アスカは交差点で佇んでいた。
人差し指で自身の唇を撫で、昨晩の逢瀬を思い出す。
信号は赤。




That's Life!!!



秘密結社ライブラでスティーブンはクラウスとチェスに勤しんでいた。
大人二人が真剣な眼差しで小さな駒と盤に向かうのだが、話す言葉はどれもライブラの活動の話ばかりだ。
会話をしながら二人は器用に駒をあやつる。

「だいたいの事はわかった。その少女はいまどこへ?」
「今は病院で入院している」

スティーブンはクラウスにアスカの話をすべて話した。
彼女が大崩落以前の記憶がないということ、昨日の血界の眷属と交戦し、その眷属が言い残した言葉。
『偽者』
偽者という言葉が意味する真意とは。

「昨日の交戦はライブラや僕が狙われたわけじゃない。アスカを狙っていたと思っている」

スティーブンはクラウスの手駒をひとつを獲りながら続ける。

「奴は言っていた。これからアスカの周りに血界の眷属が集まり出す、と」

クラウスは押し黙る。
チェスの盤面に思案しているのか、スティーブンの言葉に対して思案しているのか。
しかし、彼が物凄い勢いで集中しようとしているのだけは確かだ。

「牙狩りの報告書によると、約半世紀以上前、第二次世界大戦真っ只中のアメリカ合衆国ニューヨークシティで、裏社会の資本を基盤としながら血界の眷属研究が始まった」

もとは、化物退治の一環の研究としておこなわれていた血界の眷属研究。
魔術と生物学・遺伝子工学などの融合研究として研究がおこなわれており、その研究は退治屋にとってはとても代え難い貴重な情報源となっていた。
しかし、本来あるべき姿の研究から足を踏み外したのは冷戦時ごろから。
ある一派の研究者たちが血界の眷属のDNAに刻印されているとされる術式の一部の解読に成功した時と推定される。

「それから、あくまでも血界の眷属を知るためとしながら、自らの手で血界の眷属を作ることを目的としだした。」

その名も血界の眷属の『偽者』
いつしか本来の目的を忘れ、偽者作りに傾倒しだしたというのだ。

「研究自体は大戦および冷戦を経て、闇のまた闇へ隠れていくのだが、最近までおこなわれていた史実は残っている」

気づけば、クラウスのチェスの盤面が劣勢に追い立てられている。

「しかし、本部はなぜ、急に我々にそんな情報を流してきたんだい?」

二人のチェスの手が止まる。

「大崩落の前日。その研究所で事故が起き、研究所は壊滅。そして翌日には、街ごと崩落ときたものだ。研究所はおろか、貴重な文献も論文もそして、重要なDNAサンプルもすべてはこのヘルサレムズ・ロットの中。」
「僕たちにそれらを見つけだして提出しろということか」
「少なくとも、そのアスカ君は今回の血界の眷属研究の重要参考人ではある」

形勢逆転。
クラウスのナイトがスティーブンのキングを狙う。

「チェックメイトだ。スティーブン。」

とクラウスは嬉しそうに言った。

「アスカ君を我々ライブラの正式な保護対象下に置くべきだ。」

スティーブンはクラウスのこの言葉を待っていた。
彼の助力こそ、誰よりも頼れ、安心できるものはない。
しかし、アスカが素直に保護されてくれるかスティーブンは確証が持てなかった。
スティーブンのスマートフォンが鳴る。
アスカが入院している病院からの電話だった。

「ええ!なんだって!?」

その電話にでるなり、スティーブンは声を上げた。
今ここで保護しましょうと言っているのにも関わらず。

「アスカが病院から抜け出しただって!?」

幸先はすこぶる悪い。
スマートフォン片手にあたふたするスティーブンを遠巻きで見つめながらクラウスは言った。

「これは君が一人で悩むことじゃない。私たちはいつどんなときでも仲間に助力することを厭わない」


***


「やあ、レオ君。こんにちは。」
「うわあああ!!」

公園でハンバーガーを頬張っていると、後ろから突然顔を覗き込まれ、レオナルドは驚いた。
口の中のハンバーガーが喉に詰まりそうになり、思わず咳き込んでしまう。

「アスカさん!?」

声の主は、半ば強引に文字の読み書きを教えることを押し切ったアスカだった。
アスカはレオナルドとの再会にとても嬉しそうに瞳をきらきらさせている。
彼女はレオナルドの隣に座るや否や、紙袋からノートとサインペンを取り出した。

