ニューヨークがヘルサレムズ・ロットに成り代わったあの日。非日常が日常になったあの日。わたしの日常も少し変わった。
ニューヨークの中心からきのこ雲のように吹き上がる瘴気は、この世界に沢山の新たな病気を生み出し、新たな不幸を生んだ。このとき生まれた病気は、ヘルサレムズ・ロットの結界の中に押し込められたのだけれど、少しずつ人類は蝕まれている、とわたしは思う。
手の甲に小さな数ミリの植物の芽が生えていたので、わたしはそれを指で摘み取った。身体から生えたその不可解な芽は、確かにわたしの身体、人間の肉体から生えていて、それを摘めばちくりと痛んだ。
植物化病。花咲病。樹皮化病。この病気には、いくつもの名前があっていくつも症例があるらしいけれど、どれも共通していることは、普通の人間の身体から植物が芽吹き、いつか芽吹いた植物に肉体も精神も取り込まれ、ゆっくりとひとつの大樹になることだった。瘴気の中に潜んでいた異界の種子は、人間の身体を媒体に成長し、ひとつの大樹になり、新たな種子を孕む。
わたしは大崩落が起こった3年前からこの病気に侵されている。
街に捨て置かれたぼろぼろの医療雑誌で自身の病気の正体を知り、現代の医療では(しかも現在進行形の医学含め)、治癒することのできないことを闇医者に教えて貰った。
わたしの肉体は少しずつ少しずつ得体の知れない植物に取り込まれ、いずれ意識も心のあり方も植物に犯されるのだろう。と陰気臭くわたしは思うのだ。
この街は人の命にもとても無頓着だ。路地裏のビルとビルの合間。名前も知らないわたしと同じ病気だった人間の骸、と言ってもそれはそれは、大きな樹をわたしは見上げながら、自分に残された命の寿命を数えるのだった。
わたしは、自分の病に名前をつけた。医学書や皆に呼ばれている名前でもよかったのだけれど、この治らない病に名前があれば、きっと愛着が湧いて暫くの間だけれど、共生していけると思ったから。
ウォーター・リリィ病。
ウォーター・リリィはわたしにとって病であり、縁を切りたくても切れない関係。わたしは『彼女』と一緒に生きている。ヘルサレムズ・ロットという摩訶不思議が日常の街で。





娼婦という仕事は、綺麗に整った身体であればいくらでも高価な値がつくし、堕落した怠惰な身体つきであれば、底の無しの言値でしか売れなくなる。人によっては話術や巧みな業で、自身の価値をあげようとする女も居るが、そういう女になれるのは極稀である。大抵は一時の旬こそあれ、それが過ぎれば、売れ残った野菜のように生ゴミのように扱われる。それが娼婦という職業だ。
身体にウォーター・リリィが住まう以前のわたしは、奨学金で学校へ通う何処にでも居る学生だった。大崩落を期に奇病としてウォーター・リリィが身体に住み着き、まもなくしてわたしは、病の治療法を探すためにヘルサレムズ・ロットへやってくる。その時すでに持ち金は底をつき始め、それからすぐにその日暮らしの生活が始まった。自身の奇病を治すためにヘルサレムズ・ロットへやってきたのに、治療法を探すための生活費をを稼ぐ、金稼ぎが始まったのだ。親も居なければ親戚も居ない、身寄りが無いわたしが一人前に稼げる職業は少なく、すぐに行き着いたのが身体を売り物にする娼婦という仕事だった。
最初の1年は街に来る以前よりも羽振り良く、金を稼ぐことができた。しかし、ウォーター・リリィの存在が日に日に大きくなるにつれ、いつしか奇病が理由になって、身体に値段がつかなくなった。値段がつかなくなるということは、1日に外で立っていても売れないということで、あっという間に貧しい暮らしに落ちてしまう。オンボロの掘建て小屋のようなモーテルであるけれど、幸運にも男を引き込むための一室に住み込むことができたが、それ以外はお世辞にも一般的な生活をしているとはいえなかった。
