第九話「天体観測」


人里から離れた小高い山の上。山の中腹までは整備された道が通い、中腹から山頂までは軽い登山が必要ではあるが、山頂の木々がぽっかりと開けた場所は、夜な夜な天体観測をするにはもってこいの場所だった。
太陽の日が傾き、空に淡い群青色に染まりつつある頃。クラウスは天体観測をするために天体望遠鏡と大きめなデイパックを担いで、山頂を目指して歩む。街を歩く革靴を登山靴に履き替えて、足場の悪い山道を歩くが、鍛え抜かれた体は息一つ乱さない。山頂まではあと数メートル。生い茂る木々が突然開けた先が山頂だ。
大荷物を担いでクラウスが山頂にたどり着けば、先にたどり着いた人が居るようで、集めた枯れ木に火が点けられ、小さな焚火がゆらゆらと地面に影を作っていた。
焚火を見つけるとクラウスは、山頂まで登ってきた疲労感と安堵感で大きな溜息を吐いた。

「遅いぞ〜。クラウス!」

山頂に辿り着き、安堵する大男に気づいたのか、焚火の主がまるでカモシカのようにぴょんぴょんと走りながら駆け寄ってきた。クラウスと同じ登山者の格好をしているが、クラウスよりも小柄な姿は、とても対比的である。
クラウスの幼馴染であるアスカは、クラウスよりも一足先に山頂に到着し、クラウスもとい天体望遠鏡をまだかまだかと待ち侘びていたのだ。

「すまない。出立の準備にてこずった。」

といつものようにクラウスは大柄な体格を小さく丸めて、アスカに小さく詫びるのだが、アスカはクラウスの言葉など気にも留めずに、からからと笑いながら、クラウスの腕を引くと、焚火近くにクラウスが抱えていたデイパックを肩から地面に降ろさせた。

「天体観測に天体望遠鏡は必需品だろ。夜空をただ眺めるのも素敵だが、わたしはやはり、望遠鏡を覗きたい・・・!太陽の日が完全に落ちる前に、天体望遠鏡を広げてしまおう!」

まるで親を急かす子どものように、アスカはクラウスを追い立てる。他人にしてみたらアスカの所業は、少々我儘めいてはいるが、家柄も立場もある彼女がクラウスにだけに、素の自分を曝け出してくれるのがクラウスには何だか少し嬉しかった。
小さい頃に父親と兄弟から仕込まれた天体望遠鏡の扱いは心得ている。クラウスは手際よく天体望遠鏡を設置すると、焚火の前でデイパックに詰められた、キャンプ用品を広げるアスカをクラウスは呼んだ。

「アスカ、覗いてみるかい?」

クラウスに言われるがまま、吸い込まれるようにアスカは天体望遠鏡のファインダーを覗く。

「おお!月だな」
「レンズの倍率を上げればもっと隈なく見える。クレーターの大きさや形・・・」
「――綺麗だ」

クラウスの言葉が耳に入っているのか定かではないが、アスカはとても満足そうにファインダーを覗き込んだまま、離れない。
真剣に天体望遠鏡のファインダーの中に魅入るアスカの整った横顔をついつい、ぼおっと眺めたまま、クラウスはただ立ち尽くしてしまった。彼女の名を呼べばファインダーから目を離して、クラウスに目を向けてくれるだろうが、満足げにはしゃぎながら天体望遠鏡を覗く姿を横で見ていたいと、性懲りも無く思ってしまったのだ。
アンドロメダ銀河、オリオン大星雲。アスカの要望に応えるように、天体望遠鏡を操ってアスカに天体を見せてやった。

「古来の先人たちもこうやって天体を見てきたのだろうか」

ひとしきり観終えると、アスカとクラウスは二人で焚火にかがった。焚火の火にかけたケトルの口からは白い湯気が立ち込めている。ぱちぱちと乾いた音を立てながら、焚き木に点いた火は赤く揺らめいていた。

「そうだな。ニュートンやガリレオ・・・いいや、それ以前の名もない人々の時代から夜空は期待や恐怖を織り交ぜながら、人間の見上げる対象だった。現代の天体望遠鏡もその先人たちが拓いた結果の道具であるからな」

アスカはキャンプ用のステンレスのマグカップを取り出すと、粉コーヒーをスプーンで数杯、マグカップに入れ、焚火の火にかかったケトルから熱々のお湯をカップに注いだ。手馴れた一連の手さばきは、彼女の野営慣れを表しているようだった。香ばしい匂いを漂わせながらアスカは、クラウスに持っていたコーヒーの入ったカップを手渡した。
気候が安定している時期とは言え、夜はとても冷える。白く立ち昇る湯気とコーヒーの温かさに暖をとった。
同じように自分用のマグカップにコーヒーを淹れるアスカをクラウスは眼鏡越しに静かに見つめた。何気ない彼女の姿であるが、なんだか少し思い詰めている節をクラウスは見逃さない。
何かあったのかと問いかければ、アスカは晴天の夜空を見上げ、肉眼でもはっきりと見える美しいきらきらと輝く星々の海を黙って見上げた。

「わたしの祖国は、世界で最も血界の眷属の伝承が多い国だ。そして、それに対なす、牙狩りの血も脈々と受け継がれ、伝承されている。」
「アスカ」

今、彼女が思いを馳せているのは、彼女の亡くした父親だ。血界の眷属によって呪い殺された父親の壮絶な死。それを一番近くで一番親しい存在として見届けた彼女の心の傷をクラウスはよく知っていた。

