▼ それでもあなたのそばにいたかった

「また、あそこに行っていたのか」
 厳しい声を投げつけられて、ぎくりと身体が強張った。
 彼がゆっくりと、もどかしいくらいにゆっくりと、近づいてくる。
 逃げ出せるものなら逃げ出したい。けれど、すでに見つかっているのだから、逃げたところでこの罪悪感と恐怖を拭い去ることはできない。私は――彼を裏切っている、のだと思う。
 禁止されたことを、私は犯してしまったのだから。
「名前。こちらを向きなさい」
 乾いた喉を鳴らすけれど、唾液も湧いては来なかった。ぎこちない動きで、私は彼の言うとおりにした。
 彼は厳しい表情で私を睨んでいた。私は彼の顔を見ることもできず、視線を下げ、彼の革靴ばかり見る。
「名前。なぜだ?」
 私は答えられなかった。彼の腕が伸ばされ、私の頬を掠め、壁に押し付けられる。
 彼の顔が、近くなる。目を逸らしても、彼の怒りに冷えた、冷酷な表情が視界に入ってくる。
 ――そういう顔をするところが、嫌い。
「なぜ、私の言いつけを破った」
「……私がどこに行こうと、私の勝手でしょ」
 叱られることの理不尽さに憤って、恐怖を苛立ちで誤魔化して口答えをすると、顎を強い力で掴まれて無理矢理顔を上向かされた。
「いたっ……!」
「なぜ、と聞いているんだ」
 低く淡々とした言葉には感情を感じさせない、ただ押さえつけ支配しようという圧力だけが息苦しく伸し掛かって、私の心を締め付ける。指先に力が入り、目が合わないようにと閉じた目を恐る恐る開いた。
「なぜだい、名前」
 彼はあくまで理由を私に語らせる気だった。私は言葉を探す。なんと言えば、真意を誤魔化したことを悟られず、彼を納得させられるかわからない。
 ……真意?
 そんな大袈裟な、ものなんてない。
 ただ。
「たんに……心配だからよ。あいつの体調が……」
 かつて、バグスター根絶のために戦っていた彼の身体は、無理を強いたせいで消耗している。それこそ、いつ倒れてもおかしくないくらいに。
「あいつ、ほっとくと医者のくせに不養生な生活するし、専属医としては目を離した隙にくたばられちゃ寝覚めが悪いの」
「そんなことを、君が気にする必要はない。他にするべきことがあるだろう」
「サボってるって言いたいわけ?」
 高圧的な彼の物言いに、私は心を奮い立たせて反抗する。
「いい加減にしてよ! 私に自由は一つもないの? 籠の中の鳥ってわけ? ご主人様のご命令にハイハイと従わなくちゃいけないの? それじゃ、私の心が死んじゃう!」
 今まで溜め込んでいた思いを、一息にぶちまけた。
 そうしなければ壊れてしまう。もう、こんなの耐えられない。興奮したせいで目尻に涙が浮かんだ。
「……あなたのお願いには、できるだけ応えたいけど……でも、縛られすぎたら、苦しいのよ。わかって……」
 私の訴えを無言で聞いていた彼は、す、と手を下ろし、私に背を向けた。少しは届いただろうか、と淡い期待をいだいたけれど、それはすぐに儚いものになった。
「従えないのなら、捨てるだけだ」
 頭に鎚を打ち下ろされたような衝撃だった。

「もう君は必要ない。好きなところへ行くといい」

 待って、と縋ることさえできなかった。
 彼は振り向きもせず、なんの未練も見せず、部屋を出ていってしまう。
 そんなこと言わないで、私を捨てないで、そうやってみっともなく取り乱して、彼を引き止めなければいけなかったのに――
 あまりにも無慈悲に、一分の隙もなく突き放されてしまって、私の身体は凍りついてしまった。
 取り返しのつかないことをした。
 恐ろしいほどの絶望が渦巻いて、足元から身体の芯まで冷えていく。
 私は彼の信頼を裏切って、彼の期待を損なって、彼にとっていらないモノに成り下がってしまった。
 彼が与えてくれた最後のチャンスを、愚かな私はみすみす踏み躙ってしまった。



「何しに来た」
 ふらりと現れた名前の様子は明らかに普通じゃなかった。憔悴しきっていて、覇気がない。まるで、今にも消えてしまいそうな頼りなさ。
 俺の定期診断に来た、というわけではなさそうだった。
「……入れよ」
 ひとまず部屋に引き入れ、座らせる。目の縁が赤い。彼女はなかなか重い口を開こうとせず、俺は焦れる。
「何があった?」
 彼女は途端に顔を歪ませ、首を振る。大きく息を吐いて、震える手を誤魔化すように天井を仰ぎ見て空笑いをしてみせる。
「仕事、クビになっちゃった」
「何?」
「私はもういらないんだって」
「……あいつがお前をクビにするだと?」
 考えられなかった。俺のところに月一で現れることを面白く思っていないだろうことは薄々勘付いていたが、まさか、だからといって手放すか?
 これみよがしに大事に抱えていたくせに。
 ――手放すんなら、もっと早くしろよ。
「で? お仕事じゃあないんなら、ここに来る理由ももうねえな。あの社長の言いつけはもうなくなったんだからよ。これからは……」
「だからもう、勝手にする」
 きっぱりと、名前は言った。目が据わってやがる。
 そして立ち上がると、俺を挑むように睨み上げた。
「私を雇って」
「はぁ?」
 なんでそうなる。目元はまだ赤いが、うじうじ泣いてた様子はもはや影も形もなかった。これ以上泣かれても困るが……。
「私は役に立つわよ?」
「……切り替え早すぎだろ」
 溜息を吐く俺から、名前は目を離さない。張り詰めた感情が、名前の引き結ばれた口元から今にも叫び出しそうで、見ていられない。
「……いいんだよ、そういうのは。お前の優秀さは十二分に知ってる。いまさら強がったってバレバレなんだよ」
「つっ……よがってなんか、ないし」
 語尾が震えたことに自分で怖気づいて、名前は唇を噛んだ。俺はわざと口角を上げて、そんな青ざめた名前の顔を見下ろす。
 名前が眉をしかめ、嗚咽を堪えながら睨みつけているのは――俺じゃない。
「捨てられたんならちょうどいい。拾ってやるよ」
 だが、そんなことは関係ない。
 あいつが手放して、寄る辺亡くなったこいつは俺のところへ来た。まっすぐに。
 それだけで、十分だ。
「ここにいろ。名前」
 一瞬、瞳が煌めいて俺を映す。その後の歪む表情なんか見たくなくて、乱暴に引き寄せて胸元に顔を押し付けた。
 今は泣けばいい。そして復讐してやれ。
 あんなやつのところにいるより、俺のところにいる方がずっとのびのびやれてるって、見せつけてやるんだ。
 そんな風に、心の底から吹っ切れるまでは――
 こうやって、泣けばいい。
 名前の肩から、少しずつ、力が抜けていった。

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