で泣く。
あんまりに無防備であけっぴろげで驚くぐらいのタフネスさだ。
そんなにもあけすけでいられるのはどうしてなのか、心底謎だ。
自分には絶対、真似出来ない。
「要するにバカって言いたいんでしょ」
目を真っ赤にして仏頂面をする。
「その顔、すっげーブス」
からかったらまた蹴られた。脛を的確に狙うとか勘弁しろ。
しかもやめない。
「いてっ、痛え、やめろ、自分に八つ当たりすんな。残業しながら愚痴にまで付き合って同僚のメンタルを気遣ってやれる心優しい友人を足蹴にすんのか!?」
「メソメソして鬱陶しいからさっさと立ち直れってだけでしょ」
「わかってんなら陰気にしてんのやめろ。あんたがそんなんだと調子狂うんだって。こんな真夜中に無言で要らない書類をひたすらハサミで可能な限り細切れにされたらこっちまで気が滅入るっつーの」
「これでも我慢してるの」
確かに普段はいつも通り振る舞っている。グチグチしだすのは自分以外の人間がいないときだ。要するに自分に甘えている。溜め込んだ鬱憤小出しにして同僚を蹴りつけるより、飲み友達でも作って一晩飲み明かして存分に女同士で愚痴れと言いたい。
「なんでこうなったんだか、もう。結構好きだったはずなのにもうなんかどうでもよくなってるしさぁ。自分が信用ならなくなるよね」
「目が曇ってたんだろ。あばたもえくぼってヤツ。見る目ないねぇ」
「反論できないじゃん。正論やめて」
「暴論やめろ」
まっすぐすぎるゆえに、その言葉は遠慮なく相手の心に突き刺さる。それを敬遠してしまう人間がいるのもわかる。たまの休日に会うだけなら顔の可愛さと胸のデカさに免じて許すこともできるだろうが、四六時中一緒にいるとなれば窮屈さを感じるだろう。
「……いいんじゃねえの。夢から覚めて、現実には大した男じゃないってわかったってだけじゃん。そのまんま、忘れちゃえば」
名前は机に上体を凭れさせた姿勢のまま、自分を見上げてきた。どちらも目を逸らさないから、なんとなく見つめ合う格好になる。
先に逃げたのは自分の方だった。
名前も机から起き上がり、伸びをした。
「それもそうかもね。うん、忘れることにする。だいぶすっきりした」
ようやく気持ちを切り替える気になったらしい。
「というわけで、フリーです」
「これで心置きなく仕事に集中できるな。ほい手動かせ」
「はい先生」
やけに物分りよく首肯いて、名前は肩を回すときびきび働き始めた。本当にこれで一区切り着いたんだろう。自分は部屋を出て、コーヒーを二つ買う。
顔洗ってこい、と言いそびれた。まだ目元が赤い。机に突っ伏していたときのむき出しになっていた白いうなじがまだ瞼にちらつく。
まったく、一人ですっきりしやがって。こっちは全然仕事できる気分になれねえってのに。
フリー宣言とかするんじゃねえ。
口説きたくなるだろ。
もやもやしたものをなんとか押し殺し、仕事場に戻ると名前はもうほとんどいつも通りだった。コーヒーを机に置き、自分もパソコンに向かう。しばらくお互い、無言で作業をしていた。名前が缶のプルを引き、コーヒーを流し込む音が妙に大きく聞こえた。
集中はできていなかった。それでもとにかくやるべきことを終えるまで、ここから出られないから一刻も早く終わらせようと気ばかり焦った。
ふと、名前が隣に立って、書類を差し出してきた。
「はい、これ終わった」
「ああ。やっとか」
「ごめん。色々気使わせて」
「……何殊勝なこと言ってんだよ。らしくねえな」
「こんな話聞いてくれるの、九条くらいしかいないし。お陰で立ち直れた。ありがと」
この素直さだ。
まっすぐに好意を向けてくる、その無垢さが、自分は怖い。
自分はそれに値する男じゃない。
期待してはいけない。
――自分は結局、傷付けることしかできないんだから。
書類を受け取り、にやりと笑みを作ってみせる。
茶化して、不真面目にからかって、その真面目さを冗談に変えようと、道化じみた反抗をする。
「惚れちゃった?」
「まあ実際、良い奴だと思うよ」
「嬉しいねぇ。もっと褒めてよ」
「曇った目で見てたから、正直もっと適当なヤツだと思ってた」
「おいおい、ひどいなぁ。いい男が案外近くにいたってこと、ようやく気付いたか?」
軽口で武装するつもりが、これじゃ敵前に生身を曝け出してるようなもんじゃないか?
焦りつつも、この口は止まらない。
名前は否定もせず、意味ありげに微笑んでみせた。
「それはこれから、確かめようかな」
それとも遠慮するべき相手がいるかな、と聞いてくるので、つい、嘘を吐く。
「こんないい男、ほっとかれてるわけないでしょ」
「そりゃそっか。残念」
冗談にしても、期待させるようなことを言うのは止めてほしい、と自分のことを棚に上げて奥歯を噛んだ。
「じゃあ、これからも同僚としてよろしく」
す、と一歩退く彼女はよく弁えていた。突き放したのは自分なのに、実際に距離を開けられると拒絶されたようで苦しくなった。
自分は、バカか。
これでいいんだ。ただの同僚。それ以上のもんになんか、なれるわけがないんだから。
自分に、彼女を愛する資格はない。
「九条も、振られたら遠慮なく泣いていいからね。私が存分に慰めてあげるから」
「さっきまで泣いてた女の言うことか?」
「はっはっは、一分前のことなんか忘れたね」
「羨ましいぜ、その単純さ」
「むっ。そういう九条は案外繊細だからな。もっと図太く生きればいいのに」
「は? 自分が繊細?」
唐突に思いもよらないことを言われる。開き直ったのか、自分を見る名前の眼差しには涙どころか、余裕すら浮かんでいる。
「意外に気配り上手。これでも九条のことよく見てるよ」
「……えー、マジで。そんな熱視線向けられてた?」
「色々抱え込んで、大変そうだなぁって思う」
「……そりゃ、どーも」
そういうことを真顔で言われると反応に困る。かなり。
「ま、だから愚痴ってよ。私、聞き上手よ」
「……いや、愚痴はねぇし」
「ないのかい」
そこはお礼言うところでしょ、と名前は脱力する。
ダメだ、負けた。
観念して、白状することにする。
「彼女、いねぇし」
沈黙。
やめてくれ、自分痛いヤツみたいになってるじゃねえか。
「釣られちゃった? いやー引く手数多には違いないんだけどさ、一人に絞るのは苦手っつうか? 仕事人間だし?」
「……ほう」
言い訳が苦しかった。
名前の笑うでもない嘆息にいっそ殺してくれと思う。
「……良いことを聞いた」
そう呟いて席に戻る。会話はそれっきりになった。
もはや仕事どころじゃないのにお互いいままでにないくらいに至極真面目に、これ以上ないくらいに集中して、仕事を終わらせた。
自分に、そんな資格はない、んだが。
押し込まれたら、受け流せる自身は、ない。
何年片思いしてると思ってんだ。
なんとも情けない話だった。