ハオにとって、葉は何処までも不可解な存在だ。

夜の帳が全てのものを覆い隠す時間。何故か当然の様にハオの元へとやってきた葉は、「おすそ分け」と言ってビニール袋に入れられた鍋を差し出した。ぱかりとその蓋を開ければ、暖かい湯気が上がる。それはどう見ても、惑うことなくカレーだった。食欲をそそる香辛料の香りに、ハオは思わず瞳を瞬かせる。大抵の事に驚かない自信はあるが、流石にこれは予想外だ。

『どういうつもりだい、これは』
『あ?いや、夕飯にカレー作ったんだが、作り過ぎちまってな』

ホロホロの父ちゃんからジャガ芋いっぱい貰ったんよ、と葉はいつものゆるい笑みを浮かべて答えた。

――――シャーマンファイト中に、何を呑気な。

そう思わないでもなかった。しかし、別段ハオがそれを咎める理由もなければ、おすそ分けを受け取らない理由もない。以前から何かと理由をつけて遊びにくる(そう、正に『遊びにくる』が適当な)葉をハオは軽くあしらっていたのだが、それがまずかったらしい。アジトに葉を入れても痛くも痒くもないハオは、それほど強固に葉の訪問を拒みはしなかった。そのつかず離れずの距離感を正確に把握した葉は、ちょこちょこ夕飯のおかずや菓子の類を持ってやって来るようになったのである。

そんな無防備な片割れは今、ハオの傍らで淡い眠りに落ちていた。

敵地に持ち霊も持たずに訪れ、挙げ句の果てに眠りこけている葉には呆れを通り越して感心するしかない。無論、そこには多大な嫌みが含まれている。傍らにいるのがハオで無ければ、直ぐさま寝首を掛かれてもおかしくない状況だろう。生憎ハオはそうまでして相手を殺そうとする程追い詰められてはいない。おまけに、この片割れはまだ取るに足らない程弱かった。幼く脆弱で、ハオがこのまま細い首筋に手をかけて力を込めるだけで死んでしまうような、そんな生き物だった。

「…………」

その癖、葉はハオに会う事を恐れなかった。
正確には、恐れてはいても怯まなかった。霊視で先回りをして散々本心を言い当てやっても、葉は会いにくるのを止めなかった。逆に、ハオが突き放そうとすればする程傍にいた。葉が何も口にせずとも、ハオにはその考えが手に取るように解る。ハオの硬質な空気に対する少しの気まずさと、戸惑い。そしてそれ以上に、僅かな嬉しさがその胸を占めていた。
けれどその嬉しさは心の内側にばかり堆積し、舌の表面を上滑りしていく。人見知りの気がある葉にとって、突然兄と判明した相手への無難な話題の選択は難しいようだ。まして、会話の相手はあのハオなのである。

(普通の兄弟って、何話すもんなんだ)

そんな疑問を皮切りに、葉はホロホロとピリカ、蓮と潤、ルドセブとセイラームのやり取りから参考になりそうなものを必死に探していた。まん太は妹の話をしたがらないので除外だ。しかし、兄妹や姉弟の組み合わせはあっても、兄弟として参考になるものは見当たらないらしい。うんうんと悩みに悩んだ葉は、最終的にこう言った。

『……ご、ご趣味は?』

いったい何処のお見合いだ。
ハオが内心突っ込んだのは言うまでもない。けれど、そこでふと気まぐれを起こした。暇潰しに、この半身の問いに答えてやってもいいかと思ったのだ。

『人間の駆逐かな』
『もっと他にないんかい』

一応真面目に答えたハオへと、葉はげんなりした表情で告げる。

『他に?……オパチョと遊んだり?』
『なんだそれめちゃくちゃ意外だぞ』

そう答えれば、今度は亜麻色の瞳を大きく見開いて見せた。
その表情の移り変わりは、年相応で少しだけ興味深い。

『お前、最近思ったことそのまま言うよね』
『仕方ねぇだろ。隠したって意味ねぇんだから』

何言ってんだ、と続けたそうな表情に、皮肉ではなく僅かに口元を緩める。
けれど、恐らく目の前の片割れは気づいていないのだろう。

『まぁね』
『つか、お前とオパチョ何して遊ぶんだ?全く想像つかんぞ』
『それを聞いてどうするのかな?』
『いや、単純に気になるだけだ』
『ふぅん?…絵本読んだり、作った曲聞かせてあげたりだよ』
『そ、そうか…案外普通だな』
『オパチョはまだ小さいからね』
『ん…?でもちょっと待てよ。"作った"曲?ってことは、お前自分で曲作るんか?』

