▼ 第三十四話 侵食
積み上げられた書類やファイル、本、雑誌。それらに埋もれるように、名前は資料を読み込んでいた。時折ページを写真に取り、データとして保存する。大地はいつも通りスパークドールズの様子を見に行っているため、エックスは名前の机の上に置かれたエクスデバイザーから、名前の仕事を眺めていた。名前は興味を持った部分をエックスに話しながら、資料をまとめ、分類していた。
「これはカンボジアの怪獣についてね」
「名前」
「湿地にいる小型怪獣の親子の写真だわ。小さすぎて不鮮明だけど、既存の動物とは明らかに違う形をしているわね」
「そうだな……。もう少し近づけてくれるか?」
「これくらいで見える?」
「もう少し」
「こう?」
名前はほとんど画面を覆うくらいにファイルを近づける。
「見えないな」
「近すぎたかしら」
名前は少しファイルを離して、エクスデバイザーの角度を調整する。
「……やっと、こっちを見た」
「え?」
すると、エックスが声音を変えて、名前を見つめた。名前はどきりとして、思わず顔を背ける。
「ほら、そうやってさっきから、こっちを見ないだろう」
「さ、作業中だから……」
「それはわかっている。だが、君の声ばかり聞こえて、顔が見えないのはいやだ」
「え、エックス。違うの」
「何がちが」
「よう! 名前!」
「きゃあ!」
突然デバイザーからエックスとは違う明るい声が飛び込んできて、名前は椅子からひっくり返りそうになった。
画面はエックスではなくウルトラマンゼロが一杯に映っていて、驚いた様子の名前に口先だけで悪い悪い、と謝った。
「どっ、どうしたの?」
「いやぁ、パトロールのついでさ。名前がそろそろ無愛想なこいつに飽きてき」
「余計なお世話だ!」
エックスの怒った声と共にゼロが画面の外へ弾き飛ばされ、再びエックスの絵が映った。心なしか、眉間にシワが寄っているように見える。
「名前、今ゼロのことは真っ直ぐに見たな」
「えっ?」
「目を逸らさなかった!」
「えっ、えっと」
エックスに詰問され、名前はまた目を泳がせる。
「何すんだよ!」
「邪魔をしないでくれ、ゼロ。今大事な話をしているんだ!」
「名前、困ってるじゃねえか。落ち着けよ」
「私は冷静だ!」
青筋を立てていそうな声で言われて、ゼロは肩を竦める。
「だって……」
ついに、名前は観念したように、小さな声で話し始めた。
「なんだか恥ずかしくて……」
「恥ずかしい? 何が恥ずかしいんだ? 私は」
「はいはーい。はい。ちょっと黙れ」
「こら押すなっ」
名前の言葉にかぶせるように矢継ぎ早に質問するエックスをゼロは再度枠外へ押しのける。腕を突っ張ってエックスが戻ってこれないようにしながら、ゼロは名前を見上げた。
「名前。案外こっからの視界って狭いんだぜ」
「ゼロ……。そうなの?」
「だから……さ」
ゼロは声を潜め、ちょいちょい、と名前を手招きする。名前はそっとデバイザーの上に屈み込み、耳を傾ける。
「そうそう、それくらいの位置が良い。目線はこっちな。ほれ」
「うわっ急に離すな!」
ゼロが腕の力を抜いた途端、エックスが倒れ込むように画面に戻ってきた。
「あっ」
「名前……」
さすがにもう目を背けられなかった。名前とエックスは見つめ合ったまま硬直する。
「悩み事はちゃんと話し合えよ〜。じゃあな」
ゼロはそう言って去って行ったようだったが、二人の耳にはほとんど届いていなかった。
「……心拍数が、上がっている。体温も上昇しているし……。私のせいで、困らせているだろうか」
沈黙を破ったのはエックスだった。名前は眉を下げて、ゆっくりと瞬きをした。そして、改めてまっすぐにエックスを見つめた。
「いいえ。これは……照れてるの。あなたを見つめるだけでこんな風に心拍数が上がってしまって、頬が熱くなる……。それが、恋をしている人間の反応なの」
「そうなのか?」
「息が詰まって、胸が苦しくなってしまうから……。だから、あまり見つめないようにしていたの。それに……一度見つめてしまうと、目がそらせなくなって、作業にならなくなっちゃう」
最後には茶化すように名前は肩を竦めてみせた。名前の素直な気持ちを聞いて、エックスは深く得心した様子だった。
「そうだったのか……。君に苦しい思いをさせていたのに気付かかなくて、すまなかった。君の側にいられる間くらいは、とつい甘えていたかもしれない」
「甘えるなんてそんな! 謝らないで。エックスは悪くないの。私が勝手にときめいてるだけだから!」
「ときめくという症状はそんなに辛かったんだな! これからはもう少し我慢しよう……。だが、そうだな……5秒くらいなら、どうだろうか?」
エックスが一生懸命名前のためにどうすればいいのか考えてくれているのが伝わってきて、名前は顔を綻ばせながら、目尻に滲んだ涙を指先で拭った。
