普段より約一時間ほど遅くにスマートフォンのアラームで目を覚まして、もそもそとふとんから出た。朝食はトーストで軽めに済ませ、窓から差し込む日差しがきつくなる前にカーテンを閉め切って、冷房の設定を28℃に。ひんやりとした風が心地良い部屋でとる昼食はデリバリーのピザだ。たまにならこういうジャンキーなごはんも悪くない。僕が食べたかったマルゲリータと、先輩が選んだウインナーがいっぱいのってるやつをどちらもLサイズで一枚ずつ、それからチキン、ついでにこれまたLサイズのポテトもセットにした。きっとこれが若者にしかできない無茶というものなのだと思う。食べ進めるにつれて指先に染みつくような油っぽさと塩気を、胃もたれを気にせずふたりで楽しむことができるのは、あと何年の間だろうなんてことをふと考えた。
部屋の隅に置かれたテレビからはお昼のニュースが流れている。夏も本番を迎え、連日記録的な猛暑が続いている(去年も聞いた気がするけど)とのこと。毎日飽きずに窓の外で響くおもちゃ箱をひっくり返したような喧噪に、今年もそろそろ嫌気が差しそうだ。暑さや日差しはどうにかなるが、この音だけは部屋から完全にシャットアウトすることができない。なにしろ、壁も薄いし。

「蝉、今年もすごいですよね」
そう漏らせば、先輩は「あー」とため息だかなんだか分からないような声を出した。
「ぼくは昔からだから慣れてるけどね。ほらここ、公園近いでしょ。あとで見に行く? すごいよ、うじゃうじゃいるよ」
「いやですよ、きもちわるいなぁ」
先輩が大学時代から住んでいるこのアパートのすぐ裏には、小さな公園がある。ロープを巻かれて固定され、「使用禁止」の札を吊した遊具が並び、とっくの昔に子どもたちの場所ではなくなってしまった、寂れた公園。うじゃうじゃ、という表現とともに先輩が指をうごめかせてみせたので、蝉たちが無人の公園の木の幹にひしめく様子を想像しかけてしまい、少しげんなりした。

「あ」
かりかり、という音に気づいてそちらに目を向けると、いつの間にか冷蔵庫から取り出されていた缶のプルタブを先輩の爪が引っ掻いている。やがてぷしゅっ、と小気味良い音がした。先輩に注いだ麦茶のグラスは空になっていた。
「ビール開けてる」
「えー、だめ?」
「いえ、いいんじゃないですか」
「そうだよね、オトナの特権ってやつだよね」
にこにこと先輩が笑う。テーブルにはビールの他にもチューハイの缶が並べられていたが、それを咎める理由は僕にはなかった。僕のバイトの休みと合わせた今日一日の有給休暇を取るため、彼がお客さんとの約束の調整なんかに苦労したであろうことを想像できないほど子どもでもない。やることさえちゃんとやっているのなら、好きなように特権とやらを振りかざせばいいのだ。オトナなんだから。
「いいんですよ、せっかくのお休みなんですし」
僕はまだ手つかずだったチキンに齧り付いた。ざくり、と歯を立てた衣の中には思った以上の熱がこもっていて、舌先がぴりっと痺れる。
「う」
「どうした?」
「まだ熱いですね、これ」
「大丈夫? 気をつけてね」
僕が麦茶のグラスに口をつけていると、先輩は思い出したように「そうだ」と声を上げた。
「今更だけど乾杯してなかったね」
「え、今更すぎません?」
「いいじゃん。乾杯したいもん」
何がしたいもんだ、と思いつつ僕は促されるままに麦茶のグラスを持ち上げた。氷がからんと涼しげに鳴る。
「鍵介くんはお酒いいの?」
「ええ、僕はこれで」
「……そっか」
先輩は少しだけ残念そうな顔をしたものの、すぐにぱっと笑顔を浮かべた。「はい、かんぱーい」アルミ缶とガラスが軽く触れあって、がち、と響いた音はあまりきれいなものではないものの、先輩は嬉しそうだ。
こきゅこきゅと気持ちの良い音をたてて先輩の喉仏が動くのを、僕はじっと見つめる。現実に帰ってきてから誕生日を迎えて二十歳になって、つまりはようやく先輩と同じステージに立つことはできた。でも僕には未だにビールのおいしさがわからない。満足そうに息をついて二つ目の缶を開ける先輩は、僕よりも少しばかり長くオトナというやつをやっている。追いかけても追いかけても一生縮まることのないその年月に詰まっているものの中には、きっと痛みも苦さもたくさんあるのだろう。これから同じものを味わえば、僕もビールをおいしいと思えるようになるのかな。

「ねえ、そんなに見られたら恥ずかしい」

その時、アルコールの影響でわずかに潤み始めた彼の瞳と不意に視線がぶつかるのと同時に、なぜか僕の手は強張った。

「……あ、あー、鍵介くん、手、手」
「わ」
食べかけのピザからだらりとチーズが垂れていたことを指摘され、僕は慌てて残りを口に放り込んだ。気がつかなかったのか、それとも無視をしているのかは定かではないが、先輩はテーブルにまで落ちてしまったチーズについては何も言わずに僕の手を取った。そのまま、溶けたチーズのかけらがぺたりと貼りつく僕の小指へ唇を寄せる。
「え、ちょっと」
「ん」
止める間もなく、ちゅ、と小さく音をたてて指先を吸われた。舌が爪の周りを擽る感触に、ぞわりと背中が粟立つ。
「はい、きれいになったよ」
「……何するんですか」
「別に」
たったそれだけの言葉で済ませて、先輩はまるで何事もなかったようにピザを頬張り始める。しかし僕は、さっきの目つきに覚えがあった。あれは、先輩が欲しくて欲しくてたまらないものを見る時の目だった。ごくり、と喉が鳴る。

「……あとで、シャワーしてきてもいいですか?」

僕の問いにはじめから答えを用意していたかのように、彼の口からは「もちろん」という言葉が滑り落ちた。


七月の昼、青すぎていっそ作り物じみて見える空とアスファルトを舐めるきつい日差しと、湿気を帯びて肌にまとわりつく蒸すような暑さと。“ここ”に帰ってきてから二度目の夏を薄い壁の向こう側に追いやって味わう彼の熱は、きっと心地よくて、そして少しだけ、うしろめたい。




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