深夜、僕はある家の前に立っていた。
なぜ来たのかはわからない。
確か夢を見て、気がついたらここへ向かっていた。
――迷惑、だろうか。
そう思っているのとは裏腹に、手はその家のインターホンを押す。
少しして玄関の灯りが点き、ドアが開かれる。
「いらっしゃい、骸」
中からはワンピース姿のユキが現れる。
深夜の訪問者を笑顔で迎え、しかもその目には涙の跡。
さすがに僕も驚き、言葉を見失う。
「どうしたの?」
「ユキ。あの…その…」
さすがに泣いてたんですか、とは聞けない。
迷惑だったかと聞いても、答えはわかっている。
僕がいろいろと考えていると、彼女は笑顔を浮かべた。
「入ったら?」
「それじゃあ…お邪魔します」
後半は声が小さくなってしまったが、聞こえていただろうか?
…聞こえてなかったら礼儀のなってない奴だと思われるかもしれない。
「それじゃ、ここで少し待ってて?」
「あ、はい」
ユキが指し示したソファに座る。
きっと彼女はお茶を用意してくれるのだろう。
本当はそんなものはいいから、今すぐにユキを抱き締めたい。
とはいえ、彼女の好意を無下にはできないので大人しく待つことにする。
…あぁ。
なぜだか不安ばかりが増していく。
彼女に会えば幾らか楽になるかと思ったのだが…。
そんなことを考えていると、台所から甲高い音が聞こえてきた。
「ユキ…?」
いつまでも止まない音を不審に思い、台所へと向かう。
そこにはお湯を沸かしながらボーッとしているユキがいた。
音の正体はやかんだったようだ。
「ユキ」
コンロの火を止め、彼女に声をかけた。
彼女は驚いたように振り返り、僕を見つめる。
ふと、先ほどの夢を思い出す。
内容は彼女が消えるもの。
だから僕はここへ来たのだろう。
「骸…」
なんて言ったらいいのか悩んでいると、不意に抱き締められた。
「ユキ…?」
突然のことに驚き、言葉が出ない。
なぜこんなことに?
…いや、別に嫌だとかそういうわけではなくて、ユキから抱き締めるのが珍しいだけで、というか抱き締める理由がわからない。
「大丈夫」
何のことを言っているのか、わからない。
突発的な彼女の言葉に、思考が追い付かない。
……いや、なんとなくわかっていた。
きっと彼女は僕がここに来た理由に気がついたのだ。
「私はもう、消えないから…」
「っ!!」
補うかのように告げる彼女の言葉に驚く。
やはり彼女は気づいていた。
だから彼女は僕を抱き締めたのだ。
「私は、ここにいるから…」
ユキの腕に先ほどより力が込められる。
彼女なりに僕を安心させようとしているのだろう。
「…クフフ」
苦笑を浮かべながら、ユキの頭を抱え込むように抱き締める。
「ユキには敵いませんね」
「何年一緒にいると思ってるの?」
「クフフ…そうですね」
そう言って二人で笑う。
そうだ。
彼女とは再会してからずっと一緒にいる。
クロームを通して再会した彼女は、エストラーネオファミリーにいた頃よりずっと綺麗で強くて。
でも本当は弱くて、人並みの幸せすら望むことも敵わなかった。
…きっと、幸せなど本当は存在しないと思っていたでしょうね。
「ユキ、君が今考えていることを当ててあげましょうか?」
腕の中、ユキがこくんと頷く。
それを確認してから、僕は思ったことをそのまま口にする。
「幸せで怖い…でしょう?」
「フフッ。それは骸もでしょ?」
「クフフ…」
やはり彼女には勝てないな、と苦笑を浮かべる。
きっと彼女に出会わなければこんな風に普通の幸せというものを願うことはなかっただろう。
あの時、ユキがエストラーネオファミリーに来なければ幸せなんて求めなかった。
感謝の意を示そうとした時、腕の中で彼女が僕の名を呼んだ。
なんだろうかと僅かに腕の力を弱めて彼女の顔を覗き込むと、
「今日…泊まってって」
顔を赤らめそう言った。
驚いて、彼女の顔を見つめる。
何だか顔が火照る。
見つめていることが気恥ずかしくなった僕は、彼女から視線を逸らす。
「やっぱり、ダメだよね…」
「…何があっても知りませんよ?」
僕も男だ。
好きな人がいて我慢なんて…
「それは大丈夫。骸は私の嫌がることなんてしないから」
絶対の自信を持って言われた。
その笑顔がまた可愛くて、反則だと思う。
「骸は私の期待を裏切らないでしょ?」
「当たり前です!」
小首を傾げる彼女に、即答する。
他の何を犠牲にしても、ユキの可愛い笑顔と引き換えなら十分すぎるくらいだ。
彼女の期待を裏切るなどできるはずがない。
「だから、大丈夫」
そう言ってユキは笑う。
「ユキ…」
「大好きだよ、骸」
愛してますという言葉は、そう言い抱きついた彼女により遮られた。
…彼女の温もりが心地よい。
「ありがとうございます、ユキ…」
小さな声で告げた言葉は彼女に届いただろうか。
――きっと、僕の気持ちと君の気持ちは違うけど今はまだそれでいい。