堕罪
第一話 風来坊と忍び



細い女の腕を引く。
森の中で。
息を切らせながら。
女の手を引く。
逃げているのだ。
死から逃げている。
忍び寄ろうとしている死から逃げているのだ。
手を引く女が、樹の根に躓いて倒れた。
か弱い女に山歩きは厳しい。
逃げることに限界を感じながらも、逃げなければならない。
この女を守らなければならないから。
この人を守りたいから。
ならば、守るとは何。
この女にとって本当の”守る”とは何。
ああ、そんなこと貴女は言わないで。
現実を見せないで。
本当は気づいていたこと。
本当はずっと前から、分かっていた。


自分懐の鞘から、女は小太刀を引き抜く。


それはまるで、すべてが色褪せた映像のよう。
それはまるで、
まるで、
自分のことのようには思えない出来事。
だけど、地面に這うように広がる紅は鮮明に目に映る。




脳裏にまだ残る紅。
私が前田軍の忍びとして迎えられたのは、能登の首領である前田利家様と主である織田信長公との間で行われる情報交換を円滑に行うための密偵として、だった。
言うなれば、私は織田軍と前田軍との間を行き交う文みたいなもの。
情報を持って私は両軍を行き来することが多く、しかもその情報は殆どが内密にする必要があるため、忍びである私の力が試されるものが多かった。
尾張と能登との間で敵の忍びに狙われ、死に掛けたことも何度もあり、何度も闘ってもきた。
しかし、その宿命のような仕事も、すべては織田信長公が私を信用して下さっているからであり、行くあても無い私の実力を買って下さった奉公すべき主君であるのだから、我慢もできた。
そんな中、前田軍に腰を降ろした一番の理由になったのが、まつ様が私を気に入ってくれたからだ。
もともと前田軍には、くの一が一人も居ない。
それを濃姫様は悲観視して私を前田軍に贈ることを信長公に申し出て下さった。
しかしそれは、私にとってそれはどうでも良いことであり、
あまり興味も意味も無いことだった。
私の仕事内容は相変わらず、両軍を行き来することであり、どちらの軍に属そうが変わらない。
奉公すべき人たちも変わらない。
私はされるがまま、晴れて前田軍の忍びになったわけだ。
しかし、前田軍の忍びになったのと同時に、私の仕事である両軍との情報交換は目に見えるほど、少なくなってしまった。
仕事の回数も減り、手空きが多くなった私に目を光らせたのは誰でもなく、まつ様である。
もともと、まつ様は私を気に入っていたのだからしょうがないことであるが。
自分が暇なときは、まつ様の侍女として、まつ様のお手伝いをさせて貰うようになった。
まつ様のお手伝いは日の出と共に始まる。
すべての家事を自分で行おうとしているまつ様を手伝わなければならないからだ。
料理に洗濯、掃除。
仕える私ですら、まつ様は完璧なお方だと感じるほど、家事をきっちりと行う。
そして昼も過ぎれば、茶とせんべいを囲いながら愚痴と利家様の惚気を聞く。
一方的にまつ様は話すのだが、口下手な私には丁度良く、聞いていて面白い。
日が落ちれば、夕食の準備と杯の準備。
私が忍びだったことを忘れるほど、平凡な一日を送るのだ。





   * * *





前田利家様には甥が居る。
前田慶次。
風来坊で神出鬼没な男であり、前田の家臣の頭を常に悩ませる男。
特に叔父にあたる利家様に対しての悪戯は酷く、まつ様も困り果てていた。
そんな彼は家出もよくするようで、家を出ては京の都に通うらしく、風の噂で騒ぎを起こしている話をよく聞く。
しかし、ここまでは私の忍びとしての観察で知ったことであり、
私が前田軍に仕えるようになって一度も、前田慶次という男に近寄ったことが無い。
避けているのだ。
理由は、と聞かれると正直、困る。
それはただ、生理的に受け付けない、それだけだったから。
恋だの愛だの語るあの言葉と行動が気に入らない。
きっと私と彼との価値観が分かり合えることなど、ないであろう。
分かり合いたいとも思わない。
そんな私がこともあろうことか、

