「母さん、僕やっぱりだめみたいだよ」

親子ふたりでの夕食後、流し台で洗い物をする細い背中に声をかけると、それはゆっくりと振り返り真っ黒に塗り潰された面を晒した。僕が「卒業」をした直後は、その異様な風貌をしたモノと顔を合わせる度にひやりと冷たい汗を流したものだが、今ではすっかり慣れてこうして当たり前のように声をかけることもできる。コレは、相変わらず僕の母だ。

「あなたがかつて父さんを愛したのと同じように、誰かを好きになることなんて僕には出来ないよ。子どもがほしいとも思えない。一緒に生きたいなんて思える人はいない。女も、もちろん男にだって……分かるかな、母さん、僕は誰かを愛せるようには出来ていないんだ」

現実世界にいた頃に母へと告げた言葉を、一字一句違わずになぞる。しかし返ってきたのは今でも耳鳴りのようにこびりつくあのヒステリックな罵声ではなく、いっそ拍子抜けしてしまうほど穏やかなひと言だった。
「あなたはそれでいいのよ」
かちゃかちゃ、ざあざあ、手際よく食器の汚れを落とす手は止まらない。母の手がスポンジを握る。蛇口から流れる水が、茶碗についた泡を洗い流す。
「母さん、ねえ母さん……」
背後から手を伸ばし、流し台に置かれた包丁を手に取る。蛍光灯の光を鈍く反射する冷たい刃を母の首筋に押し当ててみたものの、淡々と洗い物を進める手は止まることはなく、ざわざわと波打つモザイクの肌に先端がほんの僅か沈み込む感覚に吐き気を覚えた。僕の母はこの世界に組み込まれた機械に過ぎないのだ。
「母さん、母さん……お母さんは、僕のこと好き?」
「ええ」
この返事も、現実にいた頃とは違う。本物の母は僕のことを嫌いだった。母が渇望してやまなかった「暖かい家庭」というものを望まない、望めない僕を、母は認めてくれなかった。人格の否定、生の否定、エトセトラエトセトラ、それはそれは僕を口汚く罵ったものだというのに。
がしゃん、と乱暴に包丁を流し台の中へと放り、台所をあとにする。二階の自室へと続く階段を中ほどまで上ったところで、思い出したように台所の戸から顔を出した母に明日の弁当はどうすると問われたので、僕は「唐揚げ以外ならなんでも」と答えた。母に弁当の中身をリクエストをしないでいると、僕が七つの頃にいなくなった父の好物だった唐揚げを山のように作って、昼に持たせようとする。












「おかしいな、母さんは。僕は唐揚げはやめろと言わなかっただろうか」
「え?なんですか?…… ところで美味しいですねこの唐揚げ……ね、もう1個もらっていいですか?」
「いや、もっと食べてもいい。育ち盛りだろ、いっぱい食べて大きくなろうな、少年よ」
「先輩はほんとナチュラルに人の心を傷つけますよね……いただきますけど」
少し感覚がずれているだけで、おそらく悪気はないのだ、悪気は。自分にそう言い聞かせながら鍵介は部長の弁当箱にぎっしり詰まった唐揚げを更にひとつ、箸でつまんで頬張った。衣も厚すぎず薄すぎずちょうどいい揚げ具合で、肉も柔らかい。味つけはすこし濃いめでごはんのおかずになる、冷めてもおいしい唐揚げだ。
昼休みが始まってすぐ、WIREで急に「一緒に昼ごはんを食べよう」と連絡が来て、待ち合わせ場所の部室に到着すると部長は机で弁当箱を広げて鍵介を待っていたのだ。向かい合って席につき、彼の母が作りすぎのだという唐揚げを、ふたりで食べ進めている。途中までアリアも協力してくれていたが、小さな妖精の身体に揚げ物は少々重たかったらしく、ふたつ食べ終えたあたりで早々にリタイアし「甘いものが食べたい」と飛んでいってしまった。大方、女性陣のところへデザートを求めにいったのだろう。いいなあ、僕も女の子たちといっしょに甘いもの食べたい。
「鍵介、少し質問」
「はい?」
ペットボトルのお茶を飲んでいると、部長に声をかけられた。
「この世界の住人―――NPCに、何かしらの不具合が生じることってよくあるのか? 急におかしな行動を取るようになったとか、こう」
「バグみたいな?」
「そう、それ」
なんで僕に聞くのだろうと訝しく思ったが、アリアがこの場にいないとなると、メビウスの仕組みのことを元楽士の鍵介に問うというのはそれなりに道理に適っていた。しかし楽士の中でも新参であった鍵介に任されていたのはあくまで信者を増やすことだけで、NPCの管理を含むメビウスの運営(というのは正しい表現なのだろうか?)そのものの権限は主にバーチャドールたちが掌握していたので、詳しい事情を鍵介は知らない。はっきりとした答えは出せませんけど、と前置きをして、鍵介は口を開いた。ついでに唐揚げをもうふたつほどもらい、自分の弁当箱の蓋に置く。
「基本的に、NPCが最初に与えられた役割を放棄することはないと思いますよ。壊れた、って話も聞いたことはないですね。僕の知る限り、ですけど。例外はあるかもしれません」
家族や教師、店の従業員―――この世界に溢れかえる作り物たちは、楽園に招かれた人々に幸せを与えるために作られた存在なのだ。この世界にいる鍵介の両親も、鍵介が憎んで、そして恐れた「つまらないオトナ」ではなくなっていた。
「だから、そのNPCの言動が、先輩にとって“おかしい”と思えるようになったのだとしたら、それは」
そこで一旦間を置くと、部長は続きを促すような目線で鍵介を見遣った。意外とせっかちな人だ。見た目より存外に子どもっぽいひとに少し意地悪をしたくなってしまって、鍵介はもったいぶるように箸の先で唐揚げを摘まんだ。

