第2話

 溜息を吐く様に、妻が呻き声を上げた。その青白い肌は汗に濡れ、長く艶やかな黒髪は乱れている。落ち窪んだ眼孔、乾いた唇。襦袢の袂から覗く白く透明な胸は、苦痛に抗って浅く上下している。彼女の命が長くない事は明白であった。
村の藪医者はそれを迎えるに当たって、私に鋼の心を求めた。老いた医師に他意は無かろう。彼は、妻の死を受け入れるよう、その時が訪れる前から私を励ましたのだ。私は人類が誕生して以来、常に遺族が求められて来た覚悟を負う事になったのである。然し私にとっては、先に逝く妻の後を追う為の心積もりなのであった。そうは言うものの、その時が来れば取る筈の行動は、殆ど自分に覚悟を求めないであろう事も、何とは無しに予想がついていた。もう何年も前に、そう決めていたのだ。妻が逝く時は自分も――――いっときたりとも妻の傍を離れぬ事は、駆け落ちの際の誓いであった。それは単純に自らの愛情の証明の筈であったが、この様な形で現実になろうとは考えたこともなかった。
擦り切れる寸前の麻の布を手に取ると、盥に張った水に浸す。手に触れた冬の井戸水は硬く、肌を刺し貫く様に感じた。妻は病に伏せる迄毎日、これに白い手を触れて仕事をしていたのだ。そんな苦労をして、彼女は結核に罹った。私は身震いをしながら自らを責める。私は恋する女性を辛い運命から救い出した様な気になって、実際には更に苦しい状況に追いやっていたのだろうか。
硬い布を絞ると、擦れた掌が痛んだ。然しそれが果たして何だというのだ。妻の苦労を思えば、私の痛みなど何と甘いことか。私は濡らした麻布で、汗ばんだ妻の肌を拭ってやった。布が硬い分、その柔肌を傷付けぬ様に神経を使う。熱く火照ったその頬は、若くして張りを失っていた。私は苦しそうに呼吸をする彼女を見つめながら、己の無力さを思い知らされる。
 不意に、妻が震える瞼を開いた。微かに覗く漆黒の瞳は熱っぽく濡れている。然し嘗て散々私を魅了して止まなかったその輝きは既に、若い光を失っていた。然るにそんな様子の妻に、未だに惹かれている私はやはりもう若くはないのであろう。
「どうした、葵。何かして欲しい事はあるか」
 淡い眼差しで私を見つめる彼女に問うた。妻に不安を与えぬ様、可能な限り穏やかな口調を心がけた。然し彼女は既に全てを悟っているのであろう、何も言わずに首を傾げる。死に瀕し、病の為に潤んでいるにも関わらずその瞳は暖かだった。
「傍に、居て下さい……」
 妻は弱々しく掠れた声で私に願った。言われずとも私はそのつもりであるのに、彼女の瞳は縋る様に切羽詰った色を湛えている。私は優しく微笑むと、葵の額に口付けた。すると、妻は嬉しそうに淡く微笑む。私は薄い布団の中に自らの手を滑り込ませ、しっとりと濡れた彼女の手を握ってやる。然し握り返そうとする力は、最早残っていないらしかった。申し訳なさそうに眉を下げる妻に、気にするなと囁いた。それを耳にすると再び葵は薄く微笑み、ゆっくりと瞼を閉じた。
 彼女が伏せるようになってから、私は妻が眠りに落ちる瞬間が怖くてたまらない。その白い瞼を閉じて永遠に開かなくなるのではないかと思うと、直ぐに後を追う事が決まっていてもやはり身が竦む思いである。その度に私は葵の喉元に手を添えて、まだ脈動があることを確認せずにはいられないのだ。
 妻がまだ私の手元にあることを認めると、私は安堵した。畳上にて胡座を構き、頬杖を突いて愛する者の睡眠を見守る。葵のそれは、最早安らかとはとても言えない。絶えず額に汗を浮かべ、苦しみによって表情は歪んでいる。この数ヶ月、彼女は殆どの時間を床で過ごした。日に日に衰弱してゆく姿は、見ているだけで苦痛であった。
 五年だ。我々が共にあったのは、たったそれだけなのだ。時間はあまりに短く、葵はまだ二十歳に成ったばかりである。人生に於ける楽しみは殆どこの先に存在しており、私達の恋も途方も無く遠い未来へと続く筈であったのに。こんなにも早くそれが終焉を迎えるとは、一体誰が予想したであろうか。
 私達の恋は、熱く激しかった。出逢ってからは急速に心を通わせる様になり、その炎は全てを焼き尽くしながら燃え盛った。家から逃れる為に、駆け落ちなどという若い行動に走ったのも、熱に浮かされていた部分があるのであろう。そして二人の命が若くして燃え尽きようとしているのも、その火力があまりに強かった為であるに相違ない。
 葵の存在は、私の人生に突如出現した光であった。十七の冬に彼女に出会う迄、私は両親によって嵌められた枷に縛られたまま生きていた。人生の行く先は全て既に決められており、生きる自由も死ぬ自由もなかった。私はただ、家の為に最善とされる方向へ導かれるまま、自らの意思が入り込む隙も無い軌条の上を歩いていたのだった。



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