ジワリ、滲み出す汗が幾つ目かの軌跡を作り上げては落ちていく。
滴るそれを右手の甲に拭うけれど、右手自体がシットリと濡れていればなんの意味もない。
被っていた帽子を脱げば、汗に濡れた髪たちが微かな風にも解放を歌い歓喜に揺れた。
暑いのは当たり前。
つい先程までリョーマの身は、ウィンブルドンのコートにあった。
世界中から選抜されたテニスの強豪たち。
同年代の選りすぐられたテニスの若い名手たちが、その実力を示す祭典。
その一角──日本代表の中に名を連ねるリョーマは、現在負けなし。
ついでに言えば顔なじみの日本代表選手たちもまた、順調に白星を上げているようだ。
一試合を終えて自主的な休憩と木陰に赴いたリョーマの傍らには、毒々しいまでの蛍光紫に彩られた缶。
愛飲のジュースがないからとコチラで購入した代用品らしい。
左手に捉えた帽子を団扇よろしくパタパタと揺らせば、頼りない微風が前髪だけをゆるゆると揺らした。


「──っとに……聞いた通りの気ままっぷりだな」


帽子の齎す気休めにすらならない風で前髪を遊び、右手を傍らへ。
リョーマと同調するように汗だくな缶が指先に温い雫を垂らしたと、ほぼ同時。
ザリと草を踏み締める足音とともに、甘すぎる美声が背を撫でた。
ゆるりと右手の缶を口元へ迎え、ゆっくりと呷る。
僅かに後方へ傾いた視界に、陽光を弾く鮮やかな銀色が揺れた。


「休憩ならあっちにスペースがあるじゃねぇか」


後ろから覗き込んでくる男を上目に見止め、リョーマの喉が炭酸を一口ゴクリ。
シュワシュワとした感触はお気に入りのソレと同じではあったけれど、ソレにはない口に残るわざとらしい甘さ。
あぁやっぱりポンタの方が好きだ、なんて思考は明後日。
シャープな顎先に休憩スペースを示す男には、気のない返事を返しただけ。
唇から缶を離せばふわりと、これまたわざとらしいブドウの香りが鼻孔を撫でた。


「……聞いてねぇだろ」

「聞こえてはいるけどね」


缶を下ろすとともに体制を初期に戻すと、自然に男の姿はフェードアウト。
苦々しげな声が後頭部に刺さるけれど、ジュースに濡れた唇が零すのは大きな欠伸。
ついでに空に突き出した腕でグッと筋を伸ばすおまけ付き。
華奢な背に、微かな溜息が聞こえた気がした。


「仕様のねぇ子猫ちゃんだな」

「頭大丈夫?」


サクッと新たに一、二度草を踏む音が聞こえたかと思えば、リョーマの傍らに長い脚が投げ出されたのが見えた。
ついでに日常で聞くことなどそうそうないだろう寒々しい台詞が聞こえた気がしたが、冷め冷めとした一言の元に一刀両断。
言葉に刃が宿っていたなら、それはもう居合切りの達人も真っ青な威力だったことだろう。
眉一つ揺らすこともなく。
真顔のままで。
しかも傍らの男に視線すら寄越さず。
試合の行われるコートを見詰めたまま、白い指先が再び毒々しい缶を握った。


「……つかテメェ、絆創膏はどうした」


缶を傾けようと持ち上げた腕が、ピクリと止まった。
隣からピシピシと刺さる蒼い視線。
ジリジリとした太陽光の元、滲み出た新たな汗がピリリと微弱な痛みを頬に走らせた。
白い肌の上で赤く色付く小さな線たちは、覆うものもなく剥き出されたまま。
昨夜できたばかりのまだ真新しい傷は酷く汗に染みた。


「……邪魔だったし」


一瞬の沈黙の後、下手な言い訳は無駄と判断。
突き刺さる詰問の意図もあらわな視線は、ごまかしも偽りも即座に見抜いてくれるだろう。
それが男の──跡部景吾の専売特許たるインサイトだ。
それならば妙な揚げ足を取られる前にさっさと事実を告げてしまうに限る。
例え多少の小言は聞かされることになったとしても、だ。


「ほー邪魔だった……なぁ?」


頬に刺さる針が、強さを増した。
横面に突き刺さる視線が痛い。
昨夜にこさえた傷などよりその目のほうがよっぽど痛いと、無駄に甘ったるい咥内からは深い溜息。
断続的な痛みを齎す擦過傷は、既に皮膚に馴染んでいる。
痛みといえど感じていること自体を忘れる程度の、ほんのささやかな痛み。
むしろ大仰に絆創膏やらなにやらを貼り付けていたほうがよっぽど不快だ。
汗に濡れてふやけた絆創膏などを付けておくぐらいならこの程度の擦過傷、放置しても問題はない。
とは、リョーマの見解。
しかし跡部はそうは思わないようで。
抑揚を欠いた、いっそわざとらしいまでの響きでもって反芻された台詞は、跡部の思考を十二分に教えてくれる。
握った缶は掌に馴染み始め、冷たいはずのその汗は既にリョーマと同じ温度。