わたしの中のウォーター・リリィに殺される前に、性病か栄養失調で死んでしまうかもしれない。そんな事を考える日も多くなる。
そう思い耽っていると、わたしの雇主が顔面に紙幣数枚と小銭を叩きつけてきた。受け止められなかった紙幣と小銭はばらばらと床に落ちる。
「お前みたいな病気持ちを置いてやっているだけで有り難く思えよ」
まるで捨て台詞を吐き捨てるように雇主は日の売上の半分以上を持って、わたしの部屋から出て行ってしまった。煤で汚れて変色してしまった絨毯に、手と膝をついて小さく身体を丸めて捨てられた金を拾う姿は、わたしが想像しただけでもとても滑稽で、みすぼらしくて、とにかく可笑しくて、声を立てて笑ってやりたいほどだった。
3年前の純粋無垢なわたしは、今の煤汚れで愚かなわたしを想像することが、できたのだろうか。
少し動くだけで軋む床に隙間風が吹き込む薄い壁。薄暗い照明にベッドの上には毛布が一枚。そして、かび臭いシャワールーム。客を獲れない夜は、隣の部屋に住まう娼婦の喘ぎ声を子守唄に独りで眠った。
こんなオンボロのモーテルを間借りしたような娼館に来る客はとても珍しく思う。手安く性を吐き捨てたい男か、非合法的な性を楽しみたい男ばかりが来るのかと思っていたら必ずしもそうとは限らないようだった。
少なくともこの男は、ふらりとモーテルへやってきて、あえてわたしを指名し、何もしないで帰る、世にも珍しい男。銀髪の髪に浅黒い肌。女の扱いはとても慣れているように思えたが、わたしの部屋にやってくれば、基本料金をテーブルの上に置いて、万年床のようなベッドの上で寝てしまうか、葉巻を加えながらわたしの身体に芽吹いたウォーター・リリィの芽を摘んで帰って行く。
どんなに陰気で寂しい男であれ、最後は性に素直に欲望を吐き捨てて帰って行く奴等ばかりであるので、こんな男は珍しい。ましては奇病持ちのわたしを指名していくのだから、娼館にこの男が現れれば少しざわつく。
「どうして何もしないの。基本料くらいのことはするわよ」
と背中に芽吹いた芽を男に摘んでもらいながらわたしは聞いたことがあった。すると男は葉巻の煙を吐き、独特な香りを漂わせながら舌打ちを吐いた。
「病気持ちとはやらねぇよ」
「うつらないわよ、この病気」
「そうだとしても、だ」
身体から生える芽を摘むとちくちくと痛み、身体が強張ってしまう。それを宥めるように男は背中に滲んだ血をシーツの角で優しく拭う。彼の冷たい言葉遣いとは裏腹に、芽を摘む指先はとても優しく温もりを感じた。
「植物化病だろ。これ。」
男の指先がうなじから肩、腕とつつつと這う。ぞくぞくと腹の奥が疼いたが、這った先から感覚がだんだんと鈍くなることに現実に戻されてしまった。わたしの肌は、ところどころ皮膚が樹の皮のように硬く、ごつごつとしていた。そこは少しだけ感覚が鈍くなっていて、触れられた感触は遠い。男はわたしのその肌を物珍しそうに撫でていたのだ。
「ウォーター・リリィ病」
「スイレン病?」
「わたしが勝手につけた名前よ。昔読んだ本からとったの」
名前も無い樹よりも美しく咲く花の名前がいいじゃない、とわたしは続ける。
娼館のベッド上。半裸の男女。こんなにもふしだらなシチュエーション、他を見ても簡単に見つからない。それであるのに、男は娼婦を抱こうとはせず、ただただわたしと話すだけ。性処理は他の女で足りているのか。彼の目的が何であるのか良く分からない。
「痛い?」
「感覚があまりないの」
