羊飼いの生活は、雲より高い山脈の天候と数十頭の羊たちの食欲に左右される。山脈の風を感じ、雲の流れを見て、これから起こりえる天候を知れば、山脈に降る冷たい雨を避けるため、羊たちを安全で且つ、青々と草が生い茂る場所へ連れていく。山脈の西へ、東へ。羊の食欲を満たすための豊富な草を求めて、羊飼いたちは移動をし、それを人は旅と呼んだ。
少年は見習いの羊飼いだった。同じ羊飼いである父親の下で少年は羊飼いとして修業を重ねていた。父に教わるのは、風と雲の流れの読み方、遠くに見える山々の名前と風にそよぐ高山の草花の名前、羊の性質。そして、羊飼いの天敵である狼の恐ろしさ。
父は少年に羊飼いとしての知識を分け与えることによって、いつか彼に一人の人間として生きていけるように『生き方』を教えていた。いつか立派な男として自立し、女房持ち、子を持ち、一家の主になれるように。
少年はそんな父親の気持ちに応えるように、師である父親の言いつけを素直に守り、山の教えを自ら体現し続けた。
先頭を歩く父が手を振り少年の名前を呼ぶ。
父は少年に、東の山の山頂が雲で隠れてしまっていることを教えた。そして、父親は少年に合図を送ると、歩む方向をゆっくりと変えて、羊を引き連れて歩みだした。少年はその父の進路を追うように、後ろから羊を追い立てる。
東の山頂が雲で隠れると決まって、この辺りの空は、急激に悪くなってしまうのだ。そのため、先を急がねばならない。悪天候の中、数十頭の羊たちを連れて山を歩くのはとても危険なことだった。

「とうさん!」

声変わり前の幼い子供のような声で少年は父に声をかける。

「大丈夫だ。すぐに山を下りよう」

少年は一抹の不安を感じながら羊たちの背中の向こうの父親の横顔を静かに眺めた。
空は先ほどの晴天が嘘のように、黒い雲がもくもくと広がり始めていた。


***


どうしてこうなってしまったのだろう。
少年は、びしょ濡れでガチガチと震える体を自ら抱きしめながら、小さな焚火で暖をとりつつ、何度も考えを巡らしていた。
急激に変化した山の天候に少年も父親も間に合わせることが出来なかった。轟々と吹き荒れる風と雨に戸惑いの末、動けなくなった羊を捨てて、父親と少年は、たまたま見つけた小さな洞窟に身を寄せた。
洞窟の中は充分に外の雨風を防ぐことができ、父親が作った焚火で幾分かの暖をとることができた。雨風が止むのはしばらく時間がかかるだろう。雨が上がった後、羊たちがまだ同じ場所に居てくれているか、生きて居てくれているか、保証はどこにもなかった。
羊飼いにとって羊たちは生活の基盤であり、金貨と同等の価値のある物であった。それをすべて手放してしまったのだから、少年にとっての先行く未来は真っ暗だ。
少年はうつろな瞳で同じように暖を取る父親の顔を覗き込む。薄暗い洞窟の中では、父親の表情から感情を読み取ることが彼にはできない。

「心配するな。こんなこと今まで何度もあった」

息子の不安げな表情に気づいていた父親は、少年を安心づけるため、あえて明るい声色で言った。その言葉が本意であれ、なかれ、自身の父であり師である者から発せられた言葉はいつだって、少年の心を支える礎になる。少年は父親の言葉に耳を貸し続け、雨風が止むのを待ち続けた。
すると、洞窟の奥で何かが息を潜める気配を二人は感じた。それを一番に察知した父は、立ち上がって、羊追い用の木の棒を握りしめた。
外は嵐のような天候だ。
少年らと同じように雨風を凌げる場所を求めて、逃げ込む者の想像はいくらでもついた。

「狼・・・?」

父親がつぶやいた瞬間、洞窟の奥からそれは、二人に向かって黒い塊となって飛び掛かってきた。飛び掛ってきたのは、狼でも獰猛な獣でも何者でもない。黒い塊は父親に覆いかぶさるように押し倒した。
少年は思わず悲鳴をあげる。
黒い塊は、人のような形をしていた。否、黒い塊は黒く煤けた人だった。外見だけは。
父親は煤けた人を払い除けるために、何度も木の棒を叩きつけるが、煤けた人には全く効いているようには見えない。
父親は木の棒で、煤けた人の頭を叩き割るように殴りつけた。しかし、効いていない。
父親は木の棒を煤けた人の目玉を潰すように叩きつける。だが、ちっとも効いていない。
確かに頭を潰しているのに、目玉を潰しているのに。どうして。

「インサン!!!」

父親が悲鳴にも似た声をあげた。
煤けた人には、まるで狼のような鋭い犬歯があった。ぎらぎらとした紅い瞳を持っていた。

「インサン!!逃げろ!!こいつは、化物だ―」

それが父親の最期だった。
煤けた人の犬歯は、まるで獣が獲物を捕らえるように、首元に噛みついて、父親の息の根を止めた。それからは、まるで肉食動物が獲物を捕食しているかのような様を少年はただ呆然と見つめた。先ほどまで父親であった者が肉塊と変わり果てていく。

