堕罪
第三話 愛と絶望



自分の胸の中に納まるアスカが震えていた。
小刻みにがたがたと。
だが、六丸の気配が消えるとアスカは平静を装って俺の胸の中をすり抜けてゆく。
何を考えているのだろう。
強張ったままの彼女の表情からは、アスカの真意を掴むことができなかった。
地面に突き刺さったままの小太刀をアスカは力いっぱいに引き抜いた。
その姿に彼女が苛立っているのを感じる。
あの忍び、何者だろうか。
アスカをこんなにも苛立たせ、震わせるあの男は。
小太刀を引き抜くとアスカは思い出したように、俺の元へよってくる。
拾った鞘に小太刀を仕舞うと俺の手をアスカは取った。
先ほど、忍びに切りつけられた傷跡だ。
血が溢れるように流れている。
そういえば、手の甲が痛む。

「手当てを。」

アスカが俺を見上げた。
大きな猫の様な瞳。
今夜は少し、鋭さを増している。

「舐めてれば、治るさ。」

と手の甲をちらつかせようとすると、アスカは俺の手を力強く引きとめた。

「ですが、忍びの刀の刃には毒が塗ってあるものです。手当てを。」

息を吐く間を持たせずに、アスカの唇が手の甲の傷口に宛がわれた。
突然のことに俺は目を見開いてしまう。
肩に乗る夢吉も驚いたように身を乗り出した。
アスカは傷口に唇を宛がうと、血を、毒を吸うように唇を立てる。
ある程度吸い上げると、アスカは唾を吐くように血と毒を地面に吐き捨てた。
それを黙々と何度も繰り返す。
血と毒を吸う行動はとても異形な姿に見え、俺は成す術も無く、アスカを見つめた。
何度目か、アスカはやっと顔を上げた。
彼女の唇には俺の血が付着している。
まるで赤い紅を塗ったように。
俺の血が。
アスカはその唇を自分の手の甲で拭うと、

「・・・沁みるかもしれません。」

腰に携えられていた水筒の封を開け、中の水を俺の手の甲へかけていった。
傷口を洗っているのだ、と理解するのにどうしても時間がかかってしまい、自分の思考回路がアスカの手によって麻痺されているのを感じた。

「これは応急処置なので、本家に戻り、本格的な手当てをしないと・・・。」
「だから、大丈夫だって。」

これ以上、アスカと居ると自分の古傷を穿り回されてしまいそうで怖くなる。
だがアスカは俺の言葉を許さず、握った手を離さない。
夢吉が小さく鳴くと、またアスカの肩に乗り移った。
アスカは驚いたように俺を見る。
その表情はとても忍びのように見えず、普通の女だ。
どうやら夢吉はアスカのことが好きらしい。
否、コイツは俺の心の揺れを見て、俺から離れたり、近づいたり、しているのかもしれない。
俺が怖いのか、夢吉。
アスカが俺の手を引く。
手を引きながら足早に闇を歩く。
俺の体は麻痺したように動かなくなり、
そして、本家に戻るまで、アスカは手を離してはくれなかった。





   * * *





早く、慶次様の手当てをしなければ。
と言う言葉を何度も心の中で唱えながら、私は自分を落ち着かせていた。
自分の感情が表に出ていないかとても心配になり、自分を抑えつける。
慶次様の手を取って本家に戻ると、まつ様が仁王立ちして門の前に立っていた。
そしてつられるようにして利家様がまつ様の後ろに。

「慶次!貴方、また遊びに――――どうしたのです?」

私の姿を確認するなり、まつ様の声の色が変わる。
出来れば会いたくなかった二人に出くわしてしまった。
私は心の中で溜息を吐くが、慶次様は違う意味の溜息を声に出して吐いた。

「アスカどうした?そんな格好で・・・今日は非番だったはずだぞ!?」

勘が鋭い利家様が忍者衣装姿の私に問いかけてくる。
本当は薬師六丸の侵入について報告しなければならない。
だが私闘は御法度。
話せるはずがない。
そしてなにより、この人たちには話したくない、現実だった。
私が戸惑っていると、慶次様が頭を掻きながら話しに入ってくる。

