▼ 幻明りて夢なお黎く

 全部、嘘だった。
 彼から貰った言葉、仕草、表情、思い。
 ひとつだって真実はなかった。
 すべては野望のためだけに、そのためだけに、あなたは生命すらも捧げていた。
 私には、あなたの心は一欠片だって、手に入らなかった。
 嘘でも本当でも、そんなことはもうどちらでもよかったのに。



「名前さん」
 初めて声を掛けてきた彼は、洗練された年上の男性、という印象だった。何度かパーティで会ってはいたけれど、挨拶を交わすだけで会話をしたことはなかった。三度目の立食パーティで、ちょうど一人になっていた私のところへ、彼が話しかけてきたのが始まりだった。
 今日のパーティの主役のことや、お互いの仕事のことを軽く話して、彼は本題を切り出した。
「実は、今までもあなたに話しかけたいと思っていたんです」
「まあ、そうだったんですか? 気が付かなくて」
「機会を伺っていたんです」
 彼は少し茶目っ気を見せて、片目をつぶって笑ってみせる。
「私も、ゲーム会社の社長と伺って、興味があったんです」
「本当ですか? うれしいですね。もしよろしければ、今度我が社へいらしていただけませんか? 私の作ったゲームを紹介させてください」
 私は音楽に打ち込んできたので、ゲームはほとんど遊んだことがなかった。だから彼の話は初めて聞く事ばかりで、面白くて、気がついたら夢中になっていた。
「こんなに小さなゲームがあるんですか?」
「ええ。この小さな卵を育てるんです」
「わあ、かわいい」
 手のひらに収まる液晶画面に収まるキャラクターは、私が操作をすると喜んだり、いやがったり、反応を返してくれる。これは育成ゲームだと彼は教えてくれた。他にも、音楽に合わせてボタンを叩くリズムゲーム、パズルゲームと、様々なジャンルのゲームがあることを教えてくれた。
「バリエーションが豊富で、全然飽きないわ。黎斗さんって、とても博識で、様々なことに造詣が深くていらっしゃるのね」
「まだまだ、知らないことばかりですよ」
 人々にエンターテインメントを提供する仕事。楽しさに溢れたひとときを過ごしてもらうこと。それは音楽家としての私の目指すものと似ている気がして、まだ駆け出しのプロである私よりももっと先を行っている彼が、輝かしく見えた。
 そのことを打ち明けたとき、彼も内心を吐露してくれた。
「名前さん。私はあなたの音に感銘を受けました」
 そう言いながら、私の手を壊れ物のようにそっと持ち上げる。
「あなたが側にいてくれれば、私はもっと輝ける。名前さん、これからのあなたの時間を、私にくださいませんか」
 これほどまっすぐに、私を求めてくれた男性は今までいなかった。私は彼の手を強く握り返し、胸がいっぱいになったまま突き動かされるように頷いた。



 私達の交際は順調だった。両親も彼を歓迎し、私も彼の両親に気に入られ、家族ぐるみの付き合いが始まった。
「名前。コンサートは来週だったね」
「ええ。日曜ですよ」
「時間の都合が付けられたから、駆けつけるよ」
 彼は私の腰を抱き寄せ、髪に口付けをする。私はそれだけで満たされて、背中を彼の胸に預けた。
「名前」
 彼は私の髪を撫でながら、続ける。
「いずれ仕事が落ち着いたら、一緒に住もう」
 私は首を捻って彼を見上げた。彼は髪を指から溢れさせる。滑り落ちた毛先はさらさらと私の胸元に落ちた。
「マンションの一室がいいな。日当たりが良く、防音のいいところがあるんだ」
「ほんとう? なら私、朝食を作ってあげる」
 忙しい合間を縫って逢瀬の時間を捻出していたけれど、それでも寂しさは拭えなかった。これ以上わがままは言えないとわかっている。けれど、同棲すれば、少なくとも夜、寝るときは離れずに要られるのだ。
 それから時間を置かず、私たちは一室を購入し、家具を搬入し、二人で過ごすための空間を作り上げた。
 夜、ソファで静かに本を読む彼の姿を見るだけで、胸がいっぱいになった。
「どうしたの?」
 彼の顔を覗き込んでいたら、彼は本を閉じてしまった。邪魔してしまったかな、と申し訳なく思うけれど、やはり、本よりも私を見てほしい。
「夜になっても、さようならを言わなくていいって思ったら、あなたに抱きしめてほしくなったの」
「ふふ、甘えんぼだね」
 おいで、と彼は両腕を広げてくれる。私はそこに飛び込み、思う存分、温もりを堪能する。
「黎斗さん」
「名前。眠そうだよ。もう寝ようか」
「はい」
 手を繋いで寝室に二人で入る。電気が消され、部屋は真っ暗になり、お互いの顔も輪郭しかわからなくなるけれど、吐息や、心臓の音、体温がずっと近くなって、光の中にいるときよりもずっと彼の存在を感じられた。

 短い期間だったけれど、それは私の人生の中でとても幸福な日々だった。
 少しずつ彼の帰りが遅くなった。そのうち、何日も泊まるようになり、帰ってこなくなった。メールをしても、ほとんど返事は来なかった。
 ゲーム制作で問題が起き、その処理に追われているという話だった。彼は現在開発中のゲームに心血を注いでいて、その完成こそ彼の悲願だと知っていたから、ただ待つことしかできなかった。
 一人、がらんとした部屋でヴァイオリンを弾いていると、音が空気に負けて霧散して、まるで響かず、弱々しく消えていく。
 私の音は、彼のために。
 けれど、別れはいっときのこと。彼は必ずやり遂げて、ここへ帰ってきてくれる。
 そう信じて、待ち続けた。