額にできたごつごつと硬くなった小さな塊を男は、わたしの長い髪を払って撫でた。
「醜いって言いたい」
男が言う前にわたしの口から言う。奇病の症状が身体に現れるようになって散々に男共に言われてきた言葉だった。他人に言われるくらいなら私の口で言ってやろう。そう思っていると、男に頬を摘ままれた。
「女が自分で言うもんじゃねーよ」
と言うと男の上でうな垂れるように枕に顔を突っ伏してしまった。その姿は、わたしよりも年上であるはずなのに、とても子どもっぽくて、ついついわたしも面白くなって顔を綻ばせてしまった。すると、さらさらな銀髪の合間から横目で男はわたしを見ていたのか、満足げに彼も口を綻ばせた。
「アンタは、笑った方がいい」
「わたしの何を知っているの?オニイサン。」
この男は娼婦としてのわたしを買っているのに。
「アンタとアンタの病気。・・・ウォーター・リリィだっけ?」
わたしは身を乗り出し、手を突いて真上から男の顔を覗き込む。彼の銀色の瞳に映るわたしの姿は、やはりとても醜かった。





どんな女でも寝るわけではない。ザップ・レンフロにすぐにでも折れてしまいそうではあるが、しがないポリシーがあった。性病が流行ったと噂が立った娼館には行かない、不衛生な店には行かない。風俗で遊ぶということは、そういう危険性を回避できるような嗅覚が必要である。それだけか、とレオナルドやツェッドに怪訝な顔をされたこともあったが、ザップにとっては充分すぎるほどの理性だった。
だのにどうして、ザップはこのオンボロのモーテルに通いつめるのか、自身でも理解できなかった。質の悪い娼婦とその主。性行為でもすれば、異界の性病を娼婦からうつされそうなな娼館。最初は酔った勢いの怖いもの見たさで入った店が、何故か定期的に通う店になっていた。
「―慈善活動かなにかで?」
モーテルの入り口で娼館の主の男にチップを渡す。娼館での料金は直接女に渡すことになっているが、入り口でチップを渡さないと希望の女の部屋へ案内をしてもらえない。ザップはチップを渡した男に舌打ちをして睨むと、男は卑しく笑った。その姿からこの男がまともな人間ではないことをザップは悟る。こういう笑い方をする男は、売春の女共を物としてしか扱わない。人権や尊厳がどうだとか活動家のようなことはザップには語れないが、こういう娼館で良い思いをしたことが一度たりともなかった。客がそう感じる店はいずれ、早かれ遅かれ潰れる。
ザップはいつもの部屋を希望すると、男は首を横に振って「生憎、空いていない」と言った。そんなはずがない。
「おいコラ。客をなめんじゃねーよ。さっさと案内をしろ」
「俺は病気持ちをお客さんに勧めたくないんだよ」
「なら、病気持ちを雇うんじゃねーよ」
舌打ちでザップの言葉に返事をすると男は、ザップをザップが希望した女の部屋へ案内した。掘建て小屋のようなモーテルは床も壁も板が薄い。壁越しに喘ぎ声が丸き声なうえに、床が抜け落ちそうなほど軋む。お世辞にも清潔だとは言えない娼館の料金なんて底が知れており、かなり安い。
目当ての部屋に辿り着くと、手狭な部屋にいつもの女が居た。ぼさぼさな髪ではあるが栗色の髪に透き通るほどの白い肌。不健康なほどに痩せ細っているが、それもどこか艶っぽい。ザップよりも小柄な彼女は、ザップがドアを開くと窓辺の椅子にちょこんと腰をかけていた。一見すれば、不健康的ではあるが年頃のあどけなさが残る女である。しかし、じっくりと彼女を眺めていると彼女が他と違うと言うことに気がつく。
彼女はいつも深緑に囲まれている。彼女が歩く場所ははらはらと木の葉が舞い、新芽が床に落ちた。
「もう、飽きられたのかと思った」
