▼ 第五十話 境界
「おい、エックス!」
南の方へサソリたちを追っていたビクトリーがひとっ飛びで戻ってきて、私の隣に降り立った。
「あっちに行ったやつらは片付いたぜ」
「助かった。あとは……」
周囲をスキャンし、怪獣の数を確認する。森の中にまだ数十体が残っていた。
「小さいからどこにでも潜り込めるのがやっかいだな」
「さっさとやっちまおう」
ビクトリーは私の肩を手の甲で軽く叩くと、木の下に潜り込んでいるサソリを引きずり出して引きちぎった。
早く終わらせなければ。
胸元に添えた手で握り拳を作り、地面を一つ叩いて気合を入れる。
その時、奇妙な揺れが空間全体を揺らした。地響きではない。時空事態が揺れている。境界の向こうから重力波が伝い、この宇宙にさざ波を立てているようだ。その波はどんどん大きくなり、間隔が大きく開く。そしてついには破られた。
「これは……!」
地球の青い空に、もうひとつの空が重なる。別の宇宙の空だ。白い雲を透かすように、紫と黒が入り混じったような大気が揺らめく。そして、その大気を揺るがす大本が姿を現した。
ついさっきまで何もなかった空間に、巨大な物体が出現した。山よりもなお高く、ごつごつとした肌は乾いており、何重にも重なっている。天に開いた亀裂からは、深海の火山から吹き出す熱水のように、濃紺の霧とも靄とも付かないものが立ち上り、景色を混沌と溶かしていた。
あれこそが、この地を定期的に揺るがし、異世界との境界を壊し、地球へと侵入しようとしていたその原因だった。先程地下で青いウルトラマンが戦っていた相手の後ろにあったものだ。
まさか、彼は……。
「エックス!」
ビクトリーも異変に気づき、緊張に身体を漲らせた。
「こいつだ、元凶は!」
「ああ、だがなぜこんなことを」
その見た目は、地球のもので例えるならシャコガイの殻に似ていた。亀裂の周囲を囲む幾重もの襞が名前と行った水族館で見たその姿を連想させる。違うのは、襞一枚一枚が僅かに揺れ、その全体のゆらぎが空間自体を歪ませ、世界と世界の境目を希薄にし、溶け合わせてしまうことだ。このままでは、向こうの世界とこの地球が入り混じり、不可分になってしまう。そうなっては、この星はこのままではいられない。
「目的なんざ知らねえ。やるべきことは一つだ」
「よし、やるぞ!」
ビクトリーと共に構えを取り、光線を放つ。しかしゆらぎのせいで減衰してしまい、本体には届かなかった。
「なら、直接行くまでだ!」
「待て、ビクトリー!」
走り出したビクトリーだったが、襞が発した衝撃はに吹き飛ばされてしまった。
「く、近づくことも難しいか……!」
このままでは、境界の融合が進んでしまい、取り返しのつかないことになる。元凶の足元の地面は、緑の木々が生えていたはずだったが、赤黒い泥とも霧ともつかないものと入り混じり、奇っ怪な様相を呈していた。
「どうすればいい、大地……」
耳元に手を添え、物言わぬ相手に、問いかける。いつも、君はこんなとき、諦めずに解析を続けた。たとえその身を犠牲にしても。今、君の意識は私の手すら及ばない、深いところに沈み込んでしまっている。
分析をするには、情報が必要だ。今、私達が直面しているのは見も知らぬ宇宙に生息する想像を絶する生態系を持った物だ。生物なのか、鉱物なのか、それすらも判然としない。
まずは、相手を知ることだ。
ぐ、と腰を落とし、ふくらはぎに力を貯める。縮めた筋肉を一気に解き放ち、ゆらぎに飛び込んだ。
全身が、音楽を紡ぐ弦の只中に晒されたような振動の渦に飲み込まれた。ともすれば引き裂かれてしまうだろう。意識を集中し、吹き飛ばされまいと足を踏み込む。しかし踏み込むべき地面はどろどろと溶け出し、地球上の物質とは別のものに変質してしまっていた。沈み込まないように身体を支える。
「このデータを……! 名前!」
身を挺して手に入れた情報を、名前の元へ送った。ゆらぎのせいでそれもままならなかったが、断片だとしても、彼女はきっと読み解く。そして、有効な手立てを見つけ出してくれる。それまでに私は、大地を起こす!
「大地!」
引き裂かれそうな肉体と、空間同志がぶつかり合い、摩耗し合う壮絶な音と、崩れていく地面と飲み込む靄の異臭を意識から追い出し、心の奥底の一点、その中心に集中する。
「そこにいるんだろう、大地!」
伸ばした腕が、一枚、一枚と、貝の見えない殻のごとく展開した壁を突き破っていく。そのたびに、身体に掛かる負荷が増えるため、手応えを感じた。
まだだ、まだ、耐えられる。
「起きろ、大地!」
最後の一枚を突破した瞬間、全身を包んでいた狂った暴風のような圧迫感はすっかりなくなった。思わず振り返るが、山も、森も見えない。
空は紫と黒が斑に広がり、金と銀の粒子が空間を漂っていた。その粒子は渦を巻き、外套膜に挟まれた亀裂に吸い込まれていく。
ここは地球ではない。それははっきりしていた。まだ、混じり合ったわけでもないようだ。シャコガイは一度侵入の足を引っ込めたのかもしれない。
噴火のごとく吹き出していた濃紺の物質も、今は穏やかになっていた。周囲に目を向けてみると、金と銀のオブジェが目に着いた。どれも詳細に見てみると、細かい粒子が張り付いてその色に見えているようだ。空中に舞っている金粉がそれだ。ふと手のひらを見ると、キラキラと光が反射した。これはどこから降り注いでいるのだろう。
しん、としていた。
音といえば、金粉が地面に接するときのしゃらんという金属音くらいだった。シャコガイの周囲以外には、風すら吹いていないようだった。
ここは、静か過ぎる場所だ。