ピタリ、とハオは一瞬動きを止めた。調子に乗って、少し喋りすぎたらしい。自分の失言に気付いても、もう遅かった。僅かなその反応を葉は見逃さない。
亜麻色の瞳が、今度は酷く嬉しそうに、そして悪戯っぽく笑った。

『そっかそっかぁ、ハオは曲作ったりするんかぁ。オイラも音楽は好きだぞ。そうだ、ボブの新曲聴くか?』
『……いい。趣味じゃない』
『聞いてないのになんで解るんよ』
『お前が今頭の中で考えている奴だろう』

告げた瞬間、葉はきょとんと瞳を瞬かせた。

『…そんなことも解るんだなぁ』

しみじみと感心した様に呟く。けれど、次の瞬間いつものユルい笑みを浮かべた。

『じゃあ、他のもオイラが思い出せば聴かせられるんだな』

良いこと聞いたぞ、と葉は楽しげに笑った。ついでに、かぽっと頭に付けていたヘッドフォンを外す。

『でも、やっぱ耳で聴くのは違うだろ』

聞いてみろ、とハオの頭にヘッドフォンを被せようとした葉の手を、ハオは乱暴に振り払った。
葉の手から離れたヘッドフォンが、ベッドの上へと落ちる。

『気安く触らないでくれないか』
『……すまん。でも、聴くのそんなに嫌か?』
『僕は逆に、それ程聴かせたいお前が理解できないよ。そもそも、他人に触られるのは好きじゃない』

仮面の様な笑みで淡々と告げたハオに、葉は僅かに瞳を見開いたあと、小さく笑った。何故か、酷く嬉しそうな笑みだった。

『ウエッヘッヘッヘッ…そうかぁ、ハオは人から触られるの苦手かぁ』

そうかそうかと仕切に頷く葉は、ハオにとって意味不明だった。
否、その言葉と感情の関連性は解っている。葉は今、酷く喜んでいるのだ。戦闘以外でのハオを少しでも知れたのだと、好きなものや嫌いなものを聞けたと、幼い子供の様に喜んでいた。
ハオには、それが理解できない。
そんなことに、一体何の意味があるというのか。
それを知ったところで、ハオと葉の関係に変化があるわけではない。生まれるものも、ありはしない。盤上へ配置された陰と陽のように対局に位置する二人は、どう足掻いても敵同士でしかないのだ。

そう、葉の事を考えた瞬間。

まるで器から水が溢れる様に、何かが急に込み上げた。

「え」

ぼろりと自分の手の甲へ落ちた"それ"に、ハオは瞳を瞬かせる。
グローブを外した剥き出しの掌に、透明な雫が次々とこぼれ落ちていく。本人の意思から離れたそれは止まらない。ハオは、その様を他人事の様に見詰めた。水溜まりみたいだな、とぼんやり思う。
葉の顔を覗き込んでいたせいで、掌で受け止めきれなかった雫は次々と片割れの頬を濡らしていった。
泣いているみたいだな、とぼんやり思う。そういえば、葉の泣き顔は見たことがないな、とも思った。
ぽつ、と透明な雫が再び葉の頬を濡らす。

「……ッ、?」

その途端、不意に葉の瞳が開かれた。
どうやら、まだ覚醒しきってはいないらしい。葉はのろのろと自分の頬を濡らす雫に指先で触れ、不思議そうに首を傾げる。けれどハオに焦点が合った瞬間、亜麻色の瞳がぎょっと見開かれた。反射的に飛び起きた片割れの頭と自分の顎が正面衝突するのをさらりと避け、ハオは混乱を持て余した葉を見やる。伝わってくる感情から察すると、どうやら純粋に驚いたらしい。

