堕罪
第五話 伊賀の里・中




その年。
中庭の桜の木は花を咲かすことは無かった。
毎年綺麗な花を咲かしていた木は、冬を越し朽ちてゆく。
次の冬はきっと越すことはできないだろう。
まるで春の季節を辺りの森は彩るのだが、色の無い、中庭だけは別世界のように思えてならない。
ひのえはそれをただ、眺め続けた。
次第にアスカと交わす言葉は減ってゆく。
縁側から動かなくなった彼女を見つめながら、アスカはまるで彼女が人形になってしまったのではないか、と思ってしまうほどだった。
しかし、それも満更でもない。
彼女の瞳は桜の木と共に死んでいったのだ。
輝きも無い。
仄暗い二つの穴が、中庭を眺め、アスカを見つめる。
そのたびに、アスカの心が痛んだ。
彼女の生贄『姫』という刻印がひのえを苦しめてしまっているから。
他の女と何一つ変わらず、
ひのえの笑顔は太陽のように明るく、
ひのえの声は小鳥が囀るように綺麗で、
ひのえの心は何よりも優しく、柔らかいのに、
アスカたち里の人間は、ひのえを異質な人と見なし、
幽閉して縛りつける。

「姫。」

月日は人を変え、風景をも変える。
桜の木は朽ちようと変わってしまった。
ひのえも変わってしまった。
そしてアスカも。
ひのえの足元に膝をつくアスカを、昔のようにひのえは撫でてはくれない。
昔のように声をかけてはくれない。
彼女は桜を眺め、
遠くを眺め、
世界の果てを眺めているに違いない。

「・・・姫。」

アスカはひのえを縛り付けているのだ。
その自分の存在がアスカは許せない。
どうしても、
どうしても許せない。

「・・・・・・・・・姫。」

愛している人間の幸せを思うのは当たり前のこと。
愛している人の幸せな場所を作るのは当たり前のこと。
しかし、アスカは何一つ、ひのえのためにできないでいた。
自分の力は大切なモノを守るためにある。
忍びにとって、
大切な主君を守ることは忍びの術。
なのに、アスカは。

「何のために私の力はあるのだ。」

アスカは里一番の忍びと有望視されていた。
それゆえ、姫の護衛を任された。
それゆえ、姫の監視を任された。
それゆえ、姫と出会った。

「自分の力が憎くて、憎くて、しょうがありません。」

アスカはひのえを抱きしめた。
生きる人形を。

「大切な人、一人も守れない、この力が。」

いつしか、アスカは愛していた。
男や女の垣根を越えて。
それは男と女の愛情に似ている。
それは家族の間の愛情にも似ている。
それは友人の間の愛情にも似ていた。
運命。
さだめ。
と言えば容易い。
しかし、恨むべき運命というべきか。

「・・・姫。」

アスカの愛情は底なし沼に落ちてゆくように、
ひのえに向けられる。

「アスカ。」

ひのえがアスカの名を呼ぶ。
弱々しい声だ。

「桜はいつ咲くのかしら?」

朽ちゆく桜の木はもう青葉さえ芽吹かない。
いっそうのこと、この力は姫のためにあるのではなく、
戦場で人を斬り殺すためにあり、
修羅道を行くためにあればよかったものを。
とアスカはひのえを抱きしめながら思い、泣いた。
心の中で、泣いた。
零れる涙さえ、アスカにはもはや無い。





   * * *





その晩。
アスカは服部氏に呼び出された。
服部氏に呼び出されたのはアスカが元服の儀を終え、姫へ仕えを任された夜以来だ。
服部の自室へ向うと里の名だたる忍びが集まっていた。
集まる面々を見るだけでアスカは察しがついた。
今から何を話し合うのか。

「よく来たな。そこへ座れ。」

促されるようにアスカは座る。
アスカが座るのを見届けて服部は話しを始めた。
今、伊賀の忍びが話し合う事柄は一つ。
織田軍は伊賀攻めを考えている。
そのことだ。
織田軍が伊賀攻めを考えている情報は、里にも流れてきており、伊賀の里は織田軍を逆手に取り、攻め込むことを考えていた。