「それにしても、あいつは何をしに来たんだろうな」
「あ、ゼロはもう帰ってしまったの?」
「ああ。本当に邪魔だけしに来たんだろうか」
「いい人よ」
「まあ、今回は……。意外と空気を読んでいたな」
「ふふっ」
名前がころころと笑い声を上げると、エックスも目元を和ませた。
二人の様子を成層圏で見守っていたゼロは、やれやれと首を振る。
「ごちそーさん。甘すぎて毒だぜまったく。大地にも挨拶しようかと思ったがあそこに戻りたくねえ」
「おい、ゼロ! 地球に降りねえのかよ」
宇宙の方から、ゼロに向かって赤い影が降りてきた。ゼロは彼を見上げ、片手で静止すると、彼の方へ飛び上がった。
「やめやめ。また今度にしようぜ」
「なぜです。せっかく立ち寄ったのに」
緑の影が不可解だ、とばかりに言い募る。彼の後ろにはさらに、二つ影があった。
「いーから、行くぞ!」
ゼロはそう言いながら、一気に加速した。ゼロを追いかけ、4つの軌跡が地球から離れていった。
そんなやりとりを知るよしもないエックスと名前は、なんとなく甘い空気を漂わせたまま、また作業に戻っていた。
名前は先程までとは違い、エックスに話しかけながら、ときおり目線を本から上げて、エックスに微笑みかける。初めは5秒ルールを気にしていたエックスだったが、次第に名前がすぐに本に目を戻してしまっても気にならなくなっていた。彼女の気持ちは、もう充分わかっている。
「タイにも今度行ってみたいわね」
「巨大な猿に似た怪獣か。どんな奴だろうな。ん……? 名前、危ない!」
エックスの警告と同時に、左側に積んでいた書類の塔が崩れた。名前は咄嗟にエクスデバイザーを掴んで床を蹴り、後ろに下がる。雪崩は机の上からばらばらと下に落ち、隣の塔を二つほど巻き込んでから止まった。
「……積みすぎたわ」
「そのようだな」
「名前さん、すごい音したけど大丈夫ですか」
顔を出した大地にも手伝ってもらい、名前は塔を小分けにして、先程より低く積み直す。机の上の作業スペースが小さくなってしまったが仕方がない。
「一部は別の場所に移したらどうですか?」
「今日中に終わらせるから、動かすと無駄に時間がかかっちゃうわ」
「この量を今日中に?! 無茶な」
「名前は読むのが速い」
「なんでエックスが自慢げなんだよ」
突っ込みながら、エックスの声がした方に大地は目を向けてぎょっとした。タイトスカートに包まれた名前の太ももの上にエクスデバイザーが置かれていた。
「って、エックス、そこ……!」
「ごめんなさい、置く場所がなかったから」
「このままでかまわない。君の声が近い」
色々近すぎないかと突っ込みたかったがセクハラになりそうだったので口を噤んでしまう大地だった。
「あ、メール。ようやく来たわ」
ノートパソコンの画面を除いて、名前は嬉しそうに返信を初めた。
「なんのメールですか?」
「今、日本各地で不審なUFOの目撃が相次いでいるの。それについての続報よ」
「不審なUFO?」
同型の宇宙船が複数回、これほど広範囲で見られることは今までなかった。おそらく、発見されている分の三十倍は飛来してきていると考えられると名前は言う。さっきまでの甘いムードはどこへやら、仕事のスイッチが入ったらしい。液晶を見つめる横顔は真剣だ。
「このサイズが本当なら、相当小柄な宇宙人ね。発見するのは難しいか……」
「目撃時刻が朝方から昼に集中しているのも不思議だな」
エックスの声音もキリッとしている。しかしこちらはまだスカートの上なので少々威厳に欠ける。
「夜の方が目立ちそうなのに、報告はゼロなんですね」
大地が感想を伸べるが、名前の返答はなかった。エックスの声も届いていないらしい。名前は顎に手を添えて考え込んでしまった。
そのまま足を組もうとして、ようやくそこにエクスデバイザーがあることに気付く。名前はデバイザーを大地に返すと、ノートパソコンを閉じて鞄に書類を詰め始めた。
「各地に潜伏しているなら厄介だわ。どんな種族で、何が目的なのか突き止めなくちゃ」
「名前、一人では行動するな」
不意に、エックスが真剣味を帯びた声音で忠告する。
「相手はかなり慎重に事を進めている。探ろうとする動きには敏感なはずだ」
「……ええ。気を付けるわ」
名前は知り合いの宇宙人を訊ね、不審宇宙船について聞いてみると言った。
「書類はそのままにしておいて」
「これをこのまま? でも」
颯爽と出ていってしまった名前の後ろ姿を見送ることしかできず、大地は名前の机を振り返った。
また雪崩が起きそうだ。
「名前は何事にも一途に取り組む」
「だからなんで誇らしげなのさ」
あ、いってらっしゃいって言うの忘れたな。
大地はぼんやりとそんなことを思った。