その男の存在はとてもあやふやだ。
ここに居るのにどこにも居ないように感じる。
残る記憶もとてもあやふやで意識していないと彼の顔も声色も存在すらも忘れてしまいそうになるほどに、フェリオル・ヘムハッドと言う男はあやふやな男であった。
彼の低く狼が唸るように紡ぐ言葉は腹の奥の臓物に絡むような、沈むような、気持ち悪い感覚をスティーブンに残した。
ひとしきり、しかも一方的に捲くし立てるようにフェリオルはアスカについて話すとにいいっとスティーブンに笑みを溢す。
その笑みをスティーブンは睨みつけながら、手元のカップに注がれたままの冷え切ったコーヒーを啜った。

「信用なら無いという感じですね」
「当たり前だ」

スティーブンの言葉にフェリオルは残念そうに落胆したような素振りを見せるが、その姿は微塵も落胆しているようには見えず、とても楽しそうに見えた。
まるですべてを見透かしているようにすら見える。

「貴方は必ず、その疑念を改めるときがくる。何故ならば私はいつだって真実しか話さないからだ」

と言うとフェリオルはスティーブンと向かい合って座っていた椅子から立ち上がる。

「ひとつ、忠告をして差し上げましょう」

カフェテリアを囲む街の喧騒が遠のいていくのをスティーブンは感じた。

「狩人狩りは牙狩りを狩っている―――つまり、人を狩ると思われているでしょうが、我々の理念、思想。それらは貴方たち牙狩りと同一なものと思っています」

喉の奥がじりじりと痛む。
腹の奥がむかむかとし、吐き気を覚える。
フェリオルが何を言わんとするのか、スティーブンほどの男であれば簡単に推測できた。
出来るからこそ、言わせてはならないと直感的に思えた。
アスカは盟友クラウスという男の幼馴染であり、自身の戦友でもあるのだ。

「牙狩りは、深淵堕ちした狩人しか追わない。すなわち『化物と化した狩人』しか追わない」

フェリオルが紡ぐアスカの経緯を知ったらクラウスがどうなるか、スティーブンには容易に想像できた。
そして今、フェリオルという男と対峙することによる秘密結社ライブラが措かれる状況も理解ができる。
この男を敵に回すということは、牙狩りの理念を敵に回すことと同位であるのだ。
いつの間にかフェリオルはスティーブンの後ろにたち、椅子の背もたれに手をかけていた。
そっとフェリオルは囁く。

「米国の軍事衛星通信を傍受してみるがいい。作戦コードはビギニング。これはある血界の眷属を呼ぶための奴ら(米国軍)の使う呼称でもある」

フェリオルの擦れた声は、地面に這いずりながらもスティーブンの脳裏に深く焼きこまれるようだった。

「時期に来るこの街の大嵐のために、我々牙狩りで備えようではないか」

と言葉を囁くとフェリオルは姿を消した。
ヘルサレムズ・ロットの喧騒の中、スティーブンは一人残される。
慌しい街の中でそのカフェテリアの一席だけは切り取られたように、静まり重苦しかった。
スティーブンはフェリオルが座っていた席を鋭く睨みつけ、奥歯で苦虫を噛み潰した。
けたたましく、スマートフォンの着信が鳴りだした。
相手はもちろん、クラウスだ。
しかし、スティーブンはクラウスからの着信を取らずに、スマートフォンの画面を睨むようにただ見つめた。