「しかし、もう少し慎重に考えた方がよい。」
「・・・いいや!ここはもう、早急に攻め込むことを薦めたい。」

話し合いは進む。
アスカを置いたまま。
アスカ自身、里がどうなろうが、関係なかった。
己の中でもっとも重んじるものが、ひのえただ一人の女だったから。

「そこで、アスカをここへ呼んだのも他でもない。」

服部の声にアスカは頭を上げる。

「お前の意見を聴きたい。」
「私の意見といいますと・・・?」

名だたる忍びたちが口を噤む。

「もはや、伊賀の里にとって生贄など、先々代の頭から行ってきたことであり、もはや霊山の鬼を信じている者も少ない。」

「古い風習を捨て、新しいものを見なければならぬ時が来たのだ。」

アスカの眼差しが鋭くなる。

「何を言いたいのですか?」

語尾も強くなってしまう。

「これから、戦を行う上で、我々は里を捨てなければならない。」

「我々にとって、姫と言う存在は重みにしかならぬ。」

どんどんとアスカの表情が青ざめてゆくのが分かった。
誰もがアスカの顔を見ようとはしない。
俯く者ばかりだ。

「アスカよ。姫を暗殺するのだ。」

息が止まる。
心臓が強く脈打つ。
誰もが息を飲んだのがアスカにもわかった。
否、アスカにそんな周りを見ることができたかは定かでは無い。

「いくら忍び頭とは言え、言ってもよいことと―――」
「アスカよ。何故、お前を姫の護衛と監視の役につけたか分かるか。」

「何故、里一番の忍びを姫の護衛と監視につけるか分かるか?」

アスカは立ち上がった。
そして足元にある机を蹴り上げる。

「ふざけるな!ふざけるな!!!」
「・・・・いつでも、姫を暗殺できるよう、殺せるよう鋼の心を持ち合わせて居る者だからよ。」
「いくら、頭とは言え、許さぬ!」

慌てたようにアスカを制止する忍びが現る。
男が三人で掛かっても、アスカを制止するのは一苦労だ。

「そして、アスカ。お前にもその力が備わっている、と思ったから、我々はお前を姫の下へつけたのだ。」

やはり、アスカの存在はひのえを縛り付けていたものに違いない。
もはやそれ以上か。
アスカの存在はひのえを殺すために存在していた。

「お前は忍びなのだ。忍びは、闇にこそ徹する。愛など持ち合わせてはならぬ!!!」

これほど、
アスカは思う。
これほど、
自分が忍びであったことを恨んだことはない。
自分の力を恨んだことはない。
アスカは思う。
姫を守れないかと。
運命に抗えないかと。
アスカはその足でひのえの手を引いて、森へと向わせた。
その夜、アスカは伊賀の里を抜けた。





   * * *





「何故、何故!!!」

夜の森は深い。
夜目が効くとは言え、方向を見間違えてしまいそうになる。
ひのえはアスカに手を引っ張られながら、声を上げた。
なぜ、神殿を抜けたのかと。

「アスカ、今すぐ、戻りなさい。戻らないと!!」
「姫。」

アスカはひのえから手を解いた。
ひのえの太陽を知らない腕に赤く痕が残る。

「あんな場所へは居てはいけない。あの場所は、神殿は、里は、蜘蛛の巣。一度嵌れば、逃げることは許されぬ場所。苦しみしか与えぬ場所。」
「それが、どうしたのです!わたしは今すぐ戻ります。その蜘蛛の巣に留まることがわたしの役目。」
「姫!!!」
「今ならまだ遅くない。戻って、同じ床で眠りましょう。そうすれば―――」
「姫はあの里に殺されても構わぬのですか!?」
「何を・・・」
「あの里は今や、姫を重みにしか考えていない。姫の地獄をだたの重みにしか考えていない。」

あの里には戻ってはいけない。
姫のことを、里を統治する道具としか考えていなかったあの里には絶対に。
ひのえの瞳が揺らいだ。
しかしその瞳は、仄暗い。
木々が揺らいだ。
追っ手が着ているのだ。
アスカは神経を足りに張り巡らせ、忍びの気配を感じる。
相手は三人。
アスカといえど、伊賀の忍びを相手にすることは難儀だ。
しかもこの状況下からすると上忍相手。
苦戦するのは必死。
姫の手を引いて自分の胸に引き寄せた。

「姫。私の身体から離れないで下さい。」

アスカは腰に帯びていた小太刀を取り出す。
元服の儀に仲間を斬り殺した小太刀を。
血の臭いが染み付いた小太刀。

「アスカ・・・・・・」

姫の声が闇深き森に啼く。





   * * *





長い傭兵を終え、薬師六丸が里に帰っていたのはアスカが姫を引いて里を抜けた直後だった。
服部氏に事の一部始終を聞いて六丸は唖然とする。
主従に忠実でありつづけたアスカが里を抜けるとは夢にも思っていなかった。
しかも、里の宝。
姫を連れて。

「薬師六丸。」

服部は六丸の顔を見ずに言い放つ。

「お前に任務だ。抜け忍、四柳アスカを抹殺し、姫を里へ連れ戻せ。」

しかし六丸は知らない。
なぜ、アスカが姫を連れて里を抜けようと思ったのか。
服部は六丸にいっさい、姫の暗殺の事実を付けることなく、アスカが抜けたことを話したのだ。

「我々にとって、姫が大切なように、お前にとっても、姫は大切だろう。心してかかれ。以上。」

戸惑いながら、六丸は手に持つ荷物を足元に置く。
その中にアスカに贈るはずの土産もあった。
姫と同じように里に縛り付けられ続けるアスカに対しての外の世界からの土産が。