女はドアの前のザップの前に立つと、にこりと笑みを作った。
「一丁前に娼婦面すんなよ」
ザップにとって彼女の知りえる情報は、彼女が病気を患っていることしか知らない。植物化病という大崩落後に難病として発症した奇病を患っている。それは少しずつ彼女の身体を蝕み、肌の各所は樹の皮のように硬くなり、背中や手足、頭からは新芽のような木の芽が生える。彼女が歩く場所に木の葉が落ちるのは、彼女の小さな身体に樹を宿しているからだった。
ザップは舌打ちを吐くと、立ったまま女が着ていたワンピースを下から捲りあげるように、脱がした。そしてザップは女の手を引いてベッドに座らせ、自分もその横に座る。彼女の白いうなじと背骨が浮き出るほどに薄い背中には、至る所に小さな新芽が生えて、一部は肌が硬くなっていた。
「女を買ってやることは、毛づくろいだなんて。アンタもとんだ変態ね」
と嫌味を言いつつも彼女はザップに背中を預けている。ザップは背中を撫でるように新芽に手のひらを這わせると、こそばゆいのか女は身体を震わせた。その姿があまりにも色っぽく艶っぽく。ザップの腹の奥を締め付ける。新芽を一本抜けば、ちくりと痛むのか女の小さな口元からは声が漏れ出て、彼女が我慢した声の代わりと言わんばかりに、摘み取った箇所には血が滲んでいた。
彼女に生える新芽は定期的に抜かなければ、あっという間に彼女の身体を覆ってしまう。だからこうしてザップは定期的にこのモーテルに通って彼女の手の届かない場所の新芽を抜いてやる。それだけの関係。
彼女の言うとおり、金を払って彼女の手入れをするなんて、とんだ金の使い方だとザップ自らも思う。だけれど、それでもいいとザップに思わせてしまう不思議な何かが、彼女にはあるのだ。
白い肌に浮き出る背骨に指を這わせ、撫でれば彼女の口元から甘い吐息が漏れ出た。新芽を抜く。小さな肩に力が一瞬だけ入って痛みに耐える。背中を抱きこむように密着させれば、彼女の温もりを感じることがで
きた。あたたかい。
新芽を抜く。抜く。
その行為はどこか甘くけだるい。耳の裏が疼くほどに麻痺させ、彼女とおこなう性行為を脳裏に想像させた。他の男と寝るとき彼女はどんな風に振舞うのだろう。細い背中を逸らして男に身を預けるのだろうか。それとも。
ザップは血が滲むうなじにはぁっと息を吹きかけた。
「ちょ、ちょっと!今日は何だか、しつこすぎ・・・!」
慌てた彼女が振り返ったので目が合った。樹皮化した皮膚が少しずつ顔まで侵食を始め、それを隠すようにぼさぼさとした髪が彼女の顔を覆っている。それを指で払いのければ、大きな瞳がぱちぱちとザップを見上げていた。きめ細かい肌に赤くぷっくりと熟れたような唇。それをぼおっと見下ろしていると吸い込まれそうになるのを我慢する。
「ザップ」
「は?」
ザップの言葉に女は首をかしげた。
「オレの名前だよ。アンタだとか、オニイサンだとかで呼ばれたくないからな」
と言うと女は声をあげて笑い出した。笑う女の姿を見てザップは自分の言った言葉の重大さに気づき、思わず顔を赤面させた。赤面するザップの顔を見て女はまずます笑いがこみ上げ、腹を抱えて笑い出した。止まらない。
「ザップ!」
女は笑いを必死に堪え、瞳に涙を浮かべながらザップの名を呼ぶ。彼女から発せられた名前は、まるでアルファベットをなぞるかのように、大切に発音しているようだった。
「ザップ、ザップ、ザップ!」
ベッドが軋む。モーテルのどこの部屋よりも明るく楽しげにベッドが鳴いた。それは、女の心を表しているようで、ザップも嬉しくなって理由もなく一緒に笑った。





