▼ お願いだから
「大我、煮物は食べた後タッパーに入れて冷蔵庫にしまってね。それから、冷凍庫におかず小分けにしてあるから。ちゃんと食べてね。一週間くらい来れないけど、カップ麺で済ましちゃだめよ」
大きな背中に一方的に声をかける。パソコンの画面に集中していて、こちらには目もくれない。あんな様子でも、聞いてはくれているはずだ。
「掃除はしたし、ご飯も準備できたし、足りないものは買い足したし……こんなもんかな」
やり残したことはないかと、再度確認する。最近は仕事の方が忙しくてなかなか来られないから、今日できることは全部やっておかなくちゃ。
「ねえ、他に何かない? もう私帰るけど」
返事なのかなんなのか、曖昧な唸り声が帰ってきた。何か忘れてる気がするんだけど、なんだっけな。
「そうだ、後でやろうと思って忘れてたんだ。洗濯物溜まってたでしょ」
「っ、それはいい!」
今まで無反応だったくせに、突然立ち上がって部屋の出口に立ちはだかった。その慌てっぷりに、思わず笑ってしまう。
「いまさら遠慮することないじゃない。思春期の男の子じゃないんだから」
「そういう話じゃねえよ、馬鹿」
戸棚にしまわれた籠の中に押し込んであったのは、やっぱり隠してたんだ。何を気にしてるんだか。
「じゃ、ちゃちゃっと終わらせちゃお!」
「いいっつってんだろ。もう帰れよ」
「どいてよ」
「洗濯はあとでやるから、いい」
「ほんとに? 明日じゃだめよ」
「これからやる」
むすっとした顔で約束する大我の顔を見上げ、本当に? と目で訊ねれば、大我は目を逸らす。
「最近雨続きだったし、明日も予報じゃ雨なんだから。今日のうちに洗っちゃおうよ」
「だから、やるっつってんだろ」
「私がやるよ」
「いらねえよ。おせっかい」
「世話焼かなきゃどうなるんだか」
「別に、どうもならねえよ」
「どうだかね」
こんな廃病院に陣取って、たったひとりで。顔色最悪だったあの頃からここまで回復するのに、どれだけ掛かったか忘れたのかしら。
詳しい事情は聞かない。
話す気になるまで、口を出さない。
でも、ひとりで苦しんでるのを、ほっとけるわけないでしょ。
ずっと、見てきたんだから。
医者を目指して、寝ずに勉強してたこと。
たくさん、たくさん頑張ったこと。
その夢が破れて、辛い境遇に置かれてしまったこと。
ずっと、見てたよ。
こうして世話を焼くこと、許してくれて嬉しかったよ。
誰も信じられないって目をしてた。裏切られて、傷ついて、自分さえ信じられなくなって。
それでも、その純粋でまっすぐな心は、変わってないって、私は知ってる。
だから、苦しんでるんだってことも。
「ほら、行くよ」
「離せよ」
「洗濯、するんでしょ?」
「……後でやる」
「後っていつ?」
「帰れって」
「今やればいいでしょ」
はぐらかす大我の態度を信じろという方が無理だ。私は大我の腕を引っ張って、サニタリーに連れていく。
やるなと言うなら、ちゃんとやるところを見せてもらおう。
「ったく、強引な女」
「ちょっとやそっとじゃ動かないんだから、押すしかないでしょ」
憎まれ口にも慣れたものだ。ようは癖みたいなものだし。ちょっと素直じゃないだけ。
引っ張っていた大我の腕が、重くなる。後ろに逆に引っ張られた。ちょっと、と文句を言おうとして、言葉を失う。大我は壁に寄りかかり、胸元を抑えていた。
「……大我!」
荒い息を吐く大我を、ゆっくりと座らせる。肌にいやな汗が浮かんでいた。震える手が壁をひっかくように力を入れるので、爪が痛まないよう、握る。すると、大我は私の指を、痛いくらい強く握り返した。
でも、こんな痛みよりももっと、大我が感じている苦しみは大きい。
「……は、んな顔、すんなよ……」
大我の顔をじっと覗き込んでいたら、青ざめた顔に無理やり笑みを浮かべて見せた。そんな表情されたところで、全然安心できないどころか、余計に不安が募るよ。
「いつものことだ……」
