▼ 17.This is my whereabouts.
ソファに浅く腰掛け、いつでも逃げ出せるように鞄をしっかり握りつつ、台所(?)から聞こえてくる音に耳を澄ませる。
やっぱり今のうちに逃げようか。火に気をとられている間なら逃げおおせるかもしれない……!
「おい!」
「はいぃ!」
「ミルクいれるか!」
「お願いしますぅ!」
「砂糖、何杯だ!」
「一杯でお願いしますぅぅ!」
く、逃げる隙を潰された……!
コーヒーの美味しい香りが漂ってきて、ほどなくして白い紙コップを二つ持った花家さんが現れた。
「飲めよ」
目の前に置かれたコーヒーをじっと見つめる私を、花家さんが促した。
「やっぱりビーカーとかで淹れたんですか……?」
「やっぱりってどういう意味だよ。普通に淹れた。毒も入ってねえよ」
普通と聞いて飲もうとしたけれど、毒と聞いて吹き出しそうになった。
「入れてねえって」
「あつい……」
ティッシュを差し出してくれたので、ありがたくちょうだいし汚したところを拭く。
花家さんは私が渡した資料は机の上にほっぽってしまって、なんだか鋭い目つきで私のことを見ながら黙り込んでいる。責められてるようでコーヒーを飲みにくい。
「意外と美味しいです……」
「意外とは余計だ」
「すみません」
「……お前、ほんとに幻夢で働いてんのか?」
「もっ、もちろん、社長じきじきに雇ってもらってますよ!? 疑うんですか!?」
思わず過剰反応してしまったのは、さっき契約がぼんやりしてるなァと自分でも感じてしまったせいだった。
大丈夫、ちゃんと雇われてる。
「ふん……社長、か」
「花家さんは……、あの」
聞いていいものかどうか、迷う。社長、というときの花家さんの眉間に皺が寄った表情が厳しくて、浅からぬ因縁を感じさせた。
「以前は……CRで働いてたって聞きました」
「ポッピーか」
花家さんはつまらなそうに目を逸らした。
「今は……開業されたんですね?」
私も笑みを引きつらせながら部屋の中を見渡して思いついたことを口にしてみたけれど、我ながら笑えない。
廃病院で闇医者やってる、なんてどうかんがえてものっぴきならない事情があって、のことだよね。
「……おい、名前」
「ひ、はいっ」
数段低くなった声に身構える。ぬっと花家さんが立ち上がるとそれだけで威圧感がある。でかい。こちらに腕が伸び、顔が近づいた。後ろに下がらなきゃ、と思ったけれどソファに深く座る結果になっただけだった。左右の逃げ場を塞ぐように、花家さんが背もたれに手を置いた。
「お前もこっちに来い」
「無理ですっ」
「あっちにいるよりはマシだ」
「って……え、何の話です? 転職しろと?」
「そうだ」
花家さんは至極真面目な顔をしている。冗談ではないらしい。
選択肢が出そうな雰囲気だ……いやそれはちょっと待って。
「福利厚生とか……お給料とか……その、条件は……?」
花家さんはに、と口角をあげて見せた。
「給金ははずむぜ」
どう考えても危ないお仕事だ。
「謹んで辞退します」
「断っていいのかよ?」
どきり、とする。
え、まだ選択肢は出てないはず……ここで断ったらがくっと下がるの?
でも、CRを離れるわけにはいかないし……。ていうかもしやこれって個別ルート確定?
いつの間に私花家さんルートに入ったんだ? そうならないように気をつけてたはずなのに。
どうすれば、と悩んでいるとしんと静まり返った部屋にやけに大きく携帯のバイブ音が響いた。
「……取れよ。お前のだ」
花家さんはソファにどかっと座りなおした。私は鞄の底にあった携帯を探り出し、耳に当てた。
「もしもし、永夢くん? ああうん! 大丈夫だよ! ちょっとお茶にお呼ばれしちゃって! 意外にコーヒーが美味しくてね」
「……意外は余計だ」
「うん! もうすぐ帰るね! それじゃあ!」
携帯を切り、花家さんへと向き直る。
「……いやぁ! 永夢くんったら、なんだか心配性で!」
「そりゃあ、俺の家でくつろいでるって知ったら不安だろうな」
「そ、そういうことではないですよ!? 別に二人っきりったって、CRのドクターとお仕事の話をしているんだし……」
廃病院、二人きり。
悲鳴を上げても、きっと誰にも聞こえない……。
……いやいや! 携帯あるし!
いざとなれば帰ってこない私を心配して永夢くんがここへたどり着き、変わり果てた私の姿を発見して……って違う、それミステリー。
これ恋愛ゲーム。
よし、落ち着こう。
花家さんだってそんな悪い人ではないはずだ!
元医者なんだし!
「帰らねえのかよ」
「えっ、帰っていいんですか?」
「……うるさいやつらにまた乗り込まれても面倒だからな。今日は返してやる」
「あ、ありがとうございます! それでは!」
「ただし」
そそくさと立ち上がろうとすると、花家さんが一歩で距離をつめてきた。足の長い人はずるい。
「考えておけよ。お前が、どこにいるのが一番か」
「どこ……って」
それ以上は言わず、ただ黙って見送る花家さんに背を向けて、足早に立ち去ろうとする。ちょっと立ち止まって、振り返る。
「私は……黎斗さんに雇われてるんです」
だから、幻夢社員です。
今は、そう。CRが私の居場所だ。
そのとき、外から車のクラクションが聞こえた。
私の脇を通り過ぎて、花家さんが玄関に向かう。
ドアを開けたところで、花家さんは立ち止まった。
立ち止まざるを得なかったのだ。
そこにいたのは、鏡さんだった。鏡さんは花家さんを一瞥したあと、私へと視線を向けた。
「名前さん、あなたを迎えに来た」