その日は生憎の雨だった。ヘルサレムズ・ロットの雨は一度降り出すと長雨になることが多い。地形の再構築や結界やらで、だいぶ以前よりも気候が変わったように思えた。雨はしとしとと冷たく振り続ける。ザップはいつものように、窓辺の縁に半身を乗り出して外の雨を眺める女の背中に生えた小さな小さな新芽を一本一本抜いていく。女は気だるそうに空を見上げては溜息をひとつ吐いた。
「雨の日はだめね。身体が重いわ。きっとウォーター・リリィのせい。」
「やっぱり、晴れの方がいいのかよ」
「そうよ。わたしは光合成をしないと死んでしまうの!」
女はわざとらしく大きくおどけてみせた。ザップは女の名前を知らない。教えてと二度ほどせがんだが、教えてくれなかった。三度目はもうくどい男と彼女に思われないように聞かないことにした。
ザップは女の背中を撫でながら一緒に空を見上げる。
女の背中は少しずつ少しずつ絹のように白かった肌が黒く黒ずみはじめていた。樹皮化が進行しているのかもしれない。撫でた彼女の背中がザップはどうしようもなく、切なく感じた。
ザップは彼女に対して貞操を守り続けていた。別に、彼女の植物化が恐ろしかったわけでもなければ、怪しい娼館の性病が怖いわけでもなかった。ただこうして彼女と彼女の不思議な植物たちに触れているだけで、満足できてしまうのだ。
吐き出すだけの性欲は他の女にでも食わせておけばいい。彼に似合わず、ザップはとても初心な関係をこの娼婦と持ちたいと純粋に思い続けてきた結果が今に至るのだった。
突然、女が咳き込み出した。苦しそうに咳き込むことが多くなった彼女は、自身の口を抑えてごほごほと咳き込む。眉間に皺を寄せ、悶えながら咳き込む姿にザップは慌てて、立ち上がり水場に行こうとするのを女は、ザップの腕を掴んで引き止めた。
「水を飲めよ」
「いらない」
女は細い肩を上下に揺らしながら何度も何度も咳き込んだ。まるで今にも窒息しそうに苦しそうに咳き込むものだから、ザップは目を白黒させながら咳き込む女の身体を引き寄せて抱きしめた。
口を覆いながら女は何度も苦しそうに咳き込む。ごほごほと咳き込む姿は、まるで何かが喉にひっかかっているようで、ザップは女の顎を持ち上げると、頬を片手で掴んで口を開かせた。
「厭」
女は嫌そうにザップの身体を押しのけようとするが、体格差があるうえに痩せ細った女の身体だ。抵抗は虚しく、押しのけるなどできない。
ザップは無理やり開かせた女の口を覗き込んだ。唾液でぬるぬるとした口腔と熟れた舌先に白い歯。その喉の置くに何かがある。ザップは嫌がって離れようとする女の身体を押さえつけると、口腔の中に指を押し入れた。突然、口の中に押し入れられた指に女は驚いて身を捩る。ぬるぬるとした舌がザップの指に絡まり、口の中から押しのけようとする。苦しさにもがく女の首筋には汗が溢れ、女の肩を抱いて押さえつけるザップの腕に汗がじっとりと密着する。
女の口腔の奥にある『何か』をザップは掴んで、口腔から引き抜いた。
「・・・枝?」
引き抜かれたそれは枝だった。樹の枝。女の口腔から数十センチの木の枝をザップは引き抜いた。
不可解な、でも確かに起こった奇妙な事象にザップは枝を掴みながら呆然としていると、女は堰をきったように口を押さえ、部屋の隅へ隠れるように逃げた。そして何度も何度も強く咳き込む。咳き込むたびに、口元を手で抑えているのにも関わらず、指の間から緑や茶色の木の葉が何枚もひらひらと舞った。
ザップは枝をテーブルの上に置くと、部屋の隅で身を丸くする女の横に腰を降ろす。その間も女は何度も何度も咳き込んで、咳き込むたびにひらひらと木の葉が舞った。
「おい」
ザップが女に触れようとすると、女が口を抑えている手とは別の手でそれを叩いた。
