それは、誰が流した涙だっただろう。






◆◇◆◇







重く垂れ込めた雲。
無言で横たわり、威圧するそれは威厳の象徴たる雫を幾重にも叩き付ける。
間断なく響く雨音は、建物全体に反響し耳を苛む。
打ち付ける雲の僕たちが室内への侵入を試みては透明なガラスに拒まれ、ベランダの排水溝から力無く地上へと滑り落ちていった。


「…………」


先日購入したばかりの小説を片手に、忍足の視線が窓を仰いだ。
重苦しい雲のお陰で時刻はまだ七時前だというのに室内には煌々とした蛍光灯。
恐らく街灯もまたその役割を早めては道を照らし始めているだろう。
雨は陰欝な気分になる。
それは昔から言われ続けた言葉で、一種の迷信のようなもの。
しかし、人とは不思議なもので。
迷信だと思えども故ない憂鬱を感じてしまう。
まるで脳に本能として染み込んでいるかのように。


「……アカンわ」


パタン。
空気を吐いて閉じられた小説が、ソファに跳ねる。
入れ代わりに立ち上がった忍足の足はキッチンへ。
どうにも鬱々とした気分だ。
偏頭痛の気を抱える頭が鈍い痛みを訴える様に微かに眉を寄せて、コーヒーでも淹れるべく長い脚を操る。
ミルに放り込む豆を求めて戸棚を開け、同時にこめかみを指先で軽くノック。
軽い頭痛を紛らわすべくした本能的な行動。
それと、ほぼ同時に。


──ピンポーン


甲高い、そしてどこか気の抜けた呼出し音が室内に反響した。
鼓膜が捉えた音に引かれ、豆の入った袋を持ったまま玄関を振り返る。
ザーッと砂を零すような水音を聞きながら、忍足の腕が揺れた。
豆の居場所は忍足の手からテーブルへと移動。
そうして忍足の脚がキッチンに背を向ける。
玄関にいるだろう──こんな雨の中訪れる物好きな──来客を迎えるために。


「はいはいどちらさん」


扉の向こうへ声をかけながらサンダルを突っかけ、覗き穴へと瞳を向ける。
来客は相手を確かめてから。
基本中の基本だ。
そうして覗いた窓の外。
──瞬間、忍足の瞳が見開かれた。


「ッ!リョーマ!?」


切羽詰まった呼び声とともにチェーンや鍵をひったくるように開け放ち、扉を勢いよく開け放った。
開いた扉から照らされた、廊下に佇む少女の姿。
小柄な彼女が、全身から雫を滴らせ俯く異様な光景。


「自分なにしてんねん!早よ入り!」


ずぶ濡れのリョーマの姿は、あまりにも異様だった。
部活で着用する見慣れたポロシャツ、部活中にしか被らない帽子、テニスシューズ。
短い黒髪の至る所から滴る雫は、柔らかなその髪が含む水分量の高さを物語る。
俯いたまま微動だにしないリョーマの腕を引き、自室に引き入れた。
佇んでいただけのリョーマの体は一切の抵抗なく忍足の家へ。
倒れ込むように引き込まれたリョーマの足元、玄関の石が瞬く間にその色を変えた。













「飲んどき」


コトリとリョーマの眼前に置かれたマグカップ。
立ち上る香りは香ばしく、カカオのいい香りを室内に拡散させる。
ユラユラと上る湯気が、その温かさを教えた。
ソファに沈み、雫の滴る髪にタオルを乗せたリョーマに動く気配はない。
髪は濡れたままだが、服は既に先とは様相を変えている。
引き入れたと同時に忍足によって押し込まれたシャワー室。
温かい水流に晒された後、用意されていた服──忍足の物であるためサイズは甚だ合わないが──に袖を通している。
パタパタと湯だった雫を滴らせるがままに俯くリョーマの表情は、見えない。


「……どないしたん?」


リョーマの隣に腰を落とし、自分用のコーヒーをココアの隣に。
話を聞くべくリョーマへと向き合えば、パタリと雫が一粒。
白いタオルの下、黒髪が揺れた。


「──ッ!」


声にならない慟哭。
詰まる息のまま、言葉も持たない細い腕が忍足の胸に飛び込んだ。
タオルが、音もなくリョーマの足元に落ちる。


「リョーマ……」


そうして胸に縋り声を殺すリョーマに、忍足の瞳が伏せられた。
あぁ、またかと。
リョーマはれっきとした女である。
しかし本人の意向とリョーマの父親の趣向で現在は“男子”として生活を送っている。
テニスの大会にも男子として出場し、類い稀なその実力によって中学テニス界にその名を轟かせた。
けれど、リョーマの転機は存外に早く訪れた。
リョーマに、好きな男が出来た。
だがリョーマは男として生活している。
大会にも出場し、功績も残してしまった。
女だと明かすわけにはいかない。
告白なんて出来やしない。
堪えて、諦めるしかない。
けれど時々、どうしても耐えられなくなる。
そんな時には、いつも忍足の元にくる。
幼馴染みであり、親同士の親交も深い、忍足に。
リョーマが女だと知りながら協力、ひいては見守ってくれる唯一の同年代。
それはリョーマにとっての癒しであり安らぎの場。


「……泣きや……気ィ済むまで」


そう言って優しく髪を撫でる。
優しくて温かくて寛大。
だからこそリョーマは生意気ルーキーの皮をかなぐり捨て、忍足に縋ることが出来た。
けれど……。


──……なんでなん……


忍足にとってそれは、けして喜ばしい事ではなかった。


──なんで俺やアカンの……リョーマ……


忍足にとってリョーマは、ただの幼馴染みなどではない。
幼い頃から抱いた淡い感情。
それが恋だと気付いたのは、もう随分昔だった。
守ってやりたいと思った。
キラキラとしたあの笑顔が好きだった。
だからこそ忍足は単身東京に赴いたのだ。
リョーマが東京に帰ってくると聞いて、中学入学と同時に願い出た一人暮らし。
何時帰ってくるのか、何処の学校に行くのかも未定と言われ、ただ近々帰ると言われただけだった二年前。
それでも大阪にいるよりは会える頻度が高いはずだと考えて、無理を押し通した。
そうして東京に出て来たというのに。
胸で声を殺して泣く少女を抱きしめ、忍足の唇が静かに戦慄いた。


「……こんな……──」


呟かれた言葉は、リョーマの泣き声と雨の音に埋もれて消えた。













リョーマの泣き声が止んだのは、それから十分後の事だった。


「……ごめん」

「えぇで。落ち着いたか?」


泣き腫らした瞳を伏せるリョーマの髪を梳き、忍足の目が穏やかに細められる。
それはリョーマが何より好きな忍足の微笑み。
コクリと頷いたリョーマが忍足の指に安堵を浮かべて擦り寄った。
瞳を伏せたリョーマは、気付かない。
忍足の瞳が、痛みを浮かべた事に。


「……飯、まだやろ。なんか作ったるわ」


ポンポンと黒髪が叩かれ、離れる気配。
ゆっくりと瞳を開けたリョーマが見たのは、キッチンに向かう忍足の背中。
優しく、いつでも包み込んでくれる忍足は、リョーマにとって何にも変えがたい存在だった。
そう、兄のように。


「サンキュ。ゆーし」


名を呼べば、振り返って微笑む艶やかな美貌。
その姿がキッチンに消え、リョーマはソファに身を埋めた。
そうして、キッチンに向かった忍足はシンク前に。
忍足の視線が見下ろすのは、握り締めすぎて固まった己の左手。


「……しょーもな……」


ゆっくりと拳を解けば、深々とした爪痕が掌にその跡を残していた。
血こそ滲まないソレは、くっきりとした痕跡を語り忍足の自嘲を招く。
名を呼ばれただけで舞い上がる単純な鼓動。
比例して深まる無意味な嫉妬。
なぜ……なぜ……。
問い掛ける事すら出来ない臆病な声帯。


「……リョーマ……」


唇に乗せた名は、愛おしさの具現。
降りしきる雨の音に紛れ、シンクを叩く水音。
赤黒く変色し始めた爪痕が水流に晒され、静かな痛みを与える。
けれどそれも束の間。
徐々に薄れ始めた痛みは、いつしか感触そのものを麻痺させる。
雨音が、少し強くなった気がした。






◆◇◆◇







吐き出して吐き出して。
無人のアスファルトに叩き付けて弾けて。
そして静かに水路へ滑り落ち、消えていく。
降り止まぬ雨。
明かりを覆うその雲が晴れた時、僅かに残る雫すらもが消えていく。
願わくば、溜まりすぎた雨水が反乱を起こさぬことを。
佇む彼の人を飲み込んでしまわないよう。




『俺なら……泣かしたりせぇへんのに……』




雨雲は、太陽にはなれない。




-END-


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