「大体テメェは警戒心てもんがなさすぎんだよ。どこにでも首突っ込んでいきやがって。誰彼構わず挑発して回るだけじゃ足りねぇのかアーン?今回でこそかすり傷で済んだからよかったものの本来なら病院送りだったんだぞ。それが、言うに事欠いて『邪魔だった』だ?どの口が言いやがる」


甘やかに過ぎる美声が次々に紡ぎだす言葉はまるで針のよう。
チクチクチクチクとリョーマの鼓膜を刺すそれは、反論の余地すらなく地味に痛い。
リアルテニスボールなんかよりコチラの口撃のほうがある意味でよっぽど殺傷能力が高いのではないだろうか。
握った缶を呷ることも出来ず、リョーマはただ見るともなしにコートを見遣る。
捕まってしまった鼓膜は仕方がないとはいえ、せめて視覚だけでも逃がしてやろうというせめてもの抵抗だ。
チクチクとしたお小言は背に刺さったまま。


「おい聞いてんのか」

「…………」

「おい」

「…………」


背を向けたまま微動だにしなくなったリョーマを訝ったか、跡部の眉が跳ねたのが解った。
怪訝、というより些か不愉快の要素が色濃い呼び声。
聞こえてはいるけれど、散々ぱら無計画だ無鉄砲だとこき下ろしてくれた相手。
そうそう安々と返事を返したくなくなるのが人の情。
跡部の言い分はわかる。
幾ら耳に痛く、ダメージの大きな言葉の弾丸が休むことなく放たれ続けていようと、その心情の根底にリョーマを気遣う心持ちがあることは解っている。
解っては、いるのだけれど。
視線はコートを向いたまま、無言。


「…………」

「…………」


呼び声が途切れ、小気味よいインパクト音が耳に届く。
軽快に走り回る選手たちの姿は、各国の代表ともあってレベルが高い。
あーあの人上手いなーなんて頭の片隅に呟きながら、漸く握りっぱなしの缶を唇に迎え入れた。
背に刺さる言葉こそなくなったものの、ソレ以上の威力で突き刺さる視線は消えていない。
不快を全面に押し出したソレは、ビシバシと背に感じる。
けれどそれでもリョーマは振り向かない。
心配してくれているのは、確かに解っている。
だが、解ってはいてもリョーマに後悔などない。
あの時、シウに付いてクラックのアジトに乗り込んだ。
そして危機に瀕し、幾つもの傷を負った。
だけどそれでも、リョーマの胸に僅かの後悔もないのだ。
傷は負ったかもしれない。
けれど彼等に対する因縁は返せた。
テニスは、楽しい。
いじけるのは人の勝手。
けれどそれによって自分の周囲を傷付けられるのは許せない。
テニスに於いて格下のレッテルを貼られた事も許せない。
そして何より、見ていられなかったというのが実際のところ。
シウの話を聞けば聞くほどに、シウとキースの間柄は──言い方は悪けれどバカバカしいほどに単純な諍いだった。
テニスに絶望し、ラケットを握る者たちを片っ端から潰して歩きながら、それでも何処かで認められたがっていたキース。
自責の念に狩られながら、それでもそのやり方に疑問を抱き、叩き潰してでも彼の愚行を止めようとしたシウ。
結局のところ二人はお互いがテニスをして、互いに認め合えればそれでよかった。
なのにそんな単純なことにすら気付かずすれ違い、擦り減り潰し合い始めた。
気付けばなんとも単純なこと。
なのに一度食い違い始めた歯車は無理矢理回り続け、結局互いの歯を傷つけた。
余計な手出しだとの自覚はあった。
けれどあの状態のシウがキースに勝てるとは、どんなに贔屓目に見ても到底思えなかった。
それになにより、叩き潰すだけでは何の解決にもならないことなど、解っていた。
叩き潰しただけでは、二人ともがただ堕ちていくだけ。
それでは意味がない。
自分がラケットを握ることで、それを気付かせる事が出来るのなら。
否、あのままでは二人は気付かぬままどちらかが尽きるまで潰し合うのみ。
リョーマが立たなければ、きっと二人は気付かなかっただろう。
手を差し延べたがっていたことに。
差し出された手が、あることに。
そんなのは我慢がならなかった。
看過することなど出来なかった。
それは、なぜなのか?


「……俺は……嫌だね」


ポツリ零れた言葉は、咥内と違ってほのかに苦い。
背中の視線が、怪訝に跳ねた気がした。

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