「・・・恐ろしいでしょ・・・まるで化物みたい」
というと女はザップに口を抑えていた手のひらを見せた。その手には木の葉がびっしりと乗っていて、彼女の口からも数枚の木の葉が見えていた。
「誰もこんな身体とはセックスしたくないわよね。口を開けば木の葉が溢れるんですもの」
ウォーター・リリィ。植物化病。口腔の奥から抜き取った枝は、彼女の中から生えたもの。口から吐き出された木の葉は彼女が育んだもの。その奇病は、確実に彼女と言う存在を別の『何か』へと変えようとしていた。人の形こそしているが、彼女は植物に近づいているのかもしれない。
今のザップに彼女にかけてやる言葉は見つからなかった。
「きっと物珍しくてこのモーテルに通ってくれたのだと思うけど、もうおしまい。」
と言うと女の細い腕がザップの体を外へ押した。普段なら女の抵抗など屁でもないはずなのに、呆然としているザップは簡単に女に外まで押しやられてしまう。
この部屋のドアを閉ざされたらたらきっともう、彼女に会えなくなる。そんな気がしてならない。それを脳裏で理解しているはずなのに、彼女の鋭い拒絶するような眼差しにあてられて、ザップはなす術も無くドアが閉まる様を見つめるしかなかった。
「さようならザップ。貴方にわたしの名前を教えなくてよかった」


それがザップと彼女が交わした最後の言葉だった。追い返された次の日、そのまた次の日、その次も次もザップは、モーテルに出向いて彼女の部屋を訪れたが、部屋はもぬけの殻。娼館の主に聞けば、借金も何も捨てて夜逃げしたと悪態をつきながら教えてくれた。
彼女の部屋のベッドに腰掛けてザップは彼女の面影を思い返した。ベッドの上の彼女と彼女の艶かしい背中を思い出す。きめ細かい絹のような肌の彼女の身体は、無数の傷と樹皮化した黒ずんだ皮膚が痛々しくあちらこちらに広がっていた。しかし、それでも、ザップはその彼女の身体が美しいと思った。綺麗だと感じた。欲情もした。
床には一枚の木の葉。彼女と共に寄り添った夜がいつのまにかザップにとって、とても恋しいものになっていた。





「樹になるってどういう気持ち?」
ヘルサレムズ・ロットの裏路地のビルとビルの合間。捨て置かれたウォーター・リリィを患った人間の骸の大きな大樹を見上げながら、わたしは皮肉を込めて言った。人間だった面影を残すその大樹の根元には男性ものの洋服が絡まっていて、きっとこの服を最後に来ていたのだろうと察しがついた。それでも大樹は空高く成長を続けている。
いつかわたしもこんな姿になるのか。人間の名残を残す根元を付近を見つめながら思えば、背中に寒気が走り、足元ががくがくと震えた。
死ぬのは誰だって怖い。ましては、わたしが小さい頃から思い描いた死とはまったく違う姿で死ぬのだから、恐ろしさは増すばかりだった。
空に手を翳す。手の甲からはいくつも芽が生えてきている。洋服の下にもたくさん芽が生えていて、どうしてこんなに生えてしまったのかと考えれば、この芽を摘んでくれる人が居なくなったからだと直ぐに考えが至る。
あの銀髪の男は、結局わたしに何もしてこなかった。ただ通いつめて、わたしの手の届かない所の芽を摘んでくれた、それだけの男だった。
彼の触れた指先の感触を思い出す。言葉とは裏腹にとてもやさしい指先は、とても女に慣れた指先だった。きっといろんな女を抱いてきたのだろう。
「ウォーター・リリィ。彼はわたしの事を蔑まなかった」
わたしの中のもうひとりのわたしに話しかける。彼女の孕んだ生命は、私の中で大きくなっていつか、わたしを飲み込むのだろう。そのとき、わたしは何を思って死ぬのだろうか。