「俺が都に戻ろうとうろうろしていたら、アスカに見つかっちまったんだよ。アスカは忍具投げて追っかけてくるし、怖いし。」

思わぬ助け舟に私は驚いて慶次様を見上げてしまった。

「そんでもって、こけちゃってさ。」

と言うと手の甲の傷を慶次様は、まつ様、利家様に見せ付けるように出した。
なぜ、慶次様がこのような行動をとるのか理解できないが、この場を乗り切るためには、口裏を合わせるしかない。
私は慶次様の手をまた握ると

「手当てをさせて下さい。」

と頭を下げた。
まつ様と利家様が私の言葉を嫌がるはずが無い。
するすると慶次様の腕を引っ張りながら私は自室へ急いだ。
廊下を歩く中、後ろの慶次様の顔は振り返らない。
自分の中の古傷が薬師六丸によって開かれてゆくのが分かったから。
自分の古傷から血が溢れ出してゆく。
そして、痛い、痛いと泣く。
私の心も、何もかも、どこかに忘れてきてしまった。
忘れた場所を思い出そうとするが、傷が増えるだけ。
腰に帯びた小太刀がカチャリと鉄の音を発した。
傷口が一つ、増えた。





   * * *





アスカは黙々と俺の手の甲の傷を手当してゆく。
白い包帯を器用に巻きつける。
するとすぐに白い包帯に、紅い染みができた。

「どうして、隠したのです?」

静寂を切り裂くようにアスカは言った。
あまりに突然の問いかけに俺は間延びした返事を返してしまう。
するとアスカはまた静かに繰り返し問いかけた。

「まつ様や利家様に、先ほどの私闘をどうして隠されたのです?」

夢吉がアスカの膝の上で眠る。
もう夜も深い。
蝋燭の明かりが揺らいだ。

「まつ姉ちゃんや利には、隠しておきたかったんだろう?」

と答えるとアスカの猫の様な丸い瞳が俺に向かれた。

「・・・顔に出ていたよ。」

付け加えるように言う。
図星のようだ。
アスカの瞳が一瞬、揺らぐ。
だが、アスカは自分の感情を表情に出すことは無い。
彼女の顔だけを見てもアスカの気持ちを察することは出来ない。
俺の直感的なものが教えるのだ。
彼女の隠された気持ちを。
揺らぐ微かな感情を。

「何者なんだい?アスカと知り合いだったみたいだけど?」

膝の上の夢吉がころころと畳みの上に落ちる。
アスカが立ち上がったのだ。
立ち上がるとアスカは俺に背を向け忍者衣装を脱ぎ始めた。
突然、脱ぎ始めるので俺は反射的に視線を逸らす。
しかし、露になったのは首筋で、忍者衣装の下に着込んでいた服の上に緋色の着流しを羽織るだけだった。

「答えられない?」

返事の無いアスカに返事を促すようにもう一度、問いかける。
すると俺を見つめたアスカの瞳が、大きく揺らいでいた。
そして赤く熟れたような唇を噛み締める。

「・・・私は貴方が嫌いです。」

と言うとアスカは黒い帯をきゅっと締めた。
あからさまに嫌悪感を抱く眼差しをアスカに向けられてしまった。
そんな今の彼女の横顔と姿は、女と言うより、元服あがりの少年といったところ。

「貴方と共に居ると、癒えたはずの私の古傷がまた穿りまわされてしまう気がして。」

アスカは畳の上の夢吉を抱き上げてまた座る。
膝の上に乗せられた夢吉は嬉しそうに小さく鳴いた。
夢吉を見つめる眼差しは、放った言葉とは裏腹に優しい。
俺のことが嫌いか。
久しく聴いた拒絶する言葉に俺はどこか懐かしさを感じる。
ちょうど、俺も感じていたところだよ、と心の中で言う。
俺もアンタが嫌いだ。
俺もアスカと共に居ると癒えたはずの古傷がうずく。
そして痛い、痛い、と泣く。

「だけど、開いた古傷に塩を塗るように、貴方の存在は私に恋や愛を語ってゆく。思い出させてゆく。」

一方的にアスカは喋る。
まるで自分の周りに壁を作るように。
いや、今まで壁は存在していてそれを補強しているのかもしれない。
アスカの膝の上の夢吉は寝息を立てて眠る。
すーすーと。