「……ひどくなってるの?」
「たいしたことじゃねえ」
大我の首筋に指を当てる。脈が乱れてる。じっとりと濡れていた。手を離そうとすると、大我に掴まれた。そのまま、自分の頬に押し当てる。
「冷たくない……?」
大我はじっと、痛みを押さえ込むように押し黙り、蹲っている。私はただ痛みが引くことを祈るしかなく、彼が求めるまま、寄り添っていた。
どれくらい時間がたっただろう。
少しずつ、大我の呼吸が落ち着いてくる。大きく上下していた背中も、ゆるやかになった。大我がそっと私の手を握っていた手のひらから力を抜く。まだ顔は白い。
「お水持ってくるね」
「名前……」
掠れた声で引き止められた。
大我が立ち上がろうとするので、手を貸す。そのままキッチンに向かい、コップに水を汲んで渡すと、大我はゆっくりと半分だけ飲んだ。
「落ち着いた?」
「……悪い」
「まだ顔色悪いよ。横になって休んでなさい。側にいてあげるから」
「……いい」
「いいわけないでしょ。ほら、歩ける?」
大我は私の手を振り払う。
よろけながらも、一人でその場に立った。
「いらねえんだよ。いい加減……うざってえ」
掠れた声で吐き捨てて、薄ら笑ってみせる。
「これまでは面倒で勝手にさせてただけだ。何勘違いしてんだ? 俺は、お前なんか必要ない。わからねえのか」
邪魔だって言ってんのが。
大我の目が真剣な色味を帯びて、私を射抜く。
目を逸らそうとはしない。
額に汗が滲んでいる。
唇はしっかりと引き結ばれて、強い意志が感じられた。
……まったく、下手くそね。
付き合ってあげよう、なんて気持ちも失せちゃうよ。
「意地張ってないで、素直に甘えなさいよ。今にも倒れそうな顔してるくせに」
「してねえよ。お前みたいなか弱い力じゃ共倒れだ」
だから帰れ、もう来ないでくれ、そんな言外の訴えを、私は無視する。
「倒れたら這ってでも引っ張ってあげるわよ。でかくて重い自覚があるなら、しっかり立ってちょうだい。それができないなら、ちゃんと頼りなさい」
「……誰が、お前なんかに」
大我は唇を噛んで目を逸らした。
だいたい、さっきの熱烈な握手をしたのはどこの誰?
突き放すなら、徹底しなくちゃ。
私は頑固なのよ。
いまさら弱気になって、また独りに戻ろうなんて、そんなの――許すわけないじゃない。
「私以外に、こんなに優しい人はいないわよ? どんな大我だって見てきた。それでもずっと、離れなかった。だからそんな……寂しいこと、言わないでよ」
わざとらしく、恩着せがましく言う。
あなたが悪いんじゃない。
私がしたくてしてることなの。
大我は顔を手で覆って、俯く。
「……もう、そうも言ってられねえから……言ってんだろうが」
彼の身体がいつまで保つのか。
それはきっと、医者である彼自身が誰よりもよくわかってるのだと思う。
そして、その時間はもう、残りわずかなのだろうことも。
悪ぶることでしか突き放せない、それがあなたの優しさ。
私には全部、わかるから。
「ベッドに行こう? まだ立ってるの、辛いんでしょう」
寄り添う私に、よろけるように、大我が腕を回す。
前髪に隠れた表情は、苦悶に歪んでいた。
「……情けねえ」
聞こえない振りをして、彼を支えながらゆっくりと歩き出す。
肩に回された手が、ぎゅ、と私の服を掴む力と、震えが、彼の本心だと感じられる。
できるかぎり、ここに来よう。
彼が独りの時間を過ごすのを、少しでも減らしたい。
そしていつか、語らなかったことを、話してもいいと思ってもらえるように。
それまでずっと、支えるから。
お世話になっている(勝手に師匠と呼んでいる)カナン様より、リクエストの大我で切甘、幼なじみでした。
憎まれ口叩きつつ実はめっちゃ甘えてる大我さんと、もっと甘えてほしいと思いつつ、いつ拒絶されるかと内心はらはらしてる幼なじみさん。
大我さん、普段は自分でちゃんと洗濯してるんじゃないかな。
リクエストありがとうございました!