「・・・承知した。」

六丸は闇に消える。





   * * *





忍びと一戦交えるアスカの姿は、わたしにとって鬼にしか見えませんでした。
まるで赤子を切り刻むように敵方は切られてゆきます。
アスカの手によって。
アスカがわたしの肩を抱きました。
彼女の手からわたしへの愛情はひしひしと伝わってきます。
しかし、
しかし、
その愛情は、
また一人、斬られました。
返り血がわたしの気持ちを汚します。
そしてアスカの綺麗な身体も。
汚れる。
汚れて、アスカの心も壊れてゆく。
わたしの心と一緒に壊れてゆくのです。
なんと、悲しいこと。
なんと、
なんと、
また一人、アスカの手によって斬られました。
これはひどい。
五体ばらばらになって相手方は絶命しております。
これも忍びの秘術なのでしょうか。
アスカは己が殺めた相手を見つめます。
その瞳は死んだ瞳。
わたしの瞳の色と似ている。





   * * *





絶命した相手から流れる赤。
赤。
紅。
こんなに鮮やかだったとは。
アスカは小太刀を鞘に仕舞うと、またひのえの腕を掴み、ひっぱった。

「逃げましょう、姫。姫はこの四柳アスカがお守りします。」

走り出した森はとても寂しく、終わりの無いように思えてしょうがない。
あんなに多弁だったひのえも黙り、息を切らせながらアスカと共に走る。
闇が襲う。
二人を襲う。
死の恐怖。
逃げなければ。
逃げなければ。
アスカは、唱えるように思う。
愛している。
愛しているから、ひのえをアスカは守りたいと思う。
愛。
愛とは何か。

「アスカ。」

突然、ひのえが足を止めた。
アスカの足も止まる。
こんなにか細く、白いひのえは弱っていた。
長く走り続けた身体には限界が近づいている。

「貴女は、何故、逃げようと思うのですか。忍びの里とは言え、伊賀の里は裏切り者を許しません。それなのに・・・」

しかしひのえは力強く言い放つ。
どこから、こんな強い声が放てるのかと思ってしまうほど。

「伊賀の里は織田軍による伊賀攻めを恐れています。そして里の人々はいつか重みになるだろう、姫という存在を抹消しようとしている。」

「貴女を殺そうとしている。」

アスカの言葉にひのえの大きな瞳が大きく見開かれた。

「しかし、私がそれを許さない。姫、貴女は私がお守りします。」

月が昇る。
木々から合間見える月はとても美しい。
ひのえはアスカの元から離れようとする。
しかし、それをアスカは許さず、ひのえの腕を掴む。

「なぜ、私から逃げるのです!?私は貴女を守ろうとしているのに・・・!」
「アスカ・・・」

ひのえの声はとても震えていた。
アスカにはひのえを守りきれる自信があった。
きっとこの場を切り抜けようと、アスカとひのえの命がある限り追っ手はつき、命は狙われるだろうが、それでも守りきれる自信がアスカにはあった。
アスカには自分も自負する力があった。
誰にも負けない力。
仲間をも殺してしまえる力。
この力があれば、ひのえも守りきれるだろう。
ひのえがアスカを見つめた。
仄暗い二つの穴から涙が零れていた。

「アスカ、お願いだから、これ以上、貴女の愛情をわたしに押し付けないで!!!!」

ひのえの声が森中に響く。
遠くで烏が飛び立つ羽の音を聞く。
アスカは呆然とその場に立ち尽くした。
ひのえの言った意味が分からなかったのだ。

「貴女の愛情はわたしを縛り付けている。」
「姫・・・何を・・・」
「この先、私たちが逃げ切れようとも、必ず追っ手がつく。逃げ切れるはずなどない。」

するりとアスカはひのえから手を離した。

「アスカ、貴女の考えは安易なものすぎる。」
「でも、姫。今逃げなければ、殺されてしまう。どちらにしろ、死は見えています!ならば―――」

少しでも生きながらえる方法を。
とアスカは口を開くが、声は出なかった。
否、出せなかった。
ひのえが言わせなかったのだ。

「わたしはあの神殿で、あの部屋で、己のさだめに縛られる。それでよかった。なぜならば、とうの昔にわたしは、」

「生きることを諦めていたから。」

ひのえは続ける。

「牢獄の様な部屋で、縛られて暮す。いつかわたしは殺されるのではないか、と思う。わたしは刃物すら持たせて貰えぬ身。自害など許されない。いつしか、わたしは夢現で願っていた。」

聴きたくないと心からアスカは思った。
何かが音を立てて崩れてゆく。
がらがらと音を立てて。

「誰か、わたしを殺してくれないかと。この生き地獄から誰か、解き放ってくれないかと。」

今、アスカの目の前にいる女は、アスカが知っていたひのえではない。
姫としてのひのえではなかった。
居るのは一人の女。

「これ以上、貴女の愛情でわたしを縛り付けないで。」





続く
Grimoire
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