「やっと起きたかい?……目が覚めたなら、もう帰るといい」
「え、あ、お、う、うん?」
「気を付けて帰るんだよ」

淡々と呟いたハオは、葉にくるりと背を向けた。
それは決して、安堵から見せる隙などではない。たとえ葉が自分をどうこうしようとしても、いくらでも対処出来る。そんな絶対の自信が仕草から滲んでいた。
ハオから一方的に突き放された葉は、困ったように視線を彷徨わせることしかできない。涙を流しながら、ハオはそれを隠そうともしなかった。まるでただの生理現象だといわんばかりに、淡々と過ごしている。一瞬自分がなにかしたのかとも思ったが、ハオに影響を与えられる程、葉は自分が彼の中で深い位置にいないことを知っていた。
途方に暮れて、窓へと視線を向ける。すると、ガラスにはぽつぽつと雨粒の跡が幾筋も残っていた。気付かないうちに、雨が降り出していたらしい。

「……ひでぇなぁ、雨降っとるのに帰れとか言うんか。ハオ」
「生憎、傘なんてものはここにないんだ」
「じゃあ、雨止んだら帰るんよ」
「……勝手にすればいいさ」

当たり障りのない会話を繰り返しながら、お互いに距離を測っているのは何となく察していた。
ハオへと伝わってくる葉の感情は、酷く粗削りで衝動的なものだ。
混乱。困惑。動揺。それに仄かに混ざる慈愛。どうにかしたいけれど、どうしたら良いのかわからない。そう葉の心は率直に訴えていた。そして今から葉がしようとしている事を、知りたくも無いのにハオは把握した。

「……ハオ、寒くねぇか?」

―――来た。
ぎこちなく切り出した葉に、ハオは僅かに瞳を細める。

「そこに布団があるだろう?好きに使えばいい」
「……そんでも、寒いんよ」

近づきたがる葉を、ハオが言外に拒絶する。
苦しい言い訳をする葉の意図は、既に解っていた。残念ながら、知りたくもないのに勝手に伝わってくる。

まったく、馬鹿馬鹿しい。

胸に込み上げた歪つな感情のまま、ハオは意地悪く口角を吊り上げた。侮蔑と嘲笑と拒絶を孕んだ、冷めた笑みだった。深紅の瞳はちっとも笑っていない。筋肉だけで形どった引き攣る笑みのまま、ハオの唇からは淡々とした声音が零れる。頬を滑り落ちていく涙だけが、酷く不釣り合いだった。
けれど、それはハオに背を向けられた葉から見えることはない。

「そんなことをする必要はないさ。僕はお前と馴れ合う気も無ければ、兄弟ごっこをするつもりもない」
「………お前、頼むから会話を成立させろよ。勝手に心読んで自己完結すんな」

唐突な言葉と噛み合わない会話に、葉は呆れ混じりの溜息をついた。
相変わらず自分の心はハオにだだ漏れらしい。侮蔑と拒絶を滲ませる淡々とした声音は、ただただ冷やりと葉の鼓膜を撫でていく。近づくことなど許さないと、その背中は強固に語っていた。

……それはどこか、昔のアンナを葉に思い出させた。

襖を閉じた自室に閉じこもり、全てを拒絶した彼女の小さな背中と、目の前のそれが重なる。
だから逆に、何とかなると思った。
もちろん、ハオとアンナが違うということは痛いほどに理解している。けれど、葉は視線を逸らさなかった。
自分へ背を向けたハオを見つめたまま、へらり微笑む。例え相手から見えないとはわかっていても、そうすることに意味があると思った。
静かにつぶやいた声音は、夜の冷えた空気の中に酷く柔らかい温度を落とす。

「………雨降ったからか、寒いんよ。そっちいくぞ」

よっこいしょ、とじじくさい掛け声で立ち上がった葉が、ゆっくりとハオに近寄ってくる。ぎしりと、体重をかけたベッドが軋む音がした。
瞬間、淡々としたハオの声音が空気を一閃する。

