▼ 06.Abandoned hospital
その病院は、閉鎖されて十年は経っているのではないかという荒れっぷりだった。
「ここだよ〜!」
と迷わず錆びついたドアを開けようとするポッピーの手を思わず引っ張って首を振る。
「ここ人の住むとこじゃないよ、荒れすぎだよ」
「住んでるんだよー! 中は意外と綺麗なんだよ?」
「そういう問題じゃ……! というか、気になってたんだけど!」
私は病院の敷地から、門の外へ目を向ける。道路はどこかへ続いている。でも。
私はそこを、歩いてきた記憶が……ない。
気がついたらここにいた。
まるで、ゲームの場面転換のように、数行の説明だけで実際の動作を伴わず、別の場所に移動してしまった、とでも言うような。
「なに?」
「……なんでもない」
そんなバカな。
きょとんと目を丸くして小首を傾げるポッピーの桃色の髪の毛先が肩で跳ね、頬に掛かるそのディテールはとてもリアルだ。掴んでいるポッピーの手は温かくて、柔らかい。肌なんかすべすべで滑らかだ。
そんな実在感たっぷりの相手に、こんなバカげた話をして、理解してもらえる自信がなかった。だってポッピーは何も不思議に思ってない。
……たぶん、タクシーで来る途中で寝ちゃって、記憶が飛んじゃったんだ。
それだけだ。うん。
「さー、いっくよー!」
「やっぱりちょっと待ってー!」
それとこれとは話が違う。目の前の廃病院の窓の割れ方、黒く汚れた壁に垂れる錆や染み、どう考えてもお誂え向きすぎる。
「だーいじょうぶ、怖くないよ! まーちょっと目つきは悪いけど、案外いいやつだから!」
「誰の話だよ」
「おわぁ!」
後ろから声がして、思わず声を上げてしまった。恐怖に身体が固まる。
本当に出た!
待って、落ち着いて、違うよ、よく思い出してみると、男の人の声だった。
こういうところに出るのは女の人とか子供だって決まってるから、男の人の声ってことはつまり生きてる人間に違いない……!
コンマ数秒の間に思考をフル回転させて自分を奮い立たせ、恐る恐る振り返ると、
そこにはジャージを来た男性が立っていた。
「ああ、やっぱり……。ジャージ来てコンビニの袋持ってる幽霊なんかいないもんね……よかった!」
「誰が幽霊だ」
あ、声に出てた。安心し過ぎて気が緩んだ。
その人は背が高かった。白髪交じりの黒髪が少し異様だけれど、ちゃんと生身だし、足もある。コンビニの袋にはペットボトルと肉まんの袋が入っているのが見えた。
「おい、人んちの前で騒いでんじゃねえ。さっさと帰れ」
「やっほー、大我、久しぶり!」
「話を聞け」
ポッピーは誰に対してもこんな感じらしい。
仏頂面の男性に、ポッピーは挨拶をしてみせ、私の肩をぐっと抱き寄せた。
「今日はこの子を紹介しにきたの。名前だよ! 社長が新しく雇った助手さん!」
「俺には関係ねえ」
男性は私を一瞥して言い捨てた。
それほど心強くない私はいますぐに帰りたくなった。
はい今すぐ帰ります騒いでごめんなさいと謝って潔く引き下がるのが、この人の信頼を得る一番の方法じゃないだろうか……!
「待ってってばー。最近、変身したあと不調感じたりしない?」
「……ねえな」
「あるってば! そういうときのために! じゃじゃーん! 助手さんがいるんだよー!」
ぐいぐいとポッピーに押され、逃げ場のない私。
男性にすごく怪訝な目で見られるのが辛い。ファイルを持ち上げてその影に隠れつつ、マニュアルを見せて説明を試みる。
怖くても、これが私の仕事だ。ちゃんとこなさなくちゃ。
でも説明したあとで相手に断られたら遂行できなくったってしょうがないと思う!
「あの……メンテナンスです……デバックとか……します」
緊張で舌が回らなすぎた。自分の臆病さに嫌気がさす。
男性に舌打ちされた。当然の結果だと受け止め……たいけど、辛い。
「そんなもん、今までやってなかっただろうが。アップデートは自動だろ」
「総データ容量増えてるし、複雑になってきたからそれじゃおっつかないんだって」
「ふん」
「永夢だって名前がぱぱぱーのくるくるーって調整して、ちょー調子よくなってたんだよ!」
「必要ねえって言ってるだろ。帰れ。今後一切勝手に敷居を跨ぐな」
男性は一方的に吐き捨てると、私を押し退けるようにして廃病院の奥へ大股で去っていってしまった。押されてよろけた私をポッピーが支えてくれる。
「ごめん〜、名前。大我、ちょっと虫の居所が悪かったみたい」
「ううん、急いでたのに引き止めたから、しょうがないよ。肉まん冷めちゃったらもったいないもんね」
廃病院に電気が通ってるとは思えないし、温め直すのは難しいと思う。
肉まん? とポッピーは眉を寄せた。
それにしても、あの態度は虫の居所がちょっと変わったくらいで治るとは思えない。
「あの人も仮面ライダー……なんだよね?」
「花家大我っていうの。仮面ライダースナイプに変身するんだけど……。ま、細かいことはおいおいね」
「おいおい?」
なんだろう。ポッピーに話を逸らされた気がする。どうしてこんなところに住んでるのかとても気になるんだけど……。
「んじゃ、気を取り直してブレイブいってみよー!」
「ええーっ!」
花家さんほどじゃないにしても、鏡さんもなかなか手強そうだったことを思い出し、暗澹とした気持ちになる。永夢くんと別れたばかりのときならまだしも、花家さんにきっぱり拒絶されたあとだとなぁ……。
そんな私にお構いなく、ポッピーは病院に取って返した。