▼ 第五十二話 絆
静かだ。
穏やかで、何も聞こえず、何も見えない。
何もない場所。
ここがどこかはわからないけど、でも、どこでもいい。
苦しまずにいられるから。
悩まずに、ただ目を閉じていればいい。
争いも、悔しさも、軋轢を生み出すものは何もない。
こんな場所を、ずっと求めていた。
心の凪を、求めていた。
ようやく見つけた平穏。ずっとここにいたい。安寧に浸って、何も考えずに、心静かに、ただ目を閉じて。
──目を閉じて、何も見ないの?
だってここは暗闇だ。光がないから目を開けたって何も見えない。
──耳を塞いで、何も聞かないの?
だってここは静謐だ。音がないから耳を済ましたって何も聞こえない。
──あんなにも、あなたを呼んでいるのに?
聞こえない。聞こえない。聞こえない。
そんなもの、全然聞こえない。
俺を呼ぶ人は、もういないんだ。
ここはもう、別世界だ。
戻ることだって、できっこない。
戻る必要だって……もうないだろ?
──ずっと、呼んでいるわよ。
聞こえない……。聞きたくない。このまま目を閉じていたい。静かにしていたい。
だって戻ってしまったら……また俺は悩まなくちゃいけなくなる。
大切な人が、大切じゃなくなってしまう。そんなのは、いやなんだ。
大切な人を嫌いになってしまうくらいなら……いっそ、いなくなった方がましだ。
俺はもう、何も考えたくない。
──それでも、彼は呼ぶわ。
あなたの名前を――そして、彼の名前を。
「大地!」
魂が揺さぶられるような感覚に、俺ははっと瞼を開いた。
暗闇だ、と思われていたそこに、斑に色が見えるようになってくる。
「大地!」
「エックス……」
どこにいるかわからない。けれど、呼ぶ声だけははっきりと聞こえた。必死で、全身全霊で、俺だけを呼んでいる。それだけに、すべてのエネルギーを集中している。
暗闇に逃げ込もうとしていた俺の魂を、引き止めるくらいに、強い声。
「そこにいるのか、大地!」
「……ごめん。もう、無理みたいだ」
俺は動かない身体を闇に預けたまま、答える。俺の声が聞こえたことで、エックスが励まされたことがありありと伝わってきた。
安堵と、喜びと、希望。
「よかった。無事でなによりだ、大地」
「無事、ではないかな……」
自分でもどこにいるのかよくわからない。エックスに近づけている感覚はない。そもそも、身体がある、という実感がない。ただ、辛うじて意識が漂っている、という感じ。
エックスの声が不安に揺らいだ。
「何があった? まだ君の姿が見えない」
「たぶん、無理矢理君の意識を俺の身体に同調させたから、俺の意識の居場所がなくなって弾き出された……ってところ?」
あまり科学的な理屈ではないけれど、感覚としてはそうとしか言いようがなかった。
「ならば、再度君に身体を明け渡すまでだ」
エックスは迷わずきっぱりと言い切った。
「身体がないって、こんな頼りないんだね。エックスは、十年以上も、こんな風に漂ってたんだ……」
「そうでもないさ」
あくまでエックスの声は力に満ちている。もう、俺を連れ戻すことしか考えてない。
「君の声が、ずっと聞こえていた。私は疑っていなかったよ。君とユナイトできる日を」
信頼に溢れた声音に、ずきりと胸が痛む。いつから俺は、こんなにエックスに後ろめたさを感じるようになってしまったんだろう。誰かのせいじゃない。ただ、俺が弱いから。
「エックス……俺、戻れないよ」
「なぜだ、大地」
「俺、怖いんだ」
エックスが俺の言葉に耳を傾けているのを感じる。もう、黙っていることはできない。
「エックスは気付いてないだろうけど……俺さ、ずっと……」
言おう、と決めると、不思議とすっと伝えることができた。
「名前さんのこと、好きだったんだ」
「何をいまさら」
「違うって。ちゃんと聞いて」
俺はエックスに向き直る。
「エックスと同じ……厳密に言えば違うとは思うけど。人間の男として、名前さんのことを、愛してるんだ」
「なっ?!」
よかった。これだけはっきり言っても伝わらなかったらどうしようかと思った。エックスは思った通り、すごく動揺した。
「な、な、な、大地、そ、それは」
「そう、そういう反応するの、わかりきってたから。だから言わなかった」
「しかし!」
「それに、名前さんが思ってるのは、君だってこと、よくわかってたから」
「……大地」
だから俺がどう考えていようが、二人の関係は何も変わらない。
でも、もし知られてしまったら、三人の関係は変わってしまう。それが怖かった。
「別に、名前さんとどうこうしたいってわけじゃないんだ。名前さん、俺のことそういう風に見てないし。これからもきっとそう。だから……二人を応援しなきゃって、思ったんだけどさ」
「そのために……まさか、訓練を?」
「……うまく行かなかったけどね」
目論見は空回り、このざまだ。失敗だった、と認めざるを得ない。
「俺の存在って、二人にとって邪魔になってるんじゃないかと思ったら、不安になったっていうか。もっと役に立てるはずなのにって、考えたんだ。エックスはデバイザーの中だけじゃ窮屈だろうし……何より、名前さんの寂しさを、どうにかしてあげたかった」
それができるのは、俺だけだと思ったんだ。名前さんのために、俺だけができること。それをしたいと思ったし、それができれば、この思いを昇華できるって、信じたんだ。
「大地……。君がそれほどに、彼女のことを想っていたということを、初めて知ったよ」
噛みしめるように言われ、心底鈍い宇宙人だといっそおかしかった。
「ありがとう。彼女のために、君はいつも、心を砕いてくれていた」
「やめろよ。勝手にやってただけなんだから」
恋なんて、自分勝手なものだ。好きな人に、振り向いてもらいたい、自分だけ見て欲しい。他の人に優しくしないでほしい。そんな、普遍的な嫉妬という感情を、俺自身が持っているなんて知らなかった。
「大地。やはり、ユナイトしたのが君で本当によかったよ」
「エックス……」
微塵の迷いもなく言い切られてしまうと、自分の矮小さに恥じ入るばかりだった。
「俺は、君にはふさわしくなかったよ。俺はただの……だめなやつだ。俺は君を……」
嫌いになんて、なれるわけないのに。それでも、感情は止められなかったんだ。
「大地」
気がつくと、頬を涙が伝っていた。熱い。感覚が戻ってきている。エックスの大きな手が、俺を足元から掬うのがわかった。
「君こそ、私のバディだ。君だからこそ、私はユナイトできた。私には君が必要だ。頼む。どうか、戻ってきてほしい」
七色の光が、頭上から降り注いだ。視界が眩く照らし出され、魂の隅々まで鬱積していた闇を掻き消していく。
ああ、本当に、なんてつまらないことで悩んでたんだろう。
俺と、エックスとの絆は、こんなにも確かだ。
嫉妬なんてする必要、全然ない。
「大地」
「……しょうがないな」
丸めていた背筋を伸ばし、立ち上がる。
エックスと、向かい合った。
俺が頷いてみせると、エックスも頷き返した。
俺達の絆は、何者にも切り離せない。次元だって、超えるんだ。
「行くぞ、エックス!」
「ああ、大地!」
「エクシード、エックス!」
俺達は七色の光を手に、闇を切り裂いた。