「慶次様を連れ戻すはめになるとは・・・・・・」

頭を抱えつつ、私は京の都に居た。
京の煌びやかな街並みは私の様な人間には似合わない場所だと、今更ながら悟る。
なにより、慶次様を連れ戻す大役。
他の家臣、まつ様や利家様が行えばいい。
私に連れ戻すことなどできるのだろうか。
考えるだけで頭が痛い。
頭が痛いのは慶次様のせいか、それとも京の街並みのせいか。

「すみませんが、慶次っていう、デカくて、派手な、肩に猿を乗せている可笑しな男を知りませんか。」

と居酒屋に入り聞き込み調査。
まつ様が言うには艶やかな場所か居酒屋で聞き込みをすれば、すぐに見つかるらしい。

「慶次か?慶次なら・・・―――」

と何度目かに聞いたとき、居酒屋の亭主は目を泳がせた。
私は黙って亭主の言葉を待っていると、亭主の言葉を能天気な声が遮った。
トトトと私の足元を去るが駆ける。
・・・この猿。

「そりゃぁ、たぶん。俺のことだな」

振り返ると目の前には、目が痛くなるような冴えた色の着物。
ゆっくりと眼差しを上げてゆくと、不敵な笑みを浮かべた前田慶次が居た。
すると足元に居た猿、夢吉がまるで木に登るように慶次様の肩に駆け登っていった。
この風来坊。
ここで見逃すようなことがあったら、また探さなければならなくなる。

「―――って酷い言いようだな。俺ってそんなにおかしい?」

とふざけながら問われた問いに答えることなく、私は彼の衿を掴み、居酒屋から引きずり出した。
突然な出来事に辺りの者は目を見開く。
一番、驚いたのは慶次様であって、両腕をまるで子どものようにジタバタと暴れ出した。
それでも私は彼を引きずったまま、京の街を歩く。

「ちょ、ちょ、ちょ、アンタ何者だ!?確か、まつ姉ちゃんの・・・!?」
「今日は、まつ様と利家様の命により、慶次様を連れ戻しに参りました。」
「――・・・侍女?」
「忍びです。」

慌てふためく慶次様を引きずったまま歩くのは、どうも目立つ。
彼自体が目立つのだからしょうがないのか。
人通りが少ないところで、やっと私は慶次様を解放した。
もちろん、逃げ出さないように目を光らせたままだ。

「そんなに怒った顔ばかりしていると、眉間の皺が残っちゃうよ?」
「なら、本家にお戻り下さい。」

それは出来ないといわんばかりに、慶次様の顔が歪んでゆく。

「京の街はいいだろ?こう、長居したくなっちゃうっていうか・・・」


言い訳を白い目で私が見つめていると、慶次様は両手を合わせて肩を落とした。
思わず、私の口からは溜息が漏れてしまう。

「ごめん!もう少し、遊ばせてくれよ。面倒なんだよな、あそこに戻ると。」

と片目を閉じて慶次様は言った。
こんな口車にのってやるものか、と私は彼の頬を抓った。
いででと慶次様の口から零れ、顔が歪む。

「ひでぇじゃねぇか!!?」

叫ぶように言う慶次様とは裏腹に、夢吉は頬を抓る私の腕を伝って、トトトと私の肩に乗りかえった。
友に裏切られたような表情を慶次様が浮かべるのは言うまでも無く、
私は彼の頬を抓るのをやめた。

「夢吉はもう、本家へ帰りたいようですが?」
「裏切るのか!?夢吉!!」

慶次様に夢吉は一度鳴くと、私の頬に頭を摺り寄せた。
どうやら夢吉は私の肩から降りたくないらしい。
私の肩の上で一度、二度、跳ねる。

「一緒に戻って頂きます。」

夢吉が私の肩に乗っている以上、慶次様が逃亡することは無いだろう。
私は早く家路に戻るため、呆然と立ち尽くす慶次様を残して歩き出す。
慌てた慶次様はその後を溜息混じりについてきた。







京の都の街並みは煌びやかで派手だ。
この街ならば、今までの歴史の様な出来事が起こってもおかしくないと思う。
面白いように私に懐く夢吉を肩に乗せながら私は街並みを進んだ。
後ろには慶次様がとぼとぼとついてくる。

