差し出された言葉の意味を。
微笑む花弁の柔らかさを。
さぁ、宣戦布告だ。






◆◇◆◇







ふわり立ち上る芳醇な薫り。
鼻腔を擽る柔らかなその薫りに、幸村の瞳がほろりと綻んだ。
カップを傾ければ、赤みの強い琥珀色の液体が鼻腔のみならず口腔をも楽しませてくれる。
頬が綻んでしまうのは、自然の現象。
芳しいローズヒップの薫りは、幸村の気に入りのフレーバーの一つだ。
殊、美しい眺めの中で嗜むソレは格別。
ゆっくりと薫りを楽しみながらカップを下ろせば、白い花弁が視界に飛び込む。
乳白色の小洒落た丸テーブルに置かれた花瓶には、艶やかに咲き誇る三本の純白の薔薇。
瑞瑞しく咲き誇る薔薇は、自らの魅せ方を知っている。
フルリと花びらを揺らす薔薇の様は、まるで小首を傾げた貴婦人のよう。
カップを解放した幸村の指先が、ゆるりと伸びる。
滑らかな肌を見せ付ける薔薇をひと撫で。
水分をたっぷりと含んだ花弁は少しだけヒンヤリと。
一時、指先に馴染む柔らかな感触を楽しむけれど、愛でる指はすぐに花弁を離れた。
向かうは、咲き乱れる花瓶の向こう側。


「大分お疲れのようだね、坊や」


伸ばした手の先には、乳白色に散る漆黒の清流。
梳ずればサラリと指を零れていくソレ。
丸テーブルに突っ伏し、後頭部だけを晒している人物の顔は見えない。
テーブルに散らばる髪を一房掬い、手慰みにクルクルと指に巻き付けてみる。
滑らかな黒髪は、指を二周ほどしたところで絡むことなくほろりと解けてしまった。


「……疲れもするっス」


二度目の挑戦と指に新たな髪を巻きはじめた頃、黒い後頭部から返答。
同時に、突っ伏していた体がゆるりと持ち上がった。


「あの人、ホント懲りないんスもん」


逃げるのも楽じゃない。
渋面を浮かべながら現れた容貌。
指に遊んでいた髪が再びスルリと解け、幸村の唇がくすりと小さな笑み。


「それだけ跡部が本気ということじゃないかな。坊やに」

「……本気なのは十分骨身に染みてわかってますけど襲われるのは勘弁っス」


辟易とした溜息とともに、背凭れに沈む華奢な肢体。
ジュニア選抜唯一の女子選手であるリョーマは、類い稀なテニスセンスで他者を魅了する。
けれど圧倒的な彼女の強さはセンスもさることながら、その実純粋にテニスを楽しむ無邪気さにあるのだと幸村は知っている。
なにしろリョーマのテニスに触れ、テニスに対する概念を覆されたのだ。
テニスは楽しむものだと。
青天の霹靂とでもいうべき衝撃を与えてくれたリョーマへ、幸村はある種の憧憬すら持っている。
そのテニスへのひたむきな彼女の姿勢に、心に。
──とはいえ他者を惹き付け魅了するリョーマであれど、恋愛には不得手であるらしい。
テーブルに頬杖を、その上に顎を乗せる。
そこから零れ落ちたのは、二度目の巨大な、そして深々とした長い長い溜息。


「落ち着くまでここにいるといいよ。例え跡部が追い掛けてきても、ティータイムの邪魔はさせないさ」

「……ども」


傍らのティーポットから別なるカップへ、新たな琥珀が注がれた。
柔和な笑顔で幸村が差し出したカップは、疲労困憊とばかりのリョーマへと渡った。
植物園の中に誂えられたこのカフェテリアに、リョーマが訪れたのはほんの十分ほど前。
練習後のティータイムを楽しんでいた幸村だったが、扉がけたたましい音を立てて開け放たことにより打ち砕かれた。
一陣の風を纏い息せき切って園内に飛び込んできたのは、黒髪を靡かせたリョーマ。
テニスですらあまり乱れることをしない呼吸を忙しなく細い肩で繰り返し、大きな瞳が周囲をグルリと一瞥。
瞬間、景色の中に幸村を見付けるや、そのしなやかな身が幸村へと走り寄ってきた。
そうして幸村の前に滑り込み、叫んだ。
曰く『跡部さんに食われる。助けてくれ』だそうだ。
関東大会で青学と当たってよりコチラ、跡部がリョーマへと熱烈なアプローチを繰り返しているのは有名な話。
大会終了直後に公衆の面前で跡部がリョーマを堕とすと公言したのも、記憶に新しいこと。
であればこそ、リョーマの発した救助要請は至極得心がいこうというもの。
聞けば今回の逃亡劇の原因は、跡部にキスを奪われたことらしい。
しかも、それはそれは濃厚なフレンチで。
リョーマが危機感を抱いて逃げ出したとておかしくはない。
というか普通逃げる。


「しかし跡部も随分なことをしたね」


長い睫毛を伏せたリョーマが細い指先をカップに絡め、紅茶を一口。
やっとついた一息はどうやら彼女の緊張を解くに成功したようで、強張っていたらしい肩がホッと弛緩したのがわかった。
けれど解らないことが一つ。
なぜ跡部がそんな暴挙に出たか、だ。
リョーマを堕とすと公言した跡部ではあるが、フェミニストの気──とは言え酷く限定的なフェミニズムだが──がある彼だ。
理由なく強引に事を進めるとは到底思えない。
そうなれば、今回のフレンチキス事件には某かの原因があるのではなかろうか。
コトリと首を傾げた幸村がリョーマへと瞳を細めれば、幾分和らいだ風情の琥珀と絡んだ。


「……さぁ。あの人の思考回路なんか俺にはわかんないっス」


それはそうだ。
リョーマの返答を受けて思わず胸中に同意を示してしまい、幸村の唇が小さな苦笑。
ただでさえ予測不能な男である跡部だ。
殊、性愛面に関してなどよほどの者でなければ理解など及ばないだろう。
ましてや恋愛に頓着しないことでも有名なリョーマに問うほうが間違というものだ。


「……ほんと……」


検討違いな問いを乗せた舌を一度流すべく、幸村の指がカップへと絡まる。
けれどカタリとソーサーを離れたそれが傾くより、少し早く。
目の前の少女の唇から、堪え切れぬ苦笑。
それがあまりにも……────


「俺、追い掛けたい派なのになぁ」

「────」


苦笑に緩む瞳が、あまりにも柔らかいから。
一瞬、幸村の鼓動が跳ねた。
刹那、あぁ……と胸の奥で上がる得心の溜息。
跡部の暴挙の理由が、わかった気がした。


「俺さ、追い掛けられるより追い掛けるほうが好きなんスよ。部長も、不二先輩も、真田さんも、跡部さんだってね。だから追い掛けられると逃げたくなるんスよ」


両手でカップを掲げる少女は、コート上の傲岸不遜な態度など微塵もなく。
凛と鋭い印象すら持たせる釣り気味の猫目が、とてもとても柔らかく綻んでくれる。
それはまるで、恋焦がれるような──。


「あ、もちろん幸村さんも追っ掛けたい人の一人なんで。むしろ部長と跡部さんに並ぶ筆頭っスから」


愛らしくまろい頬をほんのりと染め、ヘヘッと笑う。
きっと彼女は、無自覚だ。
リョーマはきっと、テニスの強い者が好きだと言っているだけ。
だから自らの認めた者に向けられる好意は、そこまで悪くはない。
けれど追い掛けられたら逃げ出したくなるのだ、と。
つまりリョーマは跡部を認めている。
それはあくまでテニスプレイヤーとしてではあれど、憎からず思っている。
あれだけ追いかけ回されているにも関わらず、だ。
そんなことを、こんなにも愛らしい笑顔で語られでもしたならどうなるか。
跡部とリョーマの間になにがあったかは、幸村には知りようもない。
だがもし跡部がこれを目にしていたなら。
強靭なメンタルを有したあの跡部景吾という男が、あっさりと忍耐を振り切ってしまったのも頷ける。
むしろ耐え切れる者がいたならお目に掛かりたい。
なにしろこの幸村をもってしても、リョーマの笑みに胸の疼きを禁じ得なかったのだから。


「俺も……対象なんだ。それなら、チャンスはありそうだね」

「え?」


零れたのは、宣戦布告。
クスリと綻んだ笑みの向こうで、意味を拾い損ねたリョーマがキョトリと首を傾げた。
サラリと流れる艶やかな黒髪。
大きな瞳をパチリと瞬くがままの少女の、愛らしいこと。
ゆるりと、幸村の手が伸ばされた。
困惑に眉を垂らすリョーマの前、スルリと花瓶から薔薇を一本。
咲き誇る艶やかな貴婦人が、一度ふわりと震えた。
真白の花を支える深緑の青は実に鮮やかなコントラスト。
棘の取り除かれた茎は瑞瑞しい青。
その半ばより少し上に指先を添えれば、いとも簡単にパキリと軽やかな音が立った。


「幸村さん……?」


困惑を宿す呼び声。
不思議げに首を傾げる姿は、愛らしい容姿も手伝って幼くも可愛らしい。
茎を短く手折った薔薇を片手に、幸村の瞳が再びフフと笑んだ。


「プレゼントだよ、坊や」


そうして、白薔薇は幸村の手でリョーマの髪へと差し込まれる。
艶やかな黒髪に咲く淑やかな白薔薇。
それはなんて美しい光景。


「なんスか……これ」


差された薔薇へ確かめるように小さな手が伸びるけれど、花弁に触れた指は柔らかな表面をフワフワと撫でるだけに留まった。

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