「そこの売店で買ってきたの」

どうやら読み書きをレオナルドに教えてもらうというのは本気だったらしく、アスカの強引さにレオナルドも少し引いてしまう。

「教えてくれるよね、レオ君」

というとレオナルドにノートとサインペンを差し出した。
一度、アスカに助けられた恩がある以上、レオナルドにそれを拒否する選択権はなく、それ以上に恩だとか建前だとか関係なく、彼女が年齢以上のあどけなさを醸し出すものだからレオナルドにアスカを蔑ろにすることなど出来なかった。
レオナルドは持っていたハンバーガーの残りを一口で平らげると、ノートを受け取って簡単な単語を書いていく。
それを興味津々にアスカは覗き込んだ。

「どうして、急に読み書きなんて?この街なら読み書きができなくとも大丈夫でしょう」

単語の意味をノートに書きながらレオナルドは言った。
横目でアスカを見ると思った以上に彼女との距離が近くて恥ずかしくなる
レオナルドの問いにアスカは少し考えてみせた。

「うーん。最近、あくどい上司の下について、いろいろ誤魔化されているんじゃないかと心配になったからかな」

その不安になる気持ち、なんだか分かるよ、とレナルドは同感した。
ヘルサレムズ・ロットの街は自己責任の街だ。
自分の身は自分で守る必要がある。

「そうだ、レオ君。わたしには異界人の知り合いしかいなくて分からないのだけれど。人間の口と口で挨拶をするときってどんなとき?」

思わずアスカから爆弾発言を問いかけられ、レオナルドの足元にサインペンが転がっていく。
アスカ自身、自分の問いがおかしいことに気づいていないらしく、純粋な気持ちで聞いているようだった。
レオナルドは返答に詰まる。

「されたの?」

うんとアスカは頷く。

「相手は男の人?」

うんとアスカは頷く。
レオナルドはますます返答につまる。
一方、アスカは純粋なきらきらとした瞳をレオナルドに向ける。

「それ、キスだよ。」
「え?」
「それ、挨拶じゃない。」

アスカの表情が固まる。
気まずい雰囲気が二人の間に流れる中、それを断ち切るようにアスカの携帯がけたたましく鳴った。
電話の相手は表示画面を見る必要もなく、スティーブンだ。

「出たくない」
「いや、誰からの電話か分からないけれど、呼鈴だけであんなに怒れるって相当だよ。だから電話に出た方が・・・」

アスカの勉強会がここでお開きとなるのだった。


***


アスカを携帯で呼び出すとむすっとした表情を浮かべてスティーブンを待っていた。
散々、電話を鳴らしたにも関わらず、アスカがまともに電話をとったのは、日が暮れて夜になった頃だった。

「なんで病院から勝手に抜け出た・・・!」

苛立ちながらスティーブンはアスカの前に仁王立ちした。
ずいぶん怒っているようで表情がとても引きつっている。
一方、アスカは不貞腐れながら口を尖らせていた。

「勝手に抜け出てなんかいません。先生にお腹の傷が治っているね、と言われたんです。だからもういいか、と思って退院してきたんです」
「それを勝手に出てきたって言うんだ!」

腹の傷が治ったとアスカは言った。
あれだけの傷と出血を伴う大怪我だ。
いくらヘルサレムズ・ロットの医療だとしてもたった一晩で治るはずがない。
スティーブンは徐にアスカの腕を掴むと持ち上げ、アスカのTシャツを胸の下まで捲り上げる。

「な、なにするんですかっ!!」

本当に治っている。
治っているだけではなく、縫合した痕すら残っていない。
スティーブンは興味深くアスカの腹を注視していると、真っ赤な顔をしてアスカは暴れて掴んだ手首を振りほどいた。

「いいかげんにしてください!もういいでしょう。何か仕事があったらまた電話してください。」
「駄目だ。」
「はあ!?」

スティーブンは自分よりはるかに小柄なアスカを上から見下ろした。
その表情は引きつるどころか、さらに目に角を立てている。

「もう、病院には戻れません!」
「そりゃそうだな。君が勝手に抜けてきたのだから。そのままベッドを空けて待っていてくれるほど、ヘルサレムズ・ロットの病院は優しくない。」
「だからわたしは家に帰ります。」
「駄目だ。」