「こうやって、『牙狩りの私』という存在が居るのも父や祖父、先祖なる先人たちの賜物という訳か」
「アスカ、何かあった―――」
「クラウス。牙狩りとは一体、何者なのだろうな。」

ばぎんと火の粉を舞わせながら焚き木が赤く燃え、焚火の炎で赤く照らされる光に照らされる二人の輪郭を深く縁取るような影が伸びる。
アスカはコーヒーを一杯口に含み、クラウスを置いて行くように立ち上がると再び天体望遠鏡のファインダーを覗きこむのだった。


***


「坊ちゃま。顔色がすぐれませんね」

バックミラー越しに話しかけてきたギルベルトと目が合った。執事であるギルベルトの運転する車の中で、クラウスはぼおっと昔の思い出を思い返していた。
記憶の彼方に忘れ去られていた何気ない幼馴染との天体観測だ。互いの予定に折り合いをつけて、たった一晩だけ二人で見上げた夜空。忙殺されるような日々の日常の中に埋もれてしまって忘れていたような出来事を何気なく思い出したのだ。

「何故、アスカが狩人狩りに追われていると思う?」
「お嬢様が彼ら狩人狩りの範疇に踏み込んだからでしょうか・・・?」

ギルベルトの言葉にクラウスは息を殺した。
クラウスの乗る車は夜のヘルサレムズ・ロットの街中を進む。流れる雑踏を横目で流し見ながらクラウスは心の中で小さく溜息を一つ吐く。それは、ギルベルトの言葉にスティーブンから掛けられた言葉を思い出したからだった。そして、自身もスティーブンやギルベルトの言葉に同意するしかないと思っていることに、とても嫌気を感じているからだ。

「スティーブンにも同じことを言われた。もう忘れろとも言われた。狩人狩りがアスカを狙うのには理由がある。スティーブンの言う事は常に正しい。」

車の窓ガラス越しには、3年間眺め続けたヘルサレムズ・ロットの街がある。街中を行き交う人々は、人間や人外が入り乱れ、外界の常人であれば一目見ただけで、泡を吹いて意識を失ってしまう光景だろう。それなのに、街にどこか見慣れた感覚を覚えてしまうのは、クラウス自身もこの街の「あり方」に染まりつつあるからなのかもしれない。
異界と現世がシャッフル続ける街。

「牙狩りアスカは、確実に人理を踏み外している」

ギルベルトの運転する車が止まる。信号が赤になり、一斉に青になった横断歩道を異界人や人間が行き交いはじめた。
クラウスの言葉はギルベルトに対して言っているようで、ほとんどは自身に向けて放つ言葉だった。自分に言い聞かせるそれに違いない。言葉の矛先を知っているギルベルトはクラウスのひと言ひと言に丁寧に一つずつ頷いた。

「しかし、ギルベルト」

車道の信号が青に変わる。すると一斉に車は動きだす。

「私は、アスカを逃すことなど出来ない。なぜならば、ずっと私は彼女を探していたから」

5年前のルーマニアでの事件。クラウスの命を救ったのは誰でもなく、幼馴染であるアスカだ。命を救われた礼を言おうと思って担ぎ込まれた病院を退院した日、アスカが行方不明であることを知った。日々忙殺されそうな牙狩りとしての仕事に負われる中、彼女の安否と礼を言いたいだで、初めて訪問した街中を探したこともあった。
その中で、やっと見つけた彼女なのだ。見す見す逃す理由がどこにあるのだろうか。

「坊ちゃま」

ギルベルトに声をかけられて、乗車してからクラウスは始めて彼にまともに目を向けた。しかし、クラウスの視線に気づきながらもギルベルトはしっかりと前を見たまま目を逸らさない。

「このギルベルトめにお任せください。しかし、ほんの少しだけお時間を。」

ギルベルトが強くハンドルを握るのがよく見える。彼の意思はとても堅い。それは時として磐石なクラウスをはるかに越える。

「狩人狩りより先にお嬢様の居場所を見つけてみせましょう。」


***


娼館ジェナザハードは、真夜中となれば盛況だ。女どもが小さな小部屋に男を招きいれて情事をする身売り場。しかし、どの女も妙に生き生きとしているのは、この娼館の経営者がまるで男のように肝が据わった女だからだろう。大崩落直後は、ただのオンボロモーテルだったこの建物で誰かが身売りをし、女買いの穴場として流行だしたモーテルを主となる女が娼館としてまとめ上げたのがこの娼館の始まり。どこか統率の取れた娼館はまるでどこかのマフィアのようで、有象無象が蔓延るヘルサレムズ・ロットでも娼館ジェナザハードの女たちは、女たちだけで男の上を渡ることができていた。
ロビン。
娼館の主であるロビンは、薄いシルクのワンピースと大きめなガウンを羽織ながら、娼館の窓から外を眺める。すらりとした立ち姿と病的なまでに白い肌。不健康そうな印象を受けるが、眼差しの鋭さと力強さは初対面であれば、怖気づくほど。
ロビンはウィスキーが注がれたグラスを手で揺らし、ウィスキーをグラスの中で踊らしながら、外をじっと見つめる。しかし、娼館の窓から見える光景は、ヘルサレムズ・ロットの溝臭い路地とビルとビルの先の壁だけで、特に望める景色はない。だけれどロビンはじっと見つめるというよりは睨むに近いかもしれない視線を外に向けたまま、外さない。

「・・・狼」

と小さく呟くとロビンは、カーテンに手を伸ばし、勢いよくカーテンを引いて窓を閉ざした。それはまるで、何かを隠すように。










to be continued...







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