「だから嫌いなのです。」
「俺もアンタが嫌いだ。」

アスカの方がピクリと跳ねる。
まるでひと時の一瞬を共有するかのように、互いの眼差しが重なりもした。

「アンタの言葉は俺に現実を見せてゆく。忘れたい真実を。背けたい現実を。」

アスカの表情は強張ったまま動かない。
気持ちすら読み取れない表情。
だけど分かる。
今まで彼女の気持ちが分かったように、
今も。

「今、アンタの言いたいことが分かるよ?」
「私もです。私たちは似たものどうしかもしれません。」

似たもの同士だから嫌いあう。
自分の心を相手に見られているようで、戸惑い、
まるで自分を見ているようで苛々とする。


「「恋しい。とてつもなく、恋しくてたまらない。」」


過去に想いを馳せて、恋焦がれる。
今は手に入らぬ感情に、胸うちひしがれる。
その恋は壊れてしまっているのにも関わらず。
俺も彼女も、
昔の想い人に心を奪われたまま、固まったままだ。
動けないで居る。

「慶次様。」

アスカは呟くように言う。
大きな瞳が俺を見つめ、その瞳は表情に似合わず、大きく揺らいでいた。
熟れたような赤い唇がゆっくりと動く。

「そんな瞳で、私を見ないで下さい。」

俺がどんな表情で彼女を見ているのか、分からない。
でも、きっと。
きっと、今の俺は彼女の影に
ねねを見ている。

「どんな女かは分かりませんが、私の影に違う女を・・・」
「いい女だったんだよ。ねねは。」

下向きに秀吉のことを愛して、誰にでも優しく出来て、
笑顔が綺麗で、俺のことも大切にしてくれた。
俺の初恋の人。
遠くでねねが幸せなところを、秀吉と幸せにしているところを、見ているので俺は充分だった。
それ以上も以下も、何も求めない。
無償の愛。
それを彼女に捧げることが出来れば、俺は幸せだったのだ。
と言って俺はアスカに笑顔を向けた。
だが、アスカは平然と言い放つ。

「まつ様が仰っておりました。慶次様は無理して笑っていると。」

何でもお見通しってわけか。
今、俺が無理してアスカに笑顔を向けているってことも。
アスカに向けていた笑顔は行く宛ても無く、歪んでゆく。

「そんなに恋しいのですか?今もなお恋焦がれるほど。」

俺は包帯が巻かれた手でアスカに手を伸ばす。
彼女はその手から逃げることなく、頬に触れることを許してくれた。
白い肌に触れる。
弾力がある感覚が、俺の五感を僅かに刺激した。

「ああ。今も、愛おしくてたまらない。彼女の愛情が他人に向かっていようが、ねねが幸せならばそれでよかった。それで。」

強張ったアスカの表情は、彼女が今、何を考えているのか教えてはくれない。
他人の恋話しを聞いて、彼女は何を思っているのだろう。
何を感じているのだろう。
人形の様な固まった表情が一瞬、崩れた。
アスカの口元が小さく微笑んだのだ。
その唇に俺は親指を宛がう。
ふっくらとした唇。
男の唇を知らぬだろう唇。
彼女との距離が縮んでゆく。
俺が距離を詰めてゆく。

「行く宛ても無い恋は、どうしてこんなにも苦しくなるのだろう。どうして、こんなにもせつなくなるのだろう。」
「それはきっと、」

アスカは俺の問いに答える。

「それはきっと、その恋が叶わぬ恋だからですよ。」

か細いアスカの身体が、俺の中にすっぽりと納まる。





   * * *





慶次様が私を抱きしめた。
だが、それは私を抱きしめたのではなく、ねねという女を抱きしめたのだ。
私という女の身体を使って。
彼の気持ちが痛いほど、伝わってくる。
私も知っている痛みが、
痛い、痛い、と伝わってくる
私の心臓が痛いほど脈打った。
このまま、心臓が破裂してしまうのではないだろうか、と思ってしまうほど。
ああ。
ああ。
何故だろうか。
血の臭いがする今夜は、喋らなくても良いことを話そうとしてしまう。
昔の古傷を自ら、穿り、滅茶苦茶にしようとしてしまう。

