刹那と永遠。
それはいつでも紙一重。






◆◇◆◇







苦しいと、胸のシャツを握る。
汗を吐き出す皮膚がペタリと布地を吸い寄せ、不快感は弥増した。


「おーいニオー!帰りに13のアイス買ってこーぜー!」

「奢りか?」

「ったりめーよ!太っ腹だかんなー……ジャッカルが」

「俺かよッ!」

「あ!丸井せんぱーい俺も行くっス!」

「んじゃ四人分な!頼むぜジャッカル!」

「おいッ!」


背に聞こえる賑やかな会話は、右から左。
眼鏡を指先に持ち上げ、窓の外へ視線を投げた柳生に浮かぶのは、ただ憂鬱。


「っつーか見ろよ赤也!やぁっとゲットしたぜ!」

「あッ!ソレ女子が騒いでる占いの本っスか!?」

「あーあのめちゃくちゃ当たるとか言われとる胡散臭い雑誌な」

「ふふ。雑誌編集者も仁王にだけは“胡散臭い”だなどと言われたくはないだろうがな」

「……幸村……」


繰り広げられる歓談を間近に聞きながら、柳生の腕が鞄を迎える。
既に日は西日。
ともすればすぐにでもに空には満天の星が踊りはじめるだろう。
秋の空は瞬きとともにその顔を変えてしまう。
──それは人の心とよく似ている。


「幸村君。私はお先に失礼させていただきますね」

「あぁ。お疲れ」


穏やかな笑顔とともに齎された労いに軽く頭を下げて、柳生は一人部室を後にする。
カチャリと開いたドアを潜り、乾いた空気のただ中へ。
重い口をゆっくりと閉じるドアの隙間から、丸井の声が微かに聞こえた。


「今月一位は天秤座かぁ。誰かいたっけか?」













胸が詰まる錯覚。
息を吸う度、喉に詰まった鉛が胸を圧迫する。
ギリリと握り締めた胸のシャツが派手に形を崩した。


「……情けない……」


零したのは、自らへの自嘲。
慢性的に胸を苛むそれは、もはや看過できないほどに苦しさを齎す。
笑おうと持ち上げた口端は無様に失敗し、ただ秀麗な顔を歪めただけに終わった。
苦しくて苦しくて、泣き出したくなる女々しさ。
……これが病気であればどんなに良かっただろう。
医師に判断を仰げば、答えが得られるのだから。
けれど柳生が抱える痛みは、どれだけ有能な医者であろうと治癒は不可能だった。
──たった一人の、少女を除いては。


「…………」


見上げた空は、東からその色を変えていた。
あの子のいる地と同じ空。


「……誰かを想う事は……こんなにも……──」


愛おしいと、思うのに。
彼女の隣に立ちたいと願うのに。
きっとそれは、叶わない願い。
自分のような人間、彼女の記憶にすら残ってはいないだろうから。
思いを言葉に綴るのは、得意なはずだった。
けれど今は。
想いが大きすぎて、言葉になどなりはしない。
ただ鮮やかな彼女の勇姿を思い描くだけで痛み、憂いを撒き散らす胸。
泣きたくなる程の切なさなど、知りもしなかった。


「っ……」


握った拳を額に押し付ければ、唇が震えた。
零れないように、溢れてしまわないように。
想いを塗り込めた言葉を、硬い空気とともに喉奥へ閉め殺した。






◆◇◆◇







10月18日。
週明けの月曜日。
けれど運動部から見れば休日も平日も大差なく、そこまで大きな怠惰は感じない。
ただ着て行く服と朝の時間が変わるだけだ。
朝練、授業、昼食、また授業、部活。
いつもと同じサイクルが同じように回るだけ。
倦怠感を齎す日々が幕を開け、休日の話題に花を咲かせるものたちが楽しげな笑い声をあげた。
けれどだからこそ、だったのかもしれない。
“非凡は日凡の中にアリ”と言ったのは、誰だっただろう。






◆◇◆◇







全てに於いて、唐突だった。


「あ、テニス部終わりました?」


いつものように授業を受け、いつものように厳しい部活を終えた。
いつもと同じ退屈で充実した一日を送った。
異変は、最後に起こった。


「越前……さん……?」


相も変わらず部室で雑談に耽るレギュラー陣の輪から抜け出し、柳生は一人帰路へ向かった。
鬱屈とした気分には歓談に加われる余裕などない。
重い足取りを引きずり、向かった校門。
西日を受けて佇むソレは、平凡なただの門に過ぎない。
けれどそこに寄り掛かる人物は、柳生の足を押し止めるに十分過ぎる威力を発揮した。
緑を基調とした見慣れないセーラー。
艶やかな黒髪、大きな琥珀の瞳、淡い薄紅色の唇、華奢な体躯。
──間違えるはずもない。
全国大会決勝、女子でありながら神の子とまで呼ばれた幸村を、打ち破ってみせた少女。
そして、柳生の想い人。
越前 リョーマ。