 彼が帰ってきたのは突然だった。メールも電話もなく、鍵を開け、コートを来たままリビングに立ち、ヴァイオリンを片手にした私の前に立った。
「黎斗さん、おか……」
「今日は、別れを伝えに帰ってきました」
「……え?」
 彼は無表情に、淡々とそう言った。
 まるで別人のようで、私は混乱して何も言えなかった。そんな私を気遣う素振りすら見せず、彼は用件のみを口にする。
「もうここには戻りません。婚約は破棄します。慰謝料はこちらです。それでは、お元気で」
 彼は書類とアタッシュケースを机の上に置いて、軽く頭を下げ、よそよそしく微笑むと、出ていった。
 電気が消えたわけでもないのに、目の前が真っ暗だった。
「……黎斗、さん?」
 何が起きたのかわからなかった。
 そして、あの事件が起きた。

 ゼロデイ。

 彼の会社は倒産寸前まで追い込まれ、彼の父は逮捕された。彼は二度と私の前に現れてはくれず、私はあのマンションを引き払い、実家に帰ることになった。
 五年というのは、長いだろうか。
 傷心を癒やし、新たな環境に身を置き、過去を忘れて歩き出せるようになる期間。私にとってはそれは充分ではなかったのかもしれない。両親は忘れなさいとも、次の人をとも言わず、私が落ち着くのを見守ってくれていた。
 表面上は立ち直ったつもりでいたけれど、新作ゲームの発表会の中継を見て、途端に平静ではいられなくなった。幻夢コーポレーションの社長として、開発を続けたゲームの満を持してのお披露目。あの頃、寝る間を惜しんで開発を続けていたゲームが、とうとう完成したのだ。
 五年前の悪夢が、つい昨日のことのように思い出された。
 因果関係は知るよしもないけれど、私の記憶の中で結びついた二つの事件は、忌まわしいものとしてこびりついている。
 あの事件が、彼を奪った。
 だって他に考えられない。私たちはとてもうまくいっていて、なんの問題もなかったのだから。
 ねえ、そうでしょう?
 それを確かめたかったのか、ただ会いたかったのか、衝動のままに私は彼に面会を求めた。
 会社に直接訊ね、名前を告げる。追い返されると思ったけれど、意外にも彼は私を来賓室へ通してくれた。
「お久しぶりです、名前さん。近頃の活躍、噂に聞いていますよ」
 彼はよそよそしく私を迎え、その笑顔に失望する。何が待っていると期待していたのだろう。
 もしかしたら彼も私のことを覚えていてくれるかもしれない……。待っていてくれるかもしれない。
 そんな淡い願いは、簡単に砕け散る。
「すみません、お忙しいところ、突然……」
「とんでもない。こちらこそ、わざわざおいでいただいたのですが、あまり時間は取れませんので」
 用件は手短に、と言外に急かされて、息が詰まる。何を伝えたいのかも、何を訴えたいのか、怒りたいのか泣いて縋りたいのか、よくわからない。
 わからないから、そう、せめて、はっきりと自分の気持を自覚したい。
「なぜ私から離れたの?」
 五年間ずっとくすぶっていた問い。答えのない永遠の謎。ずっと頭痛の種だった。
 彼は小馬鹿にしたように笑った。
「そんなことをわざわざ聞きに来たのですか?」
「大事なことです……! 私は、ずっと、わからなかった……!」
 抑えていた涙が溢れてくる。声が震えて、言葉にならなかった。ただ懸命に目を見開いて、彼を見つめる。彼は今まで見せたこともないような不遜な表情で、私を見返した。
「必要がなくなったからですよ。そもそも、あなたに近づいたのは会社のためです。それ以上ではない。――これで満足ですか?」
「……え?」
「失礼。次の商談がありますので、これで」
 彼は腕時計を見つつ、鞄を片手に立ち上がる。まだ何も満足なんかしていない。もっと聞かなければならないことがある。なのに。
「黎斗さん!」
 彼は私の横をすり抜ける。行ってしまう。追いかけようとしたけれど、彼の声が耳のすぐ近くで囁かれて硬直した。
「初めから、なかったんですよ。愛なんて」
 あざ笑うかのように放たれた言葉は毒となって、私の全身を蝕んだ。
 嘘だったのだ。
 初めから、すべて。
 あの言葉も笑顔も、温もりも。
 ただ私を扱いやすいよう、操りやすいよう、誘導するための甘い餌だった。
 その餌を喜んで享受していた私は愚かだと、言われたに等しい。
 簡単に騙されて、利用されて、捨てられた。
 嫌悪した。
 優しい笑顔を。穏やかな声音を。私の音を褒めるその和やかな瞳を。
 彼のために爪弾いた指を。彼に向けた笑顔を。彼に砕かれたこの心を、すべて。
 憎い。
 あなたが憎い。
 彼に会って、ひとついいことがあった。
 殴るべきか、泣いてすがるべきか、自分の心さえ決められずにいたけれど、これでわかった。
 私はあなたを、許さない。



 最初から、嘘つきで。
 一片の真実だって、与えてはくれない。
 人の心をそのたなごころでいたずらに弄び、自らの欲望のためだけにその身すら捧げている。
 あなたに奪われひび割れたこの心は、あなたを恨むのにぴったりの形をしている。
 あなたが壊したものすべてが嘆く怨嗟を背負い、私は最後まで、あなたを愛す。

 ――私を許せるのは、あなただけだ
 ――だから、最後まで、私を憎め
 ――あなたを傷つけた私に、罰を


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