預かっている合鍵で寮の部屋に入ると、そこには死体がいた。



「せ、先輩?」

この部屋の主である黒髪の少年が、目を閉じてフローリングの床に静かに横たわっている。鍵介が呼びかけても、彼は返事をするどころか身動きひとつすることがない。
普段から顔色は悪いが、明かりを消してカーテンを閉め切った薄暗い部屋の中ではその青白い肌からより一層生気を感じられなかった。ま、まさか本当に死んでるんじゃ……鍵介は恐る恐る部長の傍らにしゃがみ込んだ。この部屋にはおおよそ音を発する物がなく(寮には一室に一台備え付けのテレビがあるはずだが、無くなっている)、こうして部屋の主がひとたび沈黙すると気味が悪いほどに静まり返ってしまうのだ。
「…………」
じっと目を凝らすと、彼の薄っぺらな胸がゆっくりと上下しているのが見えたので、とりあえず生きていることは確認できた。口元に耳を寄せてみると、時折かすかに息をする音が聞こえて安心した。
「先輩」
もう一度呼びかけながら、真っ白な頬を手のひらで軽く叩いてみる。ぺち。ぺちぺち。

「……」
「先輩、何してるんですか。なんにも言わずに学校休んで」
「……」
「せん……」
「だめだよ鍵介、最初は“ただいま”だ」

不意に部長が口を開いたので、鍵介は思わずひっと短い悲鳴を上げて手を引っ込めた。丸い灰色の瞳がふたつ、瞬きをほとんどすることなくこちらをじっと見つめている。
いや、ここは部長の部屋なので、鍵介が言うべきは「おじゃまします」だと思うのだが。そもそもいったいどうして床で寝て……いろいろと思うことはあったものの、とりあえず要求された通りに「ただいま」と声をかけると、特に返事をすることもなく部長は静かに瞳を閉じてしまった。
「……ええと、おかえり、とかは言ってくれないんですか?」
「僕は死んでるから喋らないんだ」
それっきりまた、沈黙。部長は死体に逆戻りだ。

ああ、これは「飲まれて」しまっている。鍵介は小さくため息をつき、辺りを見回して───探し物はすぐに見つかった。部屋の真ん中に置かれたシンプルなミニテーブルの上、赤いブックカバーがかけられた薄めの文庫本が置かれている。表紙をめくって、スマホの明かりを頼りに(部屋の電気を点けようとしたら、眩しいと怒られた。死んでるくせにわがままだ)まずはあらすじに目を通す。───同居する恋人の女を殺してしまった男は、彼女をまだ生きていると信じ込みながら暗い部屋で死体と生活を共に───なるほど。先ほどのやりとりから察するに、部長が死体で、今日の鍵介は物騒なことに殺人犯の男役らしいことは明らかだ。部長が無断で学校を欠席していると聞きつけて寮まで様子を見に来たのだが、まさか死体になっているとは……。
「次、次……」
ぺらぺらとページをめくる。外出から戻ってきた男が死体に向かって「ただいま」と挨拶をするのは、物語の冒頭の一幕だ。次は何をすればいいのだろう。静かな部屋に、紙の擦れる音だけが響いた。鍵介がこうして部屋にやって来なかったら、部長はいつまでもいつまでも死体のまま「男」を演じる誰かを待ち続けていたのだろうか。少しぞっとする。



我らが帰宅部の部長は、賢くて礼儀正しく非の打ち所のない優等生だったが、重度の空想癖──と呼ぶのが正しいかどうかは、今のところ誰も分からないが───の持ち主であった。
彼は本が好きだ。暇さえあれば持ち歩いている文庫本を開き、休日は丸一日図書館で過ごすことも珍しくない。その中で見つけたお気に入りを一冊を何度も何度も読み耽るうちに、彼はいつの間にか物語に飲まれている。要するに、物語の中の何かになりきってしまうのだ。
彼はある時は剛毅な勇者で、またある時は真実を追い求める探偵だ。あらゆる男を骨抜きにする絶世の美女だった時もあるし、たまに悪い魔法使いになったりもする。動かない死体になりきっているようなことは、さすがに今回が初めてだけど。

「……ごはんをあげればいい、のかな」

第二章にたどり着いた。男は、死体にパンとスープを与えている。
部長の空想は、彼が役に飽きるまで物語に付き合ってあげないと終わらない。伝説の戦士とかならともかく、よりによって死体なんかになっている状態では部活動に連れ出すこともできないので(戦力ダウンどころの騒ぎではない、立派なお荷物だ)、鍵介は物語を終わらせるべく部長の死体ごっこに付き合うことにする。
部屋の隅にある小さな冷蔵庫の中身をがさがさと漁ると、ミニサイズのクロワッサンの袋が見つかった。が、困ったことにスープと呼べるものはインスタントのみそ汁セットしかない。バターが練り込まれた甘いクロワッサンにみそ汁、正直鍵介にはいまいち許容できない組み合わせだが、床に横たわる部長にちらりと視線を向けると「いいよ」と言われた。