「あら、けーちゃんじゃないぃ?」

と言う女の声で私は始めて後ろを振り返った。
すると慶次様を取り囲むように煌びやかな女が三人。
きっとすべて慶次様の女であろう。
綺麗な着物に、甘ったるい声。
寒気がする。

「けーちゃん、こんな所でどうしたの?」
「もしかして、アタシ達に合いに来てくれたのかしら?」
「今から遊びに行きましょう?」

一方的な女達の言葉。
しかし慶次様は嫌な顔一つせずに、対応してゆく。
その姿は慣れたもので、きっと沢山の女を愛でてきたのだろうと想像させた。

「いやぁ、今、補導されちゃっているところなんだ。これが。」

と慶次様は私をちらりと横目で見つめた。

「あら、誰?その女。」

慶次様の視線に気づいた女が嫌な顔を浮かべる。
私だって好きで彼を連れ戻しに来たわけではないと口が滑りそうになったが、堪えた。
夢吉が私の顔を覗きこむ。
可愛らしい頭を撫でてやった。

「ああ。まつ姉ちゃんの侍女。 アスカ っていうんだ。」

私はまつ様の侍女ではなく、忍び。
それよりも、慶次様が私の名前を知っていたことに驚いた。
一度会った女の名前は忘れません、というやつだろうか。
慶次様を囲む女の顔がどんどんと歪み、厳しいものになってゆく。
私は溜息を一つ吐くと、また背を向けて歩き出した。
夢吉を私に取られている慶次様は慌てて女達を振り切って私についてきた。

「私の名前、知っていたのですね。」

私の横を歩き出した慶次様に放つ。

「ああ。アンタはまつ姉ちゃんと利のお気に入りだからね。」

だから知っていたのか。
だが、忍びに気に入りも何もないだろう。
横を歩く慶次様の京での人気は思った以上に高いらしく、道を歩くだけで至る人たちが声をかけてゆく。
武将には人望は必要だ。
この人はそれを持っている。

「アンタもいい顔立ちをしているのだから、もう少し着飾ってもいいんじゃない?」

何を考えているのか、突然、慶次様は言った。
思わず、私は自分の緋色の着物を見つめてしまう。
ずっと昔に濃姫様に頂いた着物だ。
着古した着物。

「私は忍びです。」

だが、私は忍びだ。
私よりもずっと高い身長の慶次様を睨む。

「着飾っても意味がありません。派手ではいささか、目立ってしまいますので。」

と言うと慶次様は今日、一番の大きな溜息を吐いた。
夢吉が思わず、慶次様を見上げてしまうほど。

「 アスカ は恋をしたことがないだろ?顔に出ているよ。」

顔に出ている?
私は忍びなのだから、感情など表には出さない。
ただの言いがかりだ。
恋だの、愛だの、
慶次様に言われる筋合いはない。

「そんなに顔に出ていますか?」
「ああ。バッチリと。」
「なら、慶次様も―――」

やはり、私はこの人とは分かり合えない。
価値観が違うのだ。
人に対しての価値観が。
今まで慶次様とは距離を置くようにしてきた。
それは、恋や愛に夢を見るこの人が阿呆らしく見え、それを口に出してしまいそうだったから。
そして常に苛立ちを覚えていた。
この世に夢見るような恋も愛も無い。
あるのは現実世界だけなのだから、夢など見てはいけない。

「先ほど女達と戯れている時、心ここにあらず、でしたね。」

慶次様の目がギョッと私に向く。
その眼差しが次第に鋭く、怒りに満ちていくのを横で感じた。

「女達の向こう側に誰を見ているかは、分かりませんが・・・哀れみで女と付き合うのはお止めなさい。」

「恋に恋してどうなさるのです?」

夢吉が私の肩を離れ、慶次様の肩に戻ってゆく。
この猿も私に愛想を尽かせたか。

「どうやら、俺とアンタは気が合わないらしい。」

私と慶次様は両極端の場所に居る。
相容れることは絶対に無い場所に。
慶次様は大きな溜息を吐くと私から、一歩下がった場所を歩き出した。
もう話す言葉は無い。
見つからない。
能登までの道のりはまだ遠く、道中は始まったばかり。
口数が多かった慶次様も黙ったままだ。





続く

Grimoire
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