アスカの顔が歪んだ。

「これから僕の家に住み込んでもらう。これは業務命令だ!」

と言うとアスカの反論をかわすように、流れる動作でスティーブンはアスカの手をとってそのまま車の後部座席に放り込んだ。
何がどうなっているのか理解できないままアスカはスティーブンの運転で運搬されるのだった。


***


ずるい人だ。
アスカはスティーブンの住まうマンションのリビングのソファにちょこんと座りながら考えていた。
彼と上司と部下の関係である以上、アスカは業務命令と言われれば反論する余地などないということを彼は知っている。
だからあえて業務命令など言ってアスカを拘束したのだ。

「最悪な上司・・・!」

アスカが座るソファとソファーテーブルの上は書類だらけで、座っているのを躊躇してしまうほどだった。
それに対して、玄関もキッチンもとても片付いている。

「明日の朝になれば、家政婦のヴェデットが来る。そのときに洋服をつくろって貰えばいい。」

寝室から出てきたスティーブンはとてもラフな格好をしていて、着ている紺のシャツのボタンを胸の辺りまで開いている。
書類の山の中にちょこんと座るアスカに向けて、スティーブンは放り投げた。

「今晩はこれで我慢するんだな」

投げられたのは、バスタオルと大きめのワイシャツ。
スティーブンのワイシャツ。
アスカはそれを手で広げながら上司であるスティーブンを睨む。
するとスティーブンはにやりと含み笑みを浮かべていた。


***


リビングに山詰みになっていた書類を整理していると、気づけば零時近くなっていた。
ライブラの事務書類を持ち帰ることが多いスティーブンは、深夜まで仕事をこなすことが多い。
ノートパソコンの画面と手元の書類を見比べていると、アスカがそっと廊下からリビングを覗き込んでいるのが横目に入った。
シャワーを浴びて戻ってきたのだ。
湿った髪と肌を大判のバスタオルで隠しながら、廊下から無言で見つめている。
否、すこし睨んでいる。
スティーブンはアスカへ向けた視線をまた書類に戻しながら言った。

「僕はまだ仕事があるから君は寝室で眠るといい」

と言われるとアスカはこそこそと大判のバスタオルに包まりながら寝室の方へ消えていった。
スティーブンは書類を捲る。
高額の支払い請求書類は、困ったことにスティーブンの頭を悩ませる。
カタン、と物音がしたのでスティーブンは、また書類から目を離すと今度は、アスカがダイニングで椅子に腰掛けていた。
そして、何か言いたげにアスカはダイニングテーブルに頬杖をついてスティーブンを見つめている。

「どうした?」
「上司が仕事をしているのに、わたしだけがベッドを使って寝るなんてできません」

と律儀に言う割には、二人の距離は開けている。
スティーブンは一つ溜息を吐くと、ソファの上の書類を片付けソファをぽんぽんと叩いた。

「しょうがないな。こっちにおいで」

自分が座るソファにアスカを呼ぶ。
いそいそと寄るアスカの手をとると自分の隣に座らせた。
スティーブンの横に座るアスカは風呂上りのせいか、とても湿っぽく艶やかに見える。
その視線が気になるのか、アスカはバスタオルを羽織り直すのだが、スティーブンはそのバスタオルをアスカから剥いでしまう。

「湿ったタオルを被っていると風邪をひくよ」

大きめでずるずるのワイシャツをワンピースのようにして身に包むアスカがそこにいる。
恥ずかしそうに目を伏せるアスカの頬をスティーブンは手の甲で撫でた。

「図りましたね・・・」

アスカが恥ずかしそうに呟くと頬を膨らませた。

「まあ、いいじゃないか。減るものじゃないし」
「よくありません!」

スティーブンはアスカをあやすようにぽんぽんと撫でた。
そのしぐさにすらアスカはむっと膨れるのだが、スティーブンの隣にアスカは猫のように身を丸くして横になった。
そのアスカの気ままな姿にスティーブンはまた溜息をついて、ふかふかのブランケットをうえからかける。

「貴方が寝室をつかってください」
「ああ、わかったよ」

止まっていた仕事をスティーブンは再開させる。

「アスカ、眠る前に一つ聞いていいかい。」
「内容によっては、お答えしましょう」
「君は自身の記憶を取り戻すなんてこと、可能とおもうかい?」

アスカが息をのんだのが分かる。
ブランケットに身を埋めながらアスカはスティーブンの質問に答えることはなかった。










第九話 「First catch your hare.(まずはウサギを捕えろ)」
to be continued...


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