「なぜ……貴女が神奈川に……?」

「人に会いにきた」


突然の想い人の登場に凍結しかけた柳生の脳が、必死に声を搾り出す。
眼鏡の奥では瞳を大きく見開いたまま、戻らない。
柳生にあっさりと返じてみせたリョーマの態度は、相変わらずというか二ヶ月前と同じく素っ気ない。
フイと逸らされた横顔が西日に浮かび上がって麗しい、だなんて。
不意打ちに目にできたリョーマの姿に歓喜の動揺に取り乱しているくせに、そんなところばかりは冷静なのかと。
柳生の唇が微かな自嘲に揺れた。


「……ねぇ」


と、逸らされた横顔が柳生を呼ぶ。
横目に寄越された視線を受け止めれば、背けられたばかりの顔がゆるりと柳生を見た。


「アンタ、今時間ある?」


少し、肌寒い風が頬を撫でていった。













数歩先を歩くリョーマに導かれるまま、柳生の足が温いアスファルトを踏む。
速くもなく、けれど確実に立海から遠ざかっていく。
方向から言って、学校の最寄り駅の方角。


「あの……越前さん?どちらへ?」


柳生としてみれば想い人と連れ立って歩けているこの一時は、至福。
しかし、リョーマは先ほど言った。
『人に会いにきた』と。
わざわざ東京から赴き、更にはあの越前リョーマが校門で出待ち。
そのうえ彼女の第一声は『テニス部終わりました?』だ。
そうなるとリョーマは立海大テニス部の誰かを待っていたのだろう事は、想像に難くない。
しかし今の現状を鑑みれば、柳生には疑念しか浮かばない。
着実に立海から離れてしまっている。
待ち人がいるはずの、その場所から。



「どなたかをお待ちでしたらそろそろ戻られたほうが宜しいかと。レギュラーの皆さんも帰路に付かれる頃合いですし……」


暇潰しの散歩なのであれば、戻ったほうがいいと。
柳生としてはこのままずっと一緒に歩いていたい。
そうそう会う事も出来ない想い人との、思いがけない二人きりの時間。
これに喜ばない男がいようか。
しかし柳生自身の身勝手な願望によってリョーマの目的を妨げてしまう、無駄足を踏ませてしまうのは、望むところではない。
寂寥や切なさを噛み殺し、数歩先の小さな背を見詰める。
──彼女がいったいこんなところまで、しかも男子テニス部の人間に何の用があるのか。
気にならないわけではない。
だが、余計な詮索は出来ない。
そんな立場ではないと、柳生自身自らの立ち位置をよく理解している。
……しているつもりだった。
前を進む少女の足が、入り込んだ公園の中央で立ち止まる。


「……鈍感」

「は?」


背を向けたまま。
零れた音は低すぎて、聞き取れない。
思わず聞き返した柳生の先で、クルリと少女が振り返った。
そして、細い指先をビシリと柳生へと突き刺す。
不満げな瞳とともに。


「え……」


人を指差してはいけないだろうとか、行儀が悪いとか。
色々と窘めるべき行動をしてくれたリョーマだが、柳生の口から諭すような言葉は現れる事なく。
パチパチと目を丸くするしかない。
ヒタリと据えられた指先。
それの示す意味は。


「──アンタだよ」

「……はい?」

「だから。俺が用があったのはアンタだよ」


じゃなきゃこんなに離れやしないだろう、と。
些か呆れを内包した台詞が少女の唇から。
突き付けられた指の先、柳生はただレンズの奥を瞬かせるのみ。


「アンタは知らないだろーけど。俺は結構アンタの事見てたからね」


閃く艶やかな笑み。
それが示す意味は、意図は。
回転を拒否した優秀なはずの脳は、柳生に無意味な瞬きしかさせてはくれない。
少女の腕がゆっくりと下ろされ、琥珀が紫水晶を射る。
そのなんと強く、美しい事。
そして、齎される至福の栄光は……──。


「俺は、アンタが好き。アンタも……俺に惚れてるでしょ」


艶やかな、薄紅の花弁の中で。






◆◇◆◇







刹那と永遠。
それはいつでも紙一重。
差し出された白い指先。
勝ち気に、婀娜やかに。
貴女は笑う。


『Shall We love?』


求め焦がれた小さな薄桃の花弁が誘うその手を、拒む理由などありはしない。


『Yes,please』


極上の幸福は、一片の指先から。




-END-


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