ニシP、というのが楽士としての茜音の名であるらしい。普段の彼が着ているシャツから覗くくっきりと浮いた鎖骨や白い喉は、今は首元まできっちりとボタンの閉まった学ランの下に隠されてしまっていた。ただその禁欲的な黒を纏っていてもなお、茜音自身から漂う色香のようなそれは決して消えることはなく、むしろ不自然なまでに強まっているような気すらした。目深に被られた制帽の鍔の下、黒髪の隙間から覗く朱い双眸には、彼が情事の時に見せる欲情の残滓がこびりついているように見えて、少しぞくりとしてしまう。

「へえ、素敵な名前ですね」

変わり果てたかつての仲間の姿を目の当たりにした動揺を、今は悟られてはいけない───鍵介がなんとか平静を装い皮肉めいた口調で吐き捨てると、茜音は無言で目を細め、腰から下げた革製のホルダーから、腕ほどの長さのある棒状の物を二本引き抜いた。───あれは棍、だろうか?茜音の様子を窺いながら、鍵介は自らのカタルシスエフェクトである大剣を発現させる。懐に入られたら痛烈な一撃を見舞われてしまうだろうが、大剣とのリーチの差、そして打撃や突きなどの攻撃動作の単調さを考慮すると、単純に相性としては防壁使いでもあるこちらに分があるように思える。あの武器に何か特殊なギミックが仕込みでもされているようなら、また話は変わってくるが。
戦いは避けられないことなど、最初から分かっていた。まあいい、まずは様子見だ。鍵介が大剣の柄を握りしめて一歩踏み出すとほぼ同時、茜音は突如、白い手袋に包まれた両の手を鋭く振り上げた。
パン、と空気を叩く音が響く。

「ああ、そうだよ。いい名前なんだ。あいつが俺につけてくれたあだ名なんだよ。俺のことニシって呼び始めたのは、あいつが最初。あいつが、俺にくれた」

茜音の掌中で羽のように広がったそれは、一対の巨大な鉄扇だった。扇面には小さな花の柄が彫り込まれ、両端からは蔦を模した白と若草色の組み紐が垂れ下がっている。組み紐をしゃらりと鳴らしながら悠然と扇が翻る様はまるで舞踊の一幕のようであったが、その度に風が大きく巻き起こり、鋭く磨き上げられた鉄の塊が空を切る音は、ひどく重たい。

「だからさあ、あんまり馬鹿にしないでほしいなあ。俺お前のこと別に嫌いじゃないんだけど、いくらなんでもその言い草は、怒る」
「な……っ」

苛立ちを隠しきれない様子の茜音の声が降ってきた直後、鍵介の視界に何かが恐ろしい速度で飛び込んできた。───右の扇か!
鍵介は茜音の鉄扇が一枚投擲されたことを瞬時に看破し、柄を逆手に握り込んで幅広の剣を地面に突き立てた。その直後、ガン、と凄まじい衝撃と音を伴い扇が刃に激突し、右手に鋭い痺れが走った。勢いを削がれて頼りなく宙を舞う鉄扇を左手で払い除け、未だじんじんと痺れが残る右手で剣を振り上げ、反撃に転じようと鍵介は前を見据えた。
その時、だ。首筋に、ひやりと冷たいものが当てられる感触。

「───あかね、せんぱい?」


どこかで、甘えがあったのかもしれない。
戦いは避けられないと頭では理解しながら、しかし「かつての仲間であった茜音先輩」が、自分を見て正気に戻ってくれるのではないかと。鍵介は心のどこかで無意識に淡い希望を抱いていた。だが今、彼は「かつての仲間であった茜音先輩」であるからこそ知り得る鍵介の呼吸や癖を利用して一瞬の隙を引き摺り出し、その喉元に鉄扇の鋭利な切っ先を押し当てている。
微動だにすることのない扇から手、腕をたどり、そして顔に移した視線が眼鏡のレンズ越しに絡まり合う。朱く染まった茜音の双眸の底に沈んでいるのは───完全なる敵意と殺意だ。

「う、あ……っ!」

鋭い鉄が横一線に振り抜かれ頸動脈を裂かれる寸前、我に返った鍵介は扇から少しでも離れようと首を捻り、同時に脚を振り上げ茜音の鳩尾を思い切り蹴りつけた。突然狙いを崩された扇の先端は、鍵介の頬を擦る。一直線に切れた傷口から、どろりと血が溢れている。
ぜえぜえと肩で息をする鍵介を尻目に茜音は床に落ちた片方の扇を拾い、たった今鍵介の頬を裂いたほうの扇を振って血を払った。「……ひっでえの」靴底で激しく打ち据えられた下腹部をさすり、少しばかり子どもじみた仕草で茜音は口を尖らせる。

「ひどいじゃないか鍵介……あれだけお前のこと気持ちよくしてあげたカラダなのにさぁ、今度はこういうことするんだ?」
「ち、ちがう……っ」
「何がちがうの。どうせ俺は、どこにいたってオモチャなんだ。そんなこと分かってたんだ、思い知らされたよ、あの日に」

あの日、という言葉に鍵介は思い当たることがあった。以前茜音が話してくれた、あまりにも辛い出来事。隠していた気持ちが最悪の相手に最低の形で踏みにじられて、単なる「遊び道具」としてぐちゃぐちゃにされてしまった日のこと。
救うことまではできなくても、せめて力になりたいと思っただけなのに。どうしてこんなことになってしまったんだ。鍵介の目にじわりと涙が浮かんだ。

「なあ、だからさ、せいぜい責任持って壊れるまで遊んでくれよ。そうすれば、あいつのところに行けるんだ」

ああ、死んだ奴にはもうどう足掻いたって勝てないのだ。



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