第七話「予兆」


その夢は深い海の水底に降り立つことに始まる。
水底の水はとても冷たく、凍えてしまいそうで息を堪えているもとてもつらい。
漂う海草は体にとても絡み付いて気をつけていないと海草に羽交い絞めされそうになる。
そして水底はとても暗く、静かだ。
気泡があぶく音だけが水底で聞こえる音だった。
気づけば自身の体はとても幼く、幼少期を彷彿とさせる姿になっていることに気づく。
小さな手に小さな脚。
この広大な海原には非力すぎる風貌。
夢の中ではクラウス・V・ラインヘルツはとても非力で無力な存在へ成り代わっていた。
今までおこなっていた修練も鍛錬も抹消されたように失われている。
凍えるような冷たい水底をクラウスは漂うことしかできない。
しばらくして、その水底の一際暗い場所に、人間の姿を見る。
自分と同じように海に漂う人だ。
その女は自身と対照的にとても成熟しきった女の姿をしていて、透き通るような白い肌は人間のものとは思えないほど寒々としていた。
銀髪とも白髪とも見える長い髪が波に揺らぐ。
女はクラウスの存在に気づくと振り返るが、漂う長い髪に遮られ顔が見えない。
しかし、クラウスはその女の横顔の面影に確信を得る。
それは彼の幼馴染であるアスカだ。
どうして、このような冷たく危険な海の底にアスカが居るのか。
自身の状況を差し置いてもアスカを助けようとするのがクラウスという男の良いところでもあり、悪いところでもあった。
クラウスはアスカに手を差し伸べて彼女の名を呼ぶが、口を開けば大量の海水が流れ込み彼の首を肺を締め上げた。
それでもアスカの名を呼ぶ。
彼女を助けなければならない。
彼の中の獣のような本能がクラウスの体を動かせる。
しかし、苦しみもがくクラウスを尻目にアスカは水底のさらに仄暗い場所へ脚を進め始めた。
仄暗い場所。

「クラウス」

それは静まり返る水底では、響きすぎる馴染みの声だった。
アスカが仄暗い場所に身体を沈める瞬間、彼女の金色の瞳がクラウスを見つめ、眼差しが重なったように感じた。
一人残された海でごふりとクラウスは肺から気泡を吐き出す。
窒息しそうに遠のいていく意識の中、クラウスは数あるアスカの記憶を思い返した。
彼女と言う存在を思い返す。
アスカの金色の瞳を思い返し、そして焦がれながらクラウスは冷たい水底で強く求めた。
助けたい。
彼女の歩むべき道は仄暗い水底ではないのだ。


***


ヘルサレムズ・ロットは大崩落時に、何者かによって産卵さられた怪物卵が孵化したことによる怪物騒ぎで大混乱していた。
生憎、怪物はこのヘルサレムズ・ロットの生態系の上位にあたるらしく、人間と異界人問わず食い散らかしつつ成長している。
そこで駆り出されたのが超人秘密結社ライブラであり、クラウスたちである。
クラウスたちは確認されている数十体の怪物を一体一体を滅殺していった。
残すは、あと一体。
怪物との戦闘により崩落したビルの瓦礫の中でクラウスは息をのんだ。
アスカがそこに居るのだ。
ヘルサレムズ・ロットの霞む日差しを背にアスカは瓦礫の山の頂点に立っていた。
太陽の日差しはアスカの銀髪を雪のように白く輝かせ、胸下まで垂れ下がる十字架のネックレスがきらきらと輝いている。
翡翠色の瞳に焼きつくほどクラウスはアスカを見つめた。

「・・・アスカ」

呼びなれた名をなぞる様にクラウスは呟く。
太陽の日差しを浴びて神々しくすら感じるアスカの姿をクラウスはただ見つめた。
大きな図体が硬直したように動かせない。
否、体の動かし方をまるで忘れてしまったように硬直してしまったのだ。
この瓦礫の山に居るのは二人だけ。
しかし、瓦礫の頂上からクラウスを見下げるアスカの表情は強張ったままだ。
クラウスのインカム越しに騒がしいライブラメンバーたちの声が聞こえるが、それらは不思議と意識から遠のいていった。
そして、クラウスは夢を見た。
それは白昼夢だ。
冷たく凍える海の仄暗い水底に漂う夢。
その夢の中で見た女の金色の瞳をクラウスは忘れない。
その女は5年間、捜し求め続けた女だったからだ。
アスカだったからだ。

「アスカ」

クラウスは腹の奥で燃え滾る熱を感じながら、今度ははっきりとアスカの名を呼んだ。








to be continued...




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