下の階が、俄に騒がしくなった。

「……そろそろか」
メビウスの秩序を乱すローグの集まりが、このパピコの最上階のすぐ下まで来ている。小池が立ち上がろうとしたその時、不意に低い声が何かを囁いた気がした。

「お前、今、なんか言ったか?」

ソファに腰かけたまま小池が問いかけると、すぐ脇に立つ少年は微動だにしないまま目線だけを動かし、一瞥を寄越す。侮蔑、であったのか、はたまた別のものであったのか───今となっては確かめる術すらないが、小池にとって限りなく不愉快だった「何か」は、今の彼の視線からはすっかり消え失せている。
以前の彼の眼差しには、冬の湖面を思わせる冷たい鋭さがあったが、今はすっかりなくなったた。しかしだからと言って、彼の纏う雰囲気が柔らかくなったわけでもない。それはなんの情も温度も含まれない、からっぽの視線なのだ。ふたつの空虚なガラス玉に、小池の顔が映っている。俺は、こんなに情けない顔をしていただろうかとふと思った。
「……なにも、言っていないが」
それだけの言葉をぽつりぽつりと紡ぎ、少年は黙り込む。整ったかたちをした唇の僅かな赤みが、その彫像めいた美しさにかろうじて「生」の要素を与えている。
「……そりゃそうだ」
とんだ愚問だった。小池は思わず自嘲の笑みを零す。憎くて憎くてたまらなかったこの少年を、自ら口を利くことをしない人形へと変えたのは、他ならぬ小池自身だ。
この世界が現実ではないと気づいていた彼を捕らえ、洗脳を重ね、デジヘッドにした。不意に自我を取り戻した彼にまるで獣のように抵抗され、あちこちに生傷を作っていたのは初めのほんの数週間のことで、今の彼は小池に付き従う影のような存在だ。主である楽士に従う、忠実な下僕。静かな人形。

「俺は、今のお前が好きだよ。あのいちいちイラつく態度も、見下すような視線も、今のお前にはなんにもねえ」

立ち上がり、少年の肩を軽く叩く。う、と小さく呻き声をあげた少年の首筋の皮膚がびりびりと裂け、その下からどろりと溢れ出した黒い塊が頭部を包み、小池が憎んだその顔を覆い隠していく。やがて首だけでなく胸や腕、脚からも黒い塊は止めどなく溢れ、やがて少年の姿は異形のそれへと変わり果てた。その手には、籠手と一体化した細身の剣が握られている。
「もうすぐ、帰宅部の連中がここに来る」
「……ああ」
歪なノイズを被せられた声で、少年は返事をする。その身と同化した黒いコートを靡かせ、主とともに異端分子を迎え撃つため、歩みを進める。

「峯沢」

「おい」や「お前」などではなく、少年の名を、小池は久々に呼んだ。黒い剣を携えたデジヘッドは立ち止まり、少し戸惑うようなそぶりを見せてからゆっくりと振り向く。自身を守る殻のようにも、感情を戒める拘束具のようにも見える真っ黒な仮面に向けて、小池はもう一度呟いた。

「俺は、今のお前が大好きだよ」

そうか、と虚ろな返事がぽとりと落ちる。その声のほとんどがざらついたノイズに侵されていた。どうやらこれからやって来る獲物を待ちきれず、興奮を隠せていないようだ。
このように殊更好戦的なデジヘッドになるよう仕組んだのは小池自身のはずなのに、ここにいるこいつはいったい誰なんだろう、と他人事のように思う。あれほど憎んだ峯沢維弦という少年は、もうどこにもいないのだ。




ハッピーエンド、?


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