きっと君は、気付かない。
黒ずみ、俯垂れ始めた花の事になど。






◆◇◆◇







最初は、ただ強いと思った。
ただそれだけ。
それがいつの間にか視界をちらつき始め、徐々にその割合が増えていった。
──そしてそれは無意識に少女を目で追っていたせいなのだと気付くのに、そう時間は必要なかった。


「なーに黄昏れてんだぁ?」


机についた肘の上、ぼんやりと開いた眼がグラウンドを見下ろしていれば、前方から聞こえる耳慣れた音。
少し高めの声とスイーツ特有の甘い香りを振り撒くそれは、この三年で飽きるほど慣れ親しんだものだ。


「……いんや……。たまにはワシだって呆けたくもなる」


視線はグラウンドから外さずに。
目の前でガムを咀嚼するクラスメイト兼チームメイトが、薄い肩をヒョイと竦めたのを視界の端に見留めた。
見下ろした先には、体育の授業。
念入りに、そして機械的に強制された柔軟が行われており、時折途切れ途切れな悲鳴が窓ガラスに追い返されている。
三年である仁王たちは、現在進路指導の名の元に自習。
よって、教室内に限定はされるものの自由時間のようなものだ。
でなければ目の前で膨らみ始めた風船がこうものさばれるわけがない。
撒き散らされる甘い香り。
どうやら今日はブルーベリーな気分らしい。
鼻孔を擽る小気味よい香り。
仁王の視線は未だ、グラウンド。
走り回る体操服の襟色は赤。
一年の色。
一年女子の種目は、テニス。
テニス部用のコートとは別に設置された一般用コートでは、空振りやら特大ホームランやらが頻発している。
その中にあって、一際目立つ少女が一人。
背の半ばまである黒髪、無駄のない鮮やかなフォーム。
明かなミスショットであろうボールをあえて拾っているところを見ると、どうやら教師に代わり軽い指導という形で打ち合っているらしい。
それも当然といえば当然。
その少女こそ、立海大付属中が誇るテニス部エース、越前リョーマなのだから。
男子公式戦全勝に加え、時に神の子・幸村すらも圧倒せしめる強さは圧巻の一言。
しかし彼女を示すに当たり、ずば抜けたテニスセンス以外にももう一つ欠かせない要素がある。
それが、類い稀なその容姿。
艶やかな黒髪と大きな琥珀の瞳、薄紅の唇、白く絹のような肌。
凛とした空気を纏うその容貌は、美少女と呼ぶに遜色なく。
その彼女こそが、仁王が無意識に追い求めてしまう少女その人。
華奢な体躯が躍動する度に描かれる黒髪の軌跡。
見下ろすしか出来ない距離が、無性に歯痒かった。


「誰かイイ女でもいたか?」

「……バカ言いんしゃい。胸も尻もない一年に興味なんぞないぜよ」

「だろうなぁ」


退屈に負けたか身を乗り出して仁王の視線を追い始めた丸井だが、素気ない返答に再びその背を椅子に乗せてはプクリと唇を膨らませた。
視線は、まだ逸らせない。


──言えるかよ


腹に吐き出した言葉は、深い自嘲を纏う。
眇めた瞳が、仁王の口端を無様に吊り上げた。


──この詐欺師(ペテン師)と呼ばれたワシが……その胸も尻もないガキ一人すら……


掻っ攫えないなんて。
自嘲なんて、この一週間で飽きるほどした。
なのに未だ湧き出る無様な笑みは、未練の証。
──リョーマが幸村と付き合っていると聞いたのは、先週の終わり。
女子たちが真しやかに囁き合う声を漏れ聞いた。
普段ならば女子特有の噂話と相手にもしなかっただろう。
けれど、幸村のリョーマへと向ける視線は明らかに他者へのそれとは乖離していた。
そしてリョーマもそれを憎からず思っており、むしろその好意に甘えている節も伺える。
そうであれば、その噂が単なる噂になど思えるはずもなく。
ただ己の怠慢に奥歯を噛み締めるしか出来なかった。
奪う、などという選択肢が、浮かぶはずもない。


──相手が幸村じゃあな……


新たな自嘲。
勝てるはずがない。
男子中学テニス界最強の男であり、優しく気立ての穏やかな幸村に。
闘う前から、敗北が約束されてしまった。
同じコートにすら立てやしない。


「勝てるわけないぜよ」

「ん?誰に?」


知らず唇を滑り出た言葉は、風船作成に精を出すクラスメイトに拾われた。
チラリと、一度視線をそちらへ。
そして、再び視線はテニスコートへ。


「……監督教師」

「へ?」

「まぁるぅいぃ……。お前ぇ……今は何の時間だぁ?何噛んでやがるぅ?んン?」

「げぇッ!」


素知らぬ顔を決め込んだ仁王の目の前から、遅れてきた自習監督教師が青筋を立てる音が聞こえた。
次いで丸井の悲鳴混じりな謝罪やら言い訳やら。
抗議混じりな援護を求める視線が横顔を刺すけれど、仁王の視線を揺らすには値しない。
教師に首根っこを捕まれて引きずられて行く丸井を見送りもせず、仁王はただ一心に。


