抱かれるのは、“海王みちる”にとって、生まれてはじめての経験だった。
とてもはしたないことだと理解っていても、そんな想像ならば何度か、したことがある。勿論想像の相手はいつだって、はるか以外にはあり得なかった。
そのはるかがこの身を今まさに抱いているのだと、ようやっとで鈍く動き出した思考の隅、みちるは考える。
想像の中のはるかは優しくって、蕩けそうな言葉を甘く囁いては、入念にみちるの身体を愛撫するのだ。そしてそれは柔らかなベッドの暖かな部屋であって、堅い床の冷えた廊下では、決して無かった。
暗闇の中がむしゃらに求められれば、今までとは質の違う涙が頬を伝ってゆく。
――なんて、詰まらない、想像をしていたのかしら。
ほんとうのはるかは、もっとずっと激しくて、必死で、無遠慮で、動物じみていて、――恐ろしいまでに、魅力的。
裏切り者のみちるとはひるがえるり、真実しか見えないその行為に、また涙が幾重も筋を作ってゆく。
はるかの、肌に、触れたい。私もはるかの温度を知りたい。
思っても、発言する資格など無いのだからと、みちるは口を噤んでただ身を捧げる。
はるかは何処も彼処も身体じゅうを、確かめるように触れては舌でなぶってゆく。どんなに恥ずかしい箇所をも暴いてゆく。その荒々しさの狭間に拙さが見え隠れするものだから、どうか“天王はるか”のはじめての人が私でありますように、と、みちるはまともに働かない頭で、そればかりを切に願った。
こんなに乱暴なくせ、ちっともいやらしさを感じない指の動きや、焼かれそうに熱い舌や、肌をくすぐる髪や、浅い呼吸に、ああそれでもどうしようも無くこのひとが好きなのだと、軽蔑したばかりの愛の情へと埋もれてゆく。
「………………みちる、」
みちるでなければ逃していたであろう、か細い声を拾ったから、すぐさまその尊い名を唇に乗せた。
「はるか、……はるか。……なに……?」
「ちゃんと、あたたかかった。……君が。全部、何処だってあたたかくって、生きてる音がして、触ったら反応して、声を漏らすんだ。髪も、肌も、僕が知らなかったところですら、君のにおいがしたよ」
みちる、最後にまたそう呟いて、はるかはみちるの鎖骨の辺りに顔を伏せてしまった。
「はるか」
「僕を置いて行くなんて、」
「はるか」
「僕を置いて自分だけの世界に行くなんて、」
「はるか。お願い。貴女の瞳が見たいの…………お願い、はるか」
柔らかな髪を撫でて顔を上げさせ、こんな暗闇で何も見えやしないのに、それでもみちるははるかの頬をそっと、そしてしっかりと、包み込む。
「……どこにも行かないわ。此処にいる。貴女のすぐ傍に。私は貴女の願いを、望みを、祈りを、叶えるためだけに生きて死にたい。それだけの存在になりたい。貴女がそう、望みさえしてくれるのなら、」
「死なせるもんか……!」
臓腑から迫り上がってきたかのような叫びは、ただ悲痛でしかなくて。
「もう二度と、あんなおもいは御免だ。君を……」
ぱた、ぱた、ぱた。
みちるの頬に、水滴が落ちては伝い、落ちては伝う。
「……君を、失う、なんて……」
「……ごめんなさい」
「赦さない」
「ええ、赦さないで……そして傍に置いて頂戴。貴女が振り返ったときいつでも、必ず、微笑みを捧げられるように。――傍にいるわ。私、貴女の傍にいる……」
言い乍みちるは、自身の愛の深さに恐怖した。
粉々にしたくとも捻り潰したくとも、もはやみちるの意識すらを嘲笑う、それ。
軽蔑すべきものであり――しかし何よりの矜持で狂おしく、扱いづらい事この上無かったけれども。
すぐさまこの胸を拓いて、愛のすべてをさらけ出したい、愛しているを伝えたい。だけれども今、言うべき言葉では無いと知っていて、だからただ、頬にくちづけ微笑みの形をそこに伝えた。
それから、自身の最愛から零れ落ちる涙を、冷えた指先でたどたどしく拭ってゆく。はるかの呼吸は未だ浅い。
背中に腕を回す、シャツが邪魔だけれども仕方がない。とん、とん、みちるは母が子にするような優しいそれを、一定のリズムでもって施した。
「はるか。貴女を失わないために私は、もう二度と、私を失ったりしないわ。はるか、……はるか、はるか」
こどもじゃないんだ、こんな扱いは、言い乍はるかはみちるの裸の胸に頬を寄せ、ただただ、延々と、泣きじゃくった。
end.
20130416〜20130428
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