「ザップ・レンフロ」
彼にわたしの名前を伝えなくて正解だった。伝えてしまったら、わたしはきっと娼婦じゃなくなる。病気であることも、ウォーター・リリィが身体に住んで居ることもすべて忘れて、一人の女になってしまう。そうなれば、きっと彼を求めてしまう。自分の立場も将来も忘れて。
「だからこれでいいの」
世界が軋む音がする。その音は森林の中に自分が佇んで居るのではないかと錯覚してしまうようだった。樹の音。それはわたしの音だった。
「ふざけんなクソアマ。何がこれでいい、だ。探したじゃねぇか」
耳に馴染んだ声色に思わずわたしは振り返り、目を見開いて驚いた。まるで錯覚か幻をみているかのような感覚に襲われて、身動きはおろか、声ひとつ立たせることが出来なかった。
ザップ・レンフロがここに居る。
どうして、なんで、と声にならない声で口をぱくぱくさせていると、ザップはわたしの目の前に立ち、上からじっと不機嫌そうに見下ろした。
「滅茶苦茶、探したんだからな。ふざけんな。」
と言うとザップはわたしの身体をきょろきょろと見て周って、手の甲に生えている芽を軽く引っ張った。痛い。夢ではないようだ。
「全然、手入れが行き届いてねーじゃねぇかよ」
とザップはぶつぶつと呟きながらわたしに生えてくる芽を一本ずつ確認していく。それをわたしは慌てて制止した。
「どうして、ここが分かったの?どうして・・・・」
わたしは貴方を拒絶したのに、追ってくるの。
いつの間にかザップの手はわたしの長い前髪を手の甲で掻き分け、頬に触れていた。そして温かい指先でわたしの目じりを撫でた。いつの間にか瞳に涙が溜まっていたことに彼の指先で初めて気がついた。
「俺は馬鹿だから。ああいう風に『さようなら』を言われると無性に腹が立つ」
「腹が立つ?」
わたしが聞き返すと、ザップは分が悪いように表情を隠した。俯いて分かりづらいが、赤面しているように見える。耳まで赤い。
「他の男にアンタの芽を摘まれていたら、どうしようかと思った。」
「こんな変態的な行為をしたがるのは、ザップぐらいしか居ないわ」
ザップの銀色の瞳と目が合った。鋭い獣のような瞳が、ぎらりと熱く火照ったように見え、気づけば、その瞳にわたしの身体も心も吸い込まれ、瞬く間に唇に彼の温もりを感じた。
唇を割って入った舌に舌を恐る恐る絡めれば、身体の奥が疼くのを感じる。
ザップは名残惜しそうに離れると、わたしの身体を引き寄せて首筋に顔を埋めた。
「―勝手に居なくなるんじゃねーよ」
溜息交じりの安堵したようにザップは顔を埋めながら呟いた。彼の息遣いを感じる、鼓動を感じる。それはとても温かく、気持ちのいいことだった。まるで太陽日を浴びて伸びをしているように心地が良かった。
ウォーター・リリィ。
いつかわたしは一本の樹になる。とびっきりの奇跡が無い限り、わたしの病は治らない。だから、せめて、わたしの不幸な人生に願い事を叶えてくれる素敵な神様が居るのであれば、死ぬ前に見る夢は、この人と一緒に眠る夢がいい。
ウォーター・リリィ。
わたしが最期に眠るとき、いったい貴女はどんな花を咲かすのだろう。それまで、どうか。どうか。
「ザップ」
わたしは彼の名を呼ぶ。
わたしも彼に名前を呼んでもらいたい。彼と同じように、わたしも好きな人に名前で呼んで貰いたかった。だから。
「わたしの名前を―」







END
2018/11/11


※加筆修正と再構成をおこない、2019.01.20に夢本にする予定です。
Grimoire .
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