「それ以上近づいたら、殺すよ」
「お前はまだしねぇよ」

間髪入れずにきっぱりと答えた葉は、一切足を止めなかった。怯むことさえ、しなかった。
冷えたハオの身体に、温かな温度が近づいてくる。
次いで、肌にふわりと触れた布の感触。傍らに腰掛けた葉は、ハオも掛布に包み込んだ。けれど、決して触れてこようとはしない。触られるのが嫌いだといったハオの気持ちを汲み、一定の距離が二人の間にある。
ぎごちない空白は、今の二人の関係をそのまま現していた。

「………葉、邪魔だ」
「ハオだってさみぃだろ」
「別に」
「ふぅん、じゃあ知らん」

そう言いながらも、葉はハオから掛布を外さない。ハオも、それ以上何も口にしなかった。正確には、何も言う気が起きなかった。
霊視でも葉の本心は伺えない。むしろ、勝手に流れ込んでくるそれは取り留めのないものばかりだった。
作りすぎたカレーの残りを明日からどう処理するか。遅く帰ったら、アンナから修業が追加されないか。でもカレーの味は上出来だったな、と満足げな感情。それに始まり、明日は晴れると良いな、暖かいと良いな、朝飯は何にしよう、そんなことばかりだ。シャーマンファイト中に何を呑気な、と先程と同じ感情がハオを満たす。その半分は溜息に代わり、もう半分は嫌みとなって唇から零れた。

「……まったく、お前のそのユルさは尊敬するよ。葉」
「うえっへっへ、そんな褒めんなって」

へらりと笑う葉は、ハオにとって何処までも不可解な存在だ。
いつになってもその感覚は変わらない。ハオの隣へ腰掛ける葉の行動は、やはり理解出来なかった。

「馬鹿、けなしてるんだよ」
「相変わらず遠回しだな、お前の嫌みは」
「そうでもないだろ」

ウエッヘッヘッ、と葉はハオの傍らでさえ、いつもと同じ気が抜ける様な笑みを浮かべる。ちらりと盗み見た横顔は嬉しげだ。

(ハオは、あったけぇなぁ)

………声なく響いた葉の言葉に、ハオは知らんぷりをした。
そして、自分の頭を一瞬掠めた思考にも無視を決め込む。
認めるのは、葉の思惑に嵌まった様で癪だった。けれどそう意識している時点で、ハオは既に矛盾を抱えている。頭の悪くないハオがそれに気づくのに、そう時間は掛からなかった。
苛立ち混じりに、ハオは葉の手の甲をパシリと叩く。
すると、一瞬意外そうな顔でハオを見遣った葉が、一つ瞬く間にふにゃりと笑みを浮かべた。瞬間、間髪入れずに、ぺちっと軽い感触がハオの手の甲に触れる。どうやら叩き返されたらしい。余りに柔らかい感触に、一瞬何をされたのか解らなかった。それはやけに砕けた、馴れ馴れしい仕種だった。兄弟として触れているのだとわかる、気安くて、不思議と温かい指先だった。子猫や子犬が共に生まれた兄弟を遊びで甘噛みするような、そんな仕種だった。
ハオはそれに、尚更苛立ちを募らせる。急速に距離を詰められても不愉快ではない事が、何よりも不愉快だった。どうしてこんなことになる。そう思うのと同時に、漸くハオは先に仕掛けたのが自分だったことに気がついた。無意識とはいえ、完全に葉のペースに乗せられてしまったらしい。
葉は葉で、ハオからの仕返しが返ってこないことに首を傾げている。その心の中は『……うん?反応返ってこねぇな?アレ?』等と言うふざけた思考でぎゅうぎゅうになっていた。どうやら、ハオから何かしらの反応を期待していたらしい。
うんうんと悩む葉の心の声が伝わってきた瞬間、ざまぁみろ、とハオは大人げなく思った。もう一切反応なんかしてやらないと、半ば意地になりつつある。
けれどハオはふと、そんな自分に気がついてしまった。そうなれば軌道修正しかかった機嫌は、再び急降下していく。相変わらず、葉はそんなことお構いなしだ。
どうしたんだよと言う代わりに、ぺちん、と再び軽い感触がハオの手の甲に触れる。
それはどこか、掌を濡らした雫と同じ温度がした。



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その指先は、この胸に小さな温もりを燈す。

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認めたくないハオさまと、ただ傍にいる葉くんの話でした。

2013.06.02

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