「じゃ、行ってくるわ」
そう言って居間を出て、俺は玄関でスニーカーを履く。
今日は風間ん家でBBQだ。部活を終えて即行帰宅した俺は、即行シャワーを浴びて即行髪を乾かして。恐らく既に始まっているであろうBBQに一秒でも早く辿り着く為に、俺はこの靴でさえも即行で履く。…待ってろよ、肉!
そう心の中で意気込み、即行でエレベーターに向かおうと勢い良く玄関を開ける。
「おっと!」
でもそれは、目の前で開いたドアによって…「行ってきまーす!」という元気な声によって、阻まれてしまった。
漸くドアが閉まり、それと共に現れてきた後ろ姿。しかし、思い描いていたものとは全く違っていたそれに、俺は思わず息をするのを忘れてしまった。
「あ、やっぱりブン太だ」
俺の声が聞こえたのか、エレベーターとは逆のこちらへと振り返ったまゆこ。「なんか久しぶりだね」、なんて言って笑って。
夏休みに入って2週間、俺とまゆこは一度も会っていなかった。…インフルエンザで休んだ1週間ですら、久しぶりだと思った程なのに。
「ブン太もどこか行くの?」
そういつもの様に首を傾げるまゆこ。でも俺には、いつもとは全くもって違って見えた。
後ろ姿が見えた時、声を聞いていた俺はまゆこだとわかっていた。それなのに、いざ目の前に現れた後ろ姿は、俺の思い描くまゆこでは無かった。
まゆこは浴衣を着ていた。それも小さい時の写真で見た、黄色くて可愛い浴衣なんかじゃない。薄い水色に紅い花が咲いた、綺麗な浴衣だった。
「…おお、風間ん家でBBQ」
「あ、そうなんだ!今年は風間くんの家でやるんだね」
「うん。まゆこは祭り?」
「そうそう!」
カランコロン。そう言って歩き出したまゆこの足元から聞こえる、聞きなれない音。
……去年俺と弟達と4人で祭りに行った時は、浴衣なんか着てなかったじゃねーかよ。そのくせ今年はそんな浴衣着て、一体誰と祭り行くんだよ?…そう考えて頭の中に過ぎるのは、夏休み前に見たあの光景だった。
心地良い音とは対称的にざわつく胸を抑え、俺もエレベーターへと向かう。
「なんか光里の家の近くで今日お祭りがあるって聞いてね、今年初のお祭りなんだ!」
「…ふーん」
「焼きそばもー、いちご飴もー、たこ焼きも食べたいなあ」
「食いすぎだろい」
「えー、それブン太に言われたくないし」
そう言って口を尖らせたまゆこは、エレベーターのボタンを押す。
「去年の祭りでお店目いっぱい手付けたくせに」
「あー、そんなこともあったな」
「そんなことじゃないからね!ブンパパからお金貰ったからって…あ、てか聞いてこの浴衣ね、光里と一緒に買ったの!」
「……」
…いやだから、誰と行くんだよって!
そんな俺の考えなんて全く知らない上に、浴衣が嬉しいのか祭りが楽しみなのか、嬉しそうに裾を摘んで浴衣を見せてくる。そんなまゆこが可愛くて、俺はもやもやが更に倍増して。
「どうかな、…ちょっとまだ、私には大人っぽ過ぎると思う?」
「買った時すごく迷ったんだよねえ」。そう付け加えて、不安そうに眉をひそめるまゆこ。
「……」
似合ってるよ。つーかお前、いつの間にそんな綺麗になったんだよ?……はあ。やっぱり、好きだ。
たった一つのまゆこの質問に思うことは幾つもあるけど、そのほとんどが言葉になることは無い。
「…別に、いいんじゃねーの」
「え、本当?」
「おー」
「……えへへ、ありがとう」
下を向いて、まゆこは巾着を揺らしながら自分の浴衣を眺める。……待てよ、光里ちゃん彼氏いるって言ってなかったっけ。なのになんでまゆことわざわざ…浴衣買って行く祭りなら、普通彼氏と行くんじゃねーの?いや更に待て!確か彼氏バスケ部のやつって……うっわ気づきたくなかったやつだわこれ。
誰と行くの?そう聞けばいいだけなのに、なかなか声に出すことが出来ない。2週間前のあの日、あれだけ一方的にキレておいて今更何が言えるだろう。彼氏でも何でも無い、ただの幼馴染の俺に一体何が言えるだろうか。
漸く来たエレベーターに、2人で乗り込む。
「…あのさ、ブン太」
「ん?」
「あの…」
そこまで言って俺から目を逸らし、エレベーターのドアを眺めてまゆこは黙った。すぐに1階に着いて、ドアが開く。
「なんだよ」
結局何も言わないままエレベーターを出たまゆこに声を掛ける。
「えーっと…」
「……」
「あ、ブン太って駅まで行く?」
「…うん」
「じゃあ一緒だね!」
「……いやいやだからそれじゃなくて」
「えっ、もしかしてブン太急いでる?」
「…別に急いではねえけど」
「お肉無くなっちゃわない?大丈夫?」
「普通そんくらい残してくれんだろい。って違うくて」
「ほんとに?私歩くの遅いけど、駅まで一緒に行ってくれる?」
「……はあ。いいよそんくらい」
「わー!ありがとう!」
「……」
ゆっくり歩くまゆこのペースとは裏腹に、ことごとく俺の言葉は遮られる。それでも久しぶりに隣りを歩くまゆこが喜んでるから、もうさっきのまゆこは忘れることにした。
「そういや、光里ちゃんってどこ住んでんの?」
…気を取り直して、駅に行くってことは電車に乗るってことだ。光里ちゃんの家の近くってことは…。
まゆこに聞いたところによると、光ちゃんの家は立海までの定期で行ける駅の中に含まれていた。
「あ、風間ん家とも結構近い」
「そうなんだ?」
「で、その祭りのとこで待ち合わせ?」
「うん。光里の家に行くよりも祭りの会場の方が駅に近いみたいで」
「へー、まゆこ1人で迷わねーといいけど」
「大丈夫でーす、人の流れに沿っていけば着くって言われたもーん」
「…どうだかなあ」
あんなに急いでいたのに…いや、つーか今もすげえ腹減ってるし、行けるだろうと風間に連絡した時間にはもはや間に合いそうもないけど。
でも、下駄で歩くまゆこの速度に合わせて歩くのは少しも苦じゃなかった。このまま一緒に祭りに行けたら…そう思う俺がいるのは否定出来なくて。そういや2人だけで祭りなんて、いつから行ってねーっけ。
「行けるもん、そんなに心配だったらねー」
「……」
「会場にちゃんと着いたら、写真撮って送ってあげる!」
「……おお」
ブン太も一緒に来てよ!と、言われるかと思った。
「あー、まだ信じてないでしょ!」
「信じてる信じてる」
…いや、俺はきっと、言って欲しかった。
「2回繰り返すのは嘘だって聞いたことある」
「はいはい、じゃあ信じてる」
まゆこの隣りに、少しでも長く居たかったから。
「じゃあって!もう!ブン太って本当に適当!」
「あーほらほら、駅着くから定期出しとけよ」
「……はーい」
いつもなら少しは長引きそうなまゆこの怒りも、この日は改札を通ったらすぐに収まっていた。あいつも…進藤も、来んのかな。
夏休みはまだまだ長い。夏祭りも、夏休みの間中色んな所であるだろう。
『今度、一緒に祭りに行こうぜ』
でも、そのたった一言が、どうしても言えなかった。