境界線とは。
土地の境目。または、物ごとの境目。区別。
ヘルサレムズ・ロットで最も潮の香りを感じられるアスカが立つこの場所では、ある一つの境界線を間近で見ることが出来る。現世と異界の境界線だ。
ヘルサレムズ・ロットという土地自体も現世と異界が交わる街ではあるが、この場所は特別である。何故ならば、この霧の向こう側。海の対岸は、人間たちの領分が広がっているのだ。ニューヨークという街がヘルサレムズ・ロットに成り代わる以前から存在していた合衆国の街が広がっている。
アスカは海岸に面した歩道の柵に凭れながら、海の向こうの先、霧で霞みかかった対岸を、味気の無くなったチューイングガムを噛みながらぼうっと眺めていた。
潮風が伸びた髪をさらさらと靡かせ、スニーカーのつま先をコツンコツンと地面に立てながら海を眺める。
早朝のニュース番組で、霧の向こう側、ちょうどアスカの立つ場所の対岸地域についての報道がされていた。対岸では定期的におこなわれている活動として、さまざまな思想を持った人間が集まって、昼夜問わずヘルサレムズ・ロットに対するデモ活動がおこなわれていた。彼らは一同に集まっては、霧の向こう側に対して、遠い対岸から主張をおこなうのだ。
ニュース番組に一瞬だけ映った映像には、プラカードを持った人間が、異界人を酷い言葉で罵り、失われた土地『ニューヨーク』の奪還を主張していた。
しかし、ヘルサレムズ・ロットの異界人たちはとても冷ややかで、それら人間に対して特に感情を抱いてはいないようだった。(もともと異界人に主義主張を訴えるデモ概念理解や、親しみは無いように思える。)
アスカの立つ歩道からは、旧ニューヨークがあった当時であればとても近く、晴れた日ではれば、肉眼で対岸を目視できたが、濃霧に飲み込まれたヘルサレムズ・ロットでは目視はおろか、海の先は真っ白で何も見えない。近いけれど遠い対岸になってしまった。
「アスカ!」
後ろから声をかけられて振り返れば、黒塗りの車の運転席の窓からスティーブン・A・スターフェイズが暢気に顔を出して、アスカに手をひらひらと振っていた。
「どうだい?今日は自由の女神は見られたかい?」
とスティーブンは海を眺めるアスカの横に立つなり、口角をあげながら言った。ニューヨークの代表格と言っていい自由の女神像があるリバディ島は、3年前の大崩落を奇跡的に免れた土地である。しかし、異界の影響が完全に無いわけではなく、少し島はいろいろな意味で歪んでしまってはいるが、大崩落以前の姿を残していた。
「いいえ」
大崩落を免れたとなれば、リバディ島もとい自由の女神像は、濃霧の外にあるということで、ヘルサレムズ・ロットの中からでは、憧れの自由の女神像は見えやしない。
「今日もここに来ているのかい」
霧の向こう側を眺めるアスカの横顔を見つめながらスティーブンは呟いた。しかし、アスカはスティーブンの声が聞こえているのかいないのか、視線を海に向けたまま応えない。
そのアスカの態度にスティーブンは溜息をつくと、すらりとした背中を丸くかがめて、歩道の柵に凭れるアスカの顔を覗き込んだ。
「そんなに怒らないでくれよ」
と言うスティーブンの言葉にアスカの青い瞳が初めて隣の優男を捕らえた。
「怒ってなんていません!」
唇を尖らせながら言うとアスカはくるりと海に背を向けて眺めるのを止めてしまった。その仕草は、誰がどうみてもスティーブンが言うとおり、彼女の機嫌が悪いように見える。まるで拗ねた子どものように、スティーブンの前でアスカは不貞腐れた表情を浮かべた。
「いやあ、怒っているね。僕も君の表情を見ただけで、何を考えているか分かるようになった」
「まるで、わたしの顔に何か書いてあるかのような言い草ですね」
「そうだとも。それだけ、僕は君を見ているのさ」
スティーブンの言葉にアスカは露骨に目を細めて嫌悪した。
「そう拗ねるなって。僕だって君と離れるのは悲しいさ」
と言うとスティーブンは慣れた手つきでアスカの肩を抱くと、アスカの手を引いて自分の車へ彼女を連れて行く。その間、終始心底厭そうな表情をアスカは浮かべるが、スティーブンはお構いなしである。
ヘルサレムズ・ロットで人界と異界の均衡を守るライブラでも、まるでどこかの商社マンのようにプライベートジェット機に乗って出張することが稀にある。出張する先は国内であったり国外であったり様々であるが、出張の目的はほとんど一緒であった。資金調達。その他に無い。
今回もライブラ副官であるスティーブンがクラウスに代わって商談をするための出張が決まった。ただの出張であれば、アスカも何も言わないのだが、今回の出張は長期間に渡り、スティーブンはヘルサレムズ・ロットをしばらく留守にする。
一人にされるのが、厭なのか理由ははっきりと分からないし、彼女も言わないのだが、スティーブンの長期出張が決まってからアスカは、すこぶる機嫌が悪い。
「わたしは別に貴方と離れ離れになったとしても、悲しくなんてありません」
「思ってもいないことを言うもんじゃないよ」
スティーブンはアスカを車の助席に押し込むように座らせると、アスカのシートベルトを締めて、自身もアスカの気が変わる前に車を発進させたいと、素早く運転席についた。
するとアスカはカーラジオのスイッチを入れて、音量を上げ、ラジオはすぐに、スティーブンの好みの番組がかかったので、アスカはダイヤルを操作して、チャンネルを換えた。
対岸に近いこの場所は、霧の向こう側のラジオを少しだけ聞くことが出来る。アスカが変えたラジオチャンネルは、霧の向こう側のラジオ番組だった。酷く雑音が混ざるが聴けなくはない。
スティーブンはアスカのその行動を静かに見つめた。この場所に車で訪れると彼女がよくする動作なのだ。
「お土産は何が欲しい?」
彼女の行動の真意を知るスティーブンは、機嫌の悪いアスカに対して優しく諭すように言った。まるで大人が子どもに声をかけるような声色だった。助席で窓越しの海を眺めたまま、スティーブンと目を合わすことなく、アスカは答える。
「街の写真つきのポストカード」
今にも消えてしまいそうなほど、小さな声でアスカは続けた。
「それと、街の女の子がみんな持っているもの」
「最後の注文、難しくない?」
とおどけるスティーブンに対して、アスカは、もうスティーブンと会話をしないと決め込んだように髪で表情を隠してしまった。アスカの考えていることが手に取るように分かるスティーブンは溜息をつくと、助席に手を伸ばして、アスカの額に唇を落とす。すると突然のスティーブンの行動に、アスカの身体がびくりと小動物のように驚いた。
アスカの要望に『分かった』と謂わんばかりに、スティーブンは大きな手のひらでアスカの頭を一度撫でてやると、車のハンドルと向き合ってアクセルを踏み込んだ。
二人を乗せた車が発進する。
アスカは霧の向こう側に強く憧れを持っていた。しかし、彼女はこのヘルサレムズ・ロットから出ることは許されない。



to be continued….





「鳥籠の境界線」 了

2018年08月19日頒布の夢本版の付録本にて掲載していた短編です。
あるかもしれない次シリーズのプロローグです。

20190930(web公開)


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