──俺には似合わんぜよ……


ただ見詰めていられるだけでいい、だなんて三流小説のような考え。
似合わないにもほどがあると、苦笑混じりに瞳を細める。
瞬間、見詰める先に揺れた黒髪。
振り向く琥珀の瞳。
──視線が、合った気がした。













憂鬱な気分を抱え続けたこの一週間。
気付けばカレンダーはめくり変わり、年の瀬。
12月の文字が誇らしげに佇む師走。
痛みを与え始めた風がピシピシと窓を叩き、暖かい部屋への侵入を試みる。
十二月初めの土曜日。
部活もない休日。
けれど何処に出掛ける気力も起きず、ただベッドの上でダラダラと過ごした。
けれど、そんな怠惰な時間が一瞬にして変容した。
携帯を震わせた、一通のメールによって。


『From:越前
 ---------------------
 ウチの近くにある公園。
 今すぐ集合。』


慌ただしい足音が響き、五分もすれば仁王の姿は彼の自宅から消えた。
走り去る仁王の背が向かうのは────













「──遅いんだけど。手ェかじかんじゃったじゃん」


想い人の唐突な呼び出しに慌てて家を飛び出した仁王が向かった先。
待ち合わせとなったリョーマの自宅に程近い公園、そのベンチに彼女はいた。
咲き誇る山茶花の赤い花の前に陣取り、ムスリと片眉を跳ね上げた姿で。


「……随分やのぅ。唐突に呼び出したのはソッチぜよ。こっちの予定も考えんしゃい」


予定も何もない。
けれど慌てて飛んできたなんて知られるのは癪で、公園前で息を整えてみたり悪態をついてみたりと無駄な見栄を張ってみる。
ジャケットのポケットに手を突っ込んで余裕な素振りをしてみるが、内心は穏やかなはずがない。
唐突な呼び出しをくれたリョーマは、何が目的なのか全く解らない。
ガラにもなくポケットの手を握った。


「で?何ぜよ?突然呼び出して」

「ん?仁王先輩、今日誕生日なんでしょ?」

「……よく知っとるのぅ」

「昨日、柳先輩が言ってた」


やっぱりか。
問い掛けた矢先にリョーマの口から飛び出した“誕生日”の単語に鼓動を跳ねさせたのも束の間、立海のデータマンによる入れ知恵というネタばらし。
知らず落ちかけた肩を気力で維持。
顔は、あくまで余裕を装ったまま。


「で?何かくれるんか?」

「うん。二つ、先輩にプレゼント」


ニッと、少女が笑んだ。
まるで新技を決めた時のような、鮮やかな笑み。


「まず一つ」


ピッと、白い指先が仁王の眼前で空を指す。
唖然と目を見開く仁王を尻目に、クスリとした微笑みが耳朶を叩いた。


「……俺、幸村さんと付き合った覚えないから」


告られはしたけど。
淡々と。
何処までも淡々と。
けれどリョーマが告げた言葉は、仁王の脳を震撼させるに十分過ぎた。


「……は……?」

「だから、付き合ってない。告られはしたけど断った。understand?」


思わず漏れた間抜けな声に、リョーマは呆れ顔を零しながら繰り返す。
幸村とは、付き合っていないのだと。
恋人ではないのだ、と。


「残念ながら俺、趣味悪いから。優しい男よりは人騙して遊ぶような奴がいいんだよね。あ、髪は銀髪がいいかな。尻尾もあるともっと好みかもね」


悪戯に笑む少女は、仁王を見上げたまま一歩。


「これが一つ目のプレゼント」


先より一歩近付いた距離。
仁王の脳は、リョーマの言葉が占拠しその活動の半分を放棄状態。
少女の黒髪が、サラリと揺れた。


「そんで、二つ目のプレゼント」


リョーマの言葉が脳に染み渡った頃、仁王の瞳が大きく見開かれていく。
人を騙して遊ぶ、銀髪の、尻尾髪。
それは……──。


「──譲るよ」


仁王に向かい差し出された手。
唖然と佇む仁王を見詰め、少女は笑う。


「──開始の言葉。告白する権利を、アンタに譲るよ」


白い指先。
薄紅の三日月。
それらが差し出す、最高の贈り物。


「……は……上から見られたモンやの……」

「なに?いらない?」


クスリと漏れた笑みは、勝ち気な彼女特有の麗しいソレ。
そうそれは、なにより幸福な贈り物。
伸ばされた少女の細い指先に手を重ねれば、ヒヤリと体温が奪われる。
重ねた手から移る熱。
ジワリと染み渡る温かさは、胸の奥。
ゆっくりと引き寄せれば、小さな体が胸に飛び込んだ。
確かめるように抱きしめて、寒さに紅潮した頬を温めるように艶やかな黒髪へと埋めた。


「……好きぜよ」

「うん。知ってる。俺も好き」


頬を叩く風は冷たさを増した。
頬が温かいのは柔らかな黒髪の感触のお陰だと言い聞かせて。
強く強く、逃がさないように。
その肢体を抱きしめた。






◆◇◆◇







きっと君は気付かない。
黒ずみ、俯垂れ始めた花の事になど。
けれど気付いていなかったのは……?
ひたむきに、君だけを見詰めた花はいつしか君の掌の上。
柔らかな白い指先は、理想郷。
朽ちかけた花弁を色付け、そして始まる。
新しい新緑が芽吹いたのは、今この瞬間から。




-END-


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