「赤だしがいいな。味は薄め、あと冷蔵庫にネギあるから入れて」

口うるさい死体だ。ため息をつきながら、水を入れた鍋をコンロの火にかける。それでも律儀にバラエティパックの中から赤だしのみそ汁の袋を取り出し、書かれていた分量より少し多めにお湯を注いでせっせとネギを刻んでしまうのだから、やっぱりこれは惚れた弱みというやつだと鍵介は思う。勇者であろうと悪い魔法使いであろうと今日のように死体であろうと、もし彼がただの木や花や石になってしまったとしても部長のそばにいたかった。だから鍵介は彼に恋をしているのだ。たぶん。

「ごちそうさま、おいしかった」

礼儀正しい死体は、テーブルでクロワッサンふたつと薄めのみそ汁一杯をぺろりと平らげ手を合わせたあと、先程と同じ場所に横たわって目を閉じた。死体のくせに美味そうにごはんを食うなと鍵介は突っ込みたかったが、本を読み進めると男の頭の中の彼女は生きていた時よりも従順で、男が与えた食事を美味しい美味しいと喜んでいたと書かれていたので、彼はむしろ物語の中にきれいに収まっていると言えるのかもしれない。……それか、本当にお腹が減っていたかのどちらかだ。
それにしてもきれいに箸を使う人だなあと思いながら、空になった食器を流し台に運んだ。部長が食事をしている間に、鍵介は更に小説を読み進めていた。この後、男は死体の冷たい唇にキスをして、いっしょにベッドで眠るらしい。

「重、い……」
だらりと四肢を投げ出す部長をなんとかベッドの上へと引きずり上げた。全身の力を抜いているせいで(死体だから当たり前なのだけど)それはかなりの重労働で、息が上がってしまった。
部長の脚を引っ張ったり背中を押したりしているうちに床にずり落ちてしまっていた毛布を拾って、身体にかけてあげる。備え付けの簡素なシングルベッドは男子ふたりが乗り上げることを想定された造りなどされておらず、鍵介が身動きをする度にきしきしとなんだか悲しげな音がする。子どもが部屋の隅ですすり泣いているようだ。
「先輩」
「……」
「続けます?」
「……」
無言の肯定。彼はまだ飽きずに死体だ。
本を読んだ部長は、当然食事のあとにキスが待っていることは分かっているはずだ。これは許されているのか、それとも試されているのか……ごくり、と唾を飲み込む。
「……何が楽しいんだか」
これは、陰気くさい物語の中から彼を「連れて帰る」ためだ。鍵介はそう言い聞かせながら、部長に覆い被さり、髪を撫でて額に軽いキスをした。いちおう最終確認のつもりだったのだが、やはり反応はない。
かさついた唇を湿らすように何度か啄むことを繰り返した後、薄く開いた唇に慎重に舌を滑り込ませた。……ぬるりと湿っていて、温かい。彼の気持ちは立派な死体でも身体が本当に死んでいるわけではないので、温かいのは当たり前なのだが。しばらくゆるゆると口内をまさぐっていると、彼の舌が鍵介の舌先に当たった。つん、つん、と感触を確かめるようなどこか遠慮がちな動きは臆病な小動物を彷彿とさせた。かわいい。

淡々とした語り口で描かれる男と死体の物語のどこが部長の琴線に触れたのだろうか。100ページほどの小説を半分ほど読み進めたが、鍵介にはそれがさっぱりわからなかった。暗い部屋で暮らす彼らの時間は鬱屈としていて、停滞して、屍臭がする。
文章の中で、男は「男」と、死んだ女は「死体」と表記されるが、それは時たま「女」へと変わった。初めてその表記が現れるのは、男が食事を与えようとする場面だ。実際は物言わぬ死体の口に男が千切ったパンをなすり付け、冷めたスープを流し込もうとしているだけなのだが、男の頭の中で彼女は喜んでいる。彼の独りよがりな愛情を腐りかけの身体いっぱいに浴びせられる時だけ、死体は「女」として描かれている。男のそういう身勝手さに、生きていた頃の女はきっと呆れていたのだろうと鍵介は想像した。彼らがどんな生い立ちで、どこで出会って、何が原因で仲を拗らせて男が女を殺してしまったのかは、果たして残り半分の中で描かれているのだろうか。少しだけ、続きがきになる。

「ん……」
男の頭の中で、女は情熱的にくちづけに応える。それを演じる彼も次第に積極的に舌を絡め始め、時折指先で鍵介の首の後ろをくすぐったりして熱を煽ろうとする。鍵介が舌にやわらかく歯を立てる度に、部長の口からはとろとろと甘ったるい嬌声がこぼれ落ちた。やがてその指先はゆっくりと背筋を辿り、そして鍵介の下肢へと伸ばされてゆく。太腿をするりと撫でられて、そして。
「ちょうだい」
蕩けた灰色の瞳が熱を欲しがっている。脳の中心に鉛の塊を突っ込まれたようだ。もう、何も考えられなくなってしまいそう。
歌声に誘われて落ちた夢の世界の中でも空想に浸り、物語の中から引っ張り出した架空の女を身に纏って鍵介を求める彼はいったい誰なのか。そんなことはどうでもよかった。鍵介は、彼に恋をしている。恋をしているのだ。




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