「・・・・・・私は利己的主義者なのです。」

唱えるように言う。
私は利己的主義者なのだと。
他人の幸福も、不幸も、何も考えず、己の損得だけを考える人間なのですと。
そして、私は醜い、醜い、罪人なのですと。
慶次様がまた力を込めて抱きしめた。
今度はねねと言う女を抱きしめたのではなく、彼は私と言う女を抱きしめた、気がした。

「私は罪人なのです。」

背中を誰かに抱きしめられた感覚に襲われる。
君が今、私の後ろに居るだ。
愛しい、愛しい君が。

「先ほどの侵入者、先ほど、慶次様に怪我を及ばせた相手は・・・」

私は腕をつっぱって、慶次様を自分から引き離した。
彼の眼差しは眩しい。
私のとは大違いだ。
対して私の眼差しは死んだ眼差し。

「・・・・・・薬師六丸は私と同郷の忍び、伊賀流の忍びです。」

私と同じ地に生まれた忍びなのです。
膝の上の夢吉が寝返った。
私の二つの穴は、瞳は、もう涙は流さない。
涙など流す資格は、ないのだ。

「同郷の忍び・・・?何故、命を狙いに―――」
「伊賀の忍びの中に仲間を売る、裏切り者が居たのです。」

今度は私が慶次様に手を伸ばす。
彼の頬に手を伸ばす。
発色の良い彼の肌は、健康そのもの。
眼差しも、声色も優しさでつつまれている。

「伊賀流の里は滅びました。何故、滅んだかご存知ですか?」
「ああ。伊賀の忍び達が信長公に謀反を働いたとかいう理由で、織田軍が進軍したってゆう話だろう?」
「ええ。伊賀の忍びの一人が織田信長公に伊賀の団結が衰えたことを報告し、侵略を進言しました。そして、その忍びの思惑通り、伊賀流の里は滅び、逃げ延びた忍び達も徹底的に探し出され、次々と打ち首の刑に処されています。」

声が震えてしまう。
怖い、怖い、己の中の鬼が来る。
眠っていたはずの記憶の中の、鬼が。

「その伊賀の裏切りの忍びは、きっと伊賀流の里が憎かったのでしょう。自分独りでは里は潰せない。ならば織田と言う勢力を潰そうと思った。」
「アスカ、もしかして・・・」

この目の前の海の様な絶望の裏に、まだ愛が残っているのならば、それは君への愛情。
麗しき、
麗しき、
我が想い人への愛情。

「そう、私が里の裏切り者。自分の生まれ故郷を売った忍びなのです。」

自分の利徳しか考えていないどうしようもない人間。
だから薬師六丸は私を殺しに来たのだ。
己の仲間、里の復讐のために。
膝の上の夢吉がまた畳みの上へ落ちる。
私は立ち上がった。
そして飾られている三味線を取り上げ、座る。
抱えた三味線の弦を押さえ、叩いた。
すると張り詰めた矢のような音色が部屋中に響いた。
畳に落ちた夢吉が慶次様の肩に登る。

「・・・・・・弾けるのかい?」

慶次様は静かに問いかけた。
静かに、眼差しを私に向ける。

「密偵として芸者になりすます程度なら。」
「充分じゃないか。」

私は瞳を閉じる。
閉じた先に広がるのは闇。
ずっとこの闇が私を覆い隠していた。
ずっと、ずっと。
また三味線の弦を叩く。

「話しを聞かせてよ。アンタの生きた道には恋がある、愛がある。」

今、私はどんな表情を浮かべている?
きっと強張ったままだろう。
しかし、それでよいのだ。
私は貴女を想っているだけで、充分なのだから。
麗しき、
麗しき、
私の姫よ。

「私の恋は、男女の間の愛情にも、姉妹の間の愛情にも、友人の間の愛情にも、家族の間の愛情にも、似ていているが、否なるもの。」

ベベンッ―――
三味線の弦が鳴る。

「だけど、とにかく愛していた。その人のためならば、」

ベンベベン―――

「死んでもいいと思っていた。」






(昔むかし、忍びの里に忍びに守られし、姫がおりました。)



続く
Grimoire
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -