「ちょっとおっさん。」 「ん?」 夕暮れに朱く照らされた宿屋の廊下で、ふよん、と結い髪が揺れる。触りたいとかそんなことはない筈だ、と誰にともなく言い訳をしつつ、それでも振り向いた翡翠に心臓が跳ねてしまうのは、一体どういうことなのだろう。原理でも論理でも説明出来ない事象が自身の中にあるなんて、どうにも気分が悪い。即ち原因である彼女にも腹が立つし、いつも彼女に対してつんけんした態度しか取れないのはその所為である。けれどそれでいて、彼女のことを殊更心配せずにはいられないことも、また事実である。 「心臓。診せて。」 「え!?や、そんな、いいって。」 「駄目。宿屋に着く前からちょっと辛そうにしてたの、分かんないとでも思ってんの?」 「う……」 「あんたの場合もしかしたら命に関わるかもしれないんだから、変な遠慮なんかしないでよ。別にこっちは迷惑とか、そんなんじゃないから。」 早口でそうまくし立てると、彼女は翡翠の瞳を更に丸く大きくして、きょとんとした顔をして見せた。 「……………」 「何。」 「……もしかして、心配、してくれてんの?」 「!ちっ、違う!た、倒れられたりしたら迷惑なだけ。馬鹿なこと言ってないで、早くこっち。」 首を傾げながら彼女が言うのに即刻反論し、顔を背けて自分の部屋の扉を乱暴に開けた。それは自分でも分かりやすいくらいの照れ隠しだったし、彼女もきっとそれくらい分かっているのだろうが、そういう時何も言わないでいてくれるのが、何だかむず痒いような心地になる。 すると後ろからふわっと抱き付かれて、また心臓が跳ねた。わしゃわしゃと髪を掻き回されてぎゅうっと抱き付かれて、歩きにくいことこの上ないのに止めて欲しくはない。 「えへへ、ありがと。優しいねぇ、リタっちは。」 「ば、馬っ鹿じゃない?」 「えへへ〜」 「にやにやすんな!抱き付くな!」 「だって嬉しいんだもん。リタっちが俺のこと心配してくれて。」 どきん、とまた派手に心臓が跳ねた。にこにこ笑う彼女の甘い匂いが鼻を掠めて、頬もじわじわと熱くなっていく。その一挙一動にどれだけこちらが翻弄されているかなんて、無邪気に笑う彼女は全く知らないのだろう。 「だーかーら、違うっての!も、とっととそこ、座って。」 「はいはい。」 彼女がベッドに腰掛けたのを確認してから、自分の荷物をごそごそと漁った。ここ数日で自分なりに纏めてみた心臓魔導器の理論と、役に立たないとは思うが適当な魔導書を数冊。それらを引っ張り出して振り向く、と。 「……な、なんで脱いでんの!」 「へ?」 趣味の悪い羽織もシャツも脱ぎ捨ててしまい、柔らかそうな女性らしい上半身を惜し気もなく晒した彼女が、そこに。下着だけは付けているのがせめてもの救いか。桃色のレース……なんて呑気に考えている場合ではなく! 「ぬ、脱がなくていいの!」 「え、だっていつも検診の時はこうだったんだけど。下着も、」 「だーーっ、それ以上脱ぐな!」 最後の砦まで躊躇い無く脱ぎ捨てようとするのを必死で止めて、派手な桃色のシャツを思いっきり投げつけてやった。見事に顔面に命中したそれに彼女がふぎゃっなどと声を上げていたが、構うものか。こっちは混乱していてそれどころではない。 「さ、さっさと着る!」 「?うん。」 もそもそとシャツを着始める彼女を見て、はぁと溜息を吐いた。というか此処に居るのが自分で良かった。あの良くも悪くも健全な黒髪や金髪の男共であったなら、無防備な彼女はぺろりと食べられてしまっていただろう。無論自分とて彼女の身体に魅力を感じないという訳ではないのだが、まだそういった即物的な感情で彼女を見るまでには至っていない。ただ目が離せなくて、ちょっと心配で、一緒に居たいなぁなんて漠然と思ったりするだけ。まぁそれは無欲なようで一番の欲張りかもしれないが。 (譲るつもりなんて、さらさら無い。) 今、ふわふわと危なっかしい彼女を繋ぎ止める楔のひとつとなっている自信はあった。これから先、それが特別なものになっていけばいいと。 「なぁにリタっち、ぼーっとしちゃって。俺の顔になんか付いてる?」 「歯に海苔、付いてる。」 「うっそ!?」 「嘘。」 願うことも、叶えることも。決して不可能ではないが、限りなく険しい道であることは確かだ。 「もう、リタっちったら!」 「だから抱き付くな、って!」 取り敢えず、この子供扱いを止めさせることから始めようか。 リトル 100715 |