「先輩の何かが、変わってしまったんでしょう」





















「一緒に晩ご飯を食べよう」と、なんだか見覚えのあるメッセージが鍵介のスマートフォンに届いたのは、部長とともに山盛りの唐揚げを平らげたあの日の二日後の晩だった。まさかなぁと思いつつ教えられた部長の家に着くと、テーブルには山盛りの唐揚げと茶碗に盛られたごはんと野菜スープ。部長は「僕の母さん」と、真っ黒な顔をしたNPCをなぜだか少し照れくさそうに紹介してくれた。
「母さんが、また作りすぎちゃって」
「はぁ」
冷めてもおいしい、揚げたては尚更おいしい唐揚げだ。つい一昨日おなかいっぱい食べたばかりで若干飽きた気もするが、まったく口に運べないほどではない。
「……お母さんはどちらへ?」
鍵介が問うと、部長はボトルの麦茶をグラスに注ぎながらさして興味もなさそうに答えた。
「さあ、父さんが帰ってくるのでも待ってるんじゃないのか、外で」
「お父さん……?」
玄関には、部長のそれの他には男物の靴など並んでいなかった気がするのだが。
「あ、いや、父さんなんていないはずなんだ。僕が七歳の時にいなくなった……ほら、やっぱり壊れてるんだ、あのNPCは」
「ええと……」
もしや、だいぶフクザツな家庭の事情とやらに足を踏み入れかけているのか―――? 鍵介が思わず首を傾げてしまったのを見て、部長は「悪い、おかしな話をした」と素直に頭を下げた。ちょうどその時、彼の母が外から戻ってきたようで、部長は箸を置いて席を立った。唐揚げはまだ皿に半分以上残っている。

「お父さん、今日は帰ってこられないみたい」
「そうか、残念。お父さんの好きな唐揚げ、せっかく用意したのにね」
鍵介が今まで聞いたことのないような、まるで恋人に向けるような甘ったるい声で自らの母を出迎えた部長は、その真っ黒な手をやさしく握る。そして耳元でささやいたのだ。「大丈夫、僕がいる」と。

「……仲良しですね」
「母さんか? かわいいだろ」
「ええ、とても。あの真っ黒な顔とか特にチャーミング」
「向こうとはぜんぜん違って、やさしくてかわいそうで、僕をぶたなくて……でも、……たまに向こうの母さんが恋しくなるね」
ああ、鍵介は心の内で深く嘆息をした。壊れているのがどちらなのかは知らないが、あなたはきっと、あなたのことを嫌いな母のことを、愛していたのだろう。




ベラドンナ



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -