「はるか、マニキュアを塗って頂戴」
みちるの気配に気付かぬ筈も無いけれど、敢えて近付く彼女に素知らぬふりで雑誌に目を落としていると、みちるがふぅわりと発声した。
「マニキュア? 君、メーイクアップ! ってすれば一瞬じゃないか。爪だけ変身を解かない。うん、みちるになら出来るよ」
興味の無いふりをしながら顔を上げると、水色のワンピースに身を包んだみちるが可笑しそうに笑う。
「あら、無粋なことを言わないのよ? レディーの爪すら、あなた、飾れないのかしら?」
「否、飾れるさ、勿論ね。でも僕にマニキュアを塗らせるなんて発想、君くらいのもんだぜ?」
「そうかしら」
「そうさ」
みちるの用意したものは、淡い真珠色のネイルポリッシュだった。
普段爪に色を付けない彼女は、だからと言ってそこにおざなりなわけでは無く、好みの形に整えて磨き上げて、いつだって美しい形を保っていたし、何も塗布せずともヌードの爪は桜貝のようにうつくしかったのだけれど。それを閉じ込めてしまうのもまた一興かもしれないと、はるかは微笑んだ。
「では、お嬢様。天才レーサー天王はるかが、その爪を彩って差し上げますよ」甘く落ちるはるかの声を当然と受け止めて、天才ヴァイオリニストは優雅に笑んだ。
「ありがとう」
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マニキュアというものは存外時間が掛かるのだなと、引き受けてからはじめて知った。
塗れる、等と言いはしたものの、はるかは女性のエスコートを完璧にこなせても、女性にマニキュアを施す、という経験ははじめてなのだった。自身の爪に塗った経験も無い。
色を乗せて終了、というものでは無いらしい。
ベースコートを2回、ネイルポリッシュを2回、トップコートを1回。しかも作業のみならばこれで終わるが、完全に乾くには半日を有するだとか。そんなことに頓着の無いはるかにとっては、気の遠くなるような話だった。成る程、昔は上流階級にしか許されなかったわけだ。
しかしその正に上流階級である筈の少女は、日々華奢な手を様々なもので汚している――それは泥であったり、血であったりした。
そう考えれば一層愛しく、はるかはみちるの手を扱ってやりたいと思った。
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とはいえ元来器用なはるかは、みちるの爪をそれはそれは上手に彩ってやった。みちるもその仕上がりに満足らしく、手の甲から眺めたり、ひるがえして指を曲げて眺めたりした。しかし自信たっぷりに「どうだい?」、と問えば、みちるはやわらかに笑んでこう返した。
「そうね、75点を差し上げますわ、はるかさん」
「げっ、なんだよ、完璧だろ?」
「淡い色だからわかりづらいけれど、数ヶ所、ムラがあるみたい」
「ったく……ワガママなお嬢様だな、君は」
「ふふっ、お褒めにあずかり光栄ですわ」
「もういくらでも、褒めてやろうか」
「あら、それは遠慮しておくわ。……でもね、いいのよ」
「ん?」
「だってあなたが塗ってくれたのですもの。0点だって私、堂々と歩けるわ」
おいおい、とはるかはおどけて見せながら、内心照れた。
「はるか、ありがとう。私、夢みたいにしあわせだった」
みちるは、はるかの為だけに声を授かったのではないかと都度都度思う。そしてはるかを優しくしたり、強くしたり、恥ずかしがらせたり、焦らせたり、幸福を届けるのだ。
そんなことばたちを受けるはるかの耳もまた、きっとみちるの音を拾う為だけに機能しているのだ。
「私ね、とてもとても悩んで此れを買い求めたのよ。ネイルサロンでね、お店の方が、塗って試して戴いて大丈夫ですよとか、ケアしてカラーリングするコースがありますから如何ですか、とか、仰って下さったのだけれど、どうしても、あなたに塗って欲しくって。戦士としての、あの色は勿論大好きなのだけれど、普段のお洋服に似合う色は何かしら、あなたに塗って貰って、とびきり嬉しくなる色は何かしらって、うんうん悩んで」
「それがこの色?」
「ええ」
「凄く、君に似合うよ」
「ええ。……あなたにそう言って貰う為に私、いっぱい悩んで決めたのよ」
「僕は即決だったけどな」
「……え?」
みちるが、長い睫毛に縁取られた瞳をぱちくりさせる。珍しくみちるを出し抜けたと思って、はるかはわくわくした。
「一寸待ってて」
立ち上がると、引き出しの、はるかの私物が入っている棚を開ける。それは直ぐに見付かって、みちるの目の前に持って行って左右に振ってみせた。
「それ……」
「爪先(つまさき)、借りるぜ?」
スカートの裾に腕を差し込み太股からみちるのストッキングを下ろそうとすると、まだ困惑しているみちるがそれでも腰を浮かせてくれたので、その薄い布をさっと取り去ってしまう。
知ってはいたがみちるは爪先だって抜かり無く、形の良い爪は綺麗に整い磨かれていた。まじまじと見詰めても、何処にも欠点が見当たらない。
「ベースとかトップとか知らなかったけど、こっちにも必要なもんなの?」
「ええ……」
「じゃ、貸して」
みちるはゆるゆるとした動作でベースコートとトップコートをはるかに渡した。当然、乾き切っていない爪に充分の注意を払いながら。
「はるか、それ、塗るの……?」
「嫌?」
「いいえ」
「じゃ、決まり。みちる、爪先に塗ったことは?」
「無いわ」
「なら、まるきり僕のものってことだ」
その台詞を聞いて、漸くこの展開を飲み込んだらしいみちるが、くすくすと笑った。
「なぁに、はるか。いつの間にあなた、それを買っていたの?」
「ついこのあいだの事さ」
「まぁ。気が合うのね。……私に塗りたくて、買い求めたのかしら?」
「そうに決まってる」
「手じゃなくて、よかったの?」
「ああ。元々こうしたかったんだ。他の誰にも見せない場所に、僕のしるしを、ね」
「素敵だわ」
みちるがうっとりと言うのに、はるかは酷く満足した。
たまたまぶらついていたときに目に止まって、一瞬にして購入してしまったそれ。そのネイルポリッシュは、はるかの戦士としての爪の色に、酷似していた。
やがてラピスラズリのような深い青がみちるの足許に飾られて、ふたりは改めて窓際に腰掛けると、長く長くキスをした。
はるかは独占欲の塊,みちるはそれをまるごと受け入れて喜びます。
20110902
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