「・・・とうさん・・・」

少年は震えながらその様を見つめた。
昔、教会で聞かされたおとぎ話の勇敢な英雄のように、敵を屠ることができればどれほどに良かったのだろうか。しかし、彼は非力な凡人であり、戦士でも格闘家でもなく、ただの羊飼いの幼き少年だった。父が殺されていく様をただただ黙って見つめていることしかできなかった。
口元を赤く染める煤けた人は、少年には狼に見えた。羊を食らう狼にとても良く似ている。しかし、違うのはそれが人の形をして、二足で立っていることだった。狼のように人を食らう人。少年にとってその光景はとても異様に見えた。

「インサン・・・イン、サン・・・インサン・リッシュ・・・」

丸い紅い瞳を見開いて、煤けた人は少年を見つめた。

「こ、コトバ、言葉。ひさし、ぶりに、人を食った、生き血を啜った。お前は誰だ、お前は、インサン。この男の、ワタシの、息子」

煤けた人はぶつぶつと意味不明な言葉を繰り返し呟きながら、少年と対峙する。
次に喰われるのは自分だ。
少年は向かってくる煤けた人を見つめながら確信した。
どくどくと心臓の脈が速くなる。はあはあと呼吸が荒くなる。少年は自分の姿が、毛むくじゃらの羊に見えてきた。どうすることもない、抗うことのできない狼を前にした羊に見えた。自身の最期が目の前に人の形となって向かってきているようにすら感じる。

「インサン。インサン・リッシュ。お前は私の息子。羊飼いリッシュの末の子」

その声は煤けた人から発せられているのにもかかわらず、父親の声にとてもよく似ていた。似ている声色は錯乱していた少年に父親の幻影を見させた。
煤けた人はいつしか父親になっていた。

「とうさん」
「インサン、もう大丈夫だ。家へ帰ろう。羊たちを連れて、家へ帰ろう。大丈夫だ。何も心配は要らない。雨はもう止んだ。家へ帰ろう」

轟々と風が吹き荒れ、横な振りの雨が降り乱れていた。しかし、少年の前には喰われて死んだはずの父親と晴れた青空が広がっていた。それは煤けた人が見せる幻覚に違いない。しかし、今から死にゆく少年はとても心地が良い風景だった。恐怖を感じず、幸福を感じながら死ねるのだ。

「だが、止めだ」

少年の耳元で煤けた人は、口角を上げながら呟いた。

「お前は今、俺の『気まぐれ』に救われる。お前に選択権は無く、お前の運命は俺の手の内。」

見つめていた夢のような景色から、惨い現実へ少年は煤けた人によって引き戻されてしまう。ここは地獄か。

「喜べ。俺は子どもが好きなのだ。子どもであるから『救われる』のだ。そして、教えておくれ、父親を殺した者と同属に堕ちるとはどんな気分だい?」

と言うと煤けた人は少年の細い首筋に牙を立てた。
洞窟の外に雷が落ち地を揺らし、風が龍のように地面をうねり狂う。雨が山を下るように降り続き、洞窟の中に灯った焚火を消し去った。
鋭い刃物で喉を抉られたような激痛に、少年は絶叫して意識を手放した。
しかし、遠のく意識の中少年は、人の姿をした鬼を見た。
その姿を人は『吸血鬼(血界の眷属)』と呼ぶ。

「お前は一生、生に焦がれ続ける運命なのだ。羊飼い。」


***


それから少年は、どのくらい眠り続けたのか。ただ、目を覚ますと洞窟の中に彼はまだ居て、外へ出てみたら山は冬を迎えていた。
白銀の山脈をきらきらと輝かせるように青空が遠くまで広がっている。少年は茫然とその場に立ち尽くすと、足元の雪を手で掬い取ってみた。雪を握っているのにも関わらず、冷たさを全く感じない。それ以上に雪山の高山に薄着で居るのにも関わらず、寒さすら感じない。寒さを感じなければ、痛みも感じない。無痛。
虚無が彼を襲う。自分が眠っている間に何者かに代わってしまったのを薄っすらと感じ取ったのだ。体温を失った青白い指先で首筋に触れる。すると首元には、二つの大きな穴が開いていた。
少年は白銀の山の中、天を仰ぐ。
彼の一生は山と羊と共に生きて終わるものだと、彼自身が強く思ってきた。父と共に羊を追い、山々を越えて、大地と共に生きるものだと思ってきた。
世界が終わる音がする。それは終末の音に違いない。
何者に成りたいと思っていた。大人になった自分は羊飼いという何者かになるはずだった。それが音を立てて、幸福と共に崩れていく。
断頭台が見える。この足元の道は断頭台へ、きっと続いているのだろう。
夜が始まる。白銀の世界に太陽はどこにもなく、真っ黒な闇が渦を巻いて少年を飲み込もうとしていた。
仄暗い暗闇を映す、紅い瞳からおいおいと大粒の涙が溢れ、一匹の小鬼の頬を濡らした。
彼の途方もない久遠に続く、時が今始まる。
一人の血界の眷族の起源がここにあった。





「ある羊飼いの少年の噺」 了

2018年08月19日頒布の夢本版の付録本にて掲載していた短編です。

20190930(web公開)

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