Grimoire
第十四話 Tabula Smaragdina:エメラルド・タブレット
『局長!局長!』
インテグラルへの直通電話が鳴り、20番地から25番地に張られた結界の外で待機していた部隊から伝達が伝えられる。
ウィネの胸ぐらから手を離し、インテグラルは窓の外を睨んだ。
『局長!燃えています!いったい何があったんだ!?突然、炎が!うわああああ!!』
分隊の伝達が途切れる。
窓から見える20番地から25番地がまるで炎の海に飲まれたように紅く燃えていた。
まるでその炎は意志を持っているように燃えている。
先ほどのも沈黙が嘘のように辺りは騒々しくなっていた。
この様子ではきっと辺りに待機していた部隊も、中へ潜入した部隊も全滅だろう。
インテグラルは奥歯を鳴らし、歯を喰いしばる。
「結界が破られた。シトリーが負けたのね。・・・これも運命のとおりというわけ、か。」
ウィネは平然と呟くが、唇を喰いしばって眉間に皺を寄せていた。
何か決心したのか、ウィネは慌しく動き出す。
書斎に居る誰もが彼女の行動に目を丸くしたが、ウィネは静かに淡々と動き回る。
「お前は本当に予言だとか、運命だとかを信じているのか。」
インテグラルが問う。
するとウィネはコランの日記をインテグラルに半ば無理やり手渡した。
「この日記にすべて書かれている。これを読み終わった後にすべてが分かるわ。アスカのことも、予言のことも。すべて。」
それからこの現状を考えればいい。
と言うとウィネは鼻を鳴らし、辺りを見回した。
インテグラルにウォルター、セラス、ベルナドット、そしてアーカード。
王立国教騎士団の主力たちだ。
「アスカは必ず、ここへ戻って来る。わたしを殺すために。わたしの魂を手に入れるために。71の悪魔の名を持つ吸血鬼たちの魂と、666の魔女たちの魂を連れて、ここへ戻って来る。」
ウィネはインテグラルの名を呼び、鋭い目つきで睨んだ。
「貴女がわたしを見捨てるのならば、見捨てるがいいわ。だけれど、わたしは死にたくは無い。」
そしてウィネは首に十字架のネックレスを垂らした。
銀色の十字が輝く。
そんな彼女の姿はシスターだった。
「わたしは闘うの。あの女と。」
両親を失った少女は吸血鬼に育てられた。
長い歳月を生きてきた吸血鬼は博識であり、とても美しい女だった。
少女にとって吸血鬼は母親であり、父親であり、友であり、従僕であり、すべてであった。
ウィネは鞄から赤本と青本を取り出し、広げた。
「何をするつもりだ。」
インテグラルは問う。
「悪魔に魂を売ったキリスト教徒の戦いよ。」
プランシー家の戦い方。
ウィネは口角を上げて笑った。
「すでにドラキュリーナはこの屋敷に無数のトラップを仕掛けているはずだわ。それが発動するまえに潰す。」
ウィネはゆっくりとインテグラルの横を歩き、ソファーの備え付けになっているテーブルを引っくり返した。
何事かと目を開くとテーブルの裏には魔方陣が描かれていた。
「これは。・・・あいつはいつの間に。」
それを見たアーカードが関心をした声をあげた。
アスカが書いた魔方陣がそこにある。
誰にも気づかれずにアスカは魔方陣をインテグラルの書斎に書いていたのだ。
誰にも気づかれずに。
インテグラルにも、アーカードにも気づかれること無く。
「オルガの輪。まじない。」
その魔方陣はくっきとはっきりと描かれていた。
光る様子も動き出す様子も無い。
しかし、それはまだ発動していないだけであり、沈黙を保っているだけである。
ウィネは赤本を取り出す。
「赤本、第146章第14段落5行目。」
ページを開くとウィネはインテグラルに差し出した。
「これは魔道書・ドジアンの書。プランシー家の当主たちが人生の全てをかけて書き綴った魔道書たちの一冊。わたしたちは、吸血鬼も悪魔も化物も何一つ、倒す力は無い。だけれど、わたしたちには888年の知識がある。どんな者よりも、どんな人間よりも、吸血鬼と悪魔と魔女と化物の知識はある。」
ウィネが指差すページには、アスカが机に書いていた魔方陣と同じ絵が描かれており、こと細やかに魔方陣の効力、対処法が書かれていた。
「きっとこの魔方陣は屋敷のいたるところに書かれているはずよ。効力は―――」
「『我は死者を統べる者なり』」
ページに書かれた魔方陣の解説をインテグラルが読んだ。
そしてインテグラルは険しい表情のまま、ウィネを見つめる。
「屋敷がアスカの食人鬼で溢れちゃう。」
ウィネが舌をぺろっと出して、笑った。
しかしすぐにその表情も鋭いものに変わってしまう。
「魔方陣の効力を向こうかするためには魔方陣を書き換えなければならない。しかし一度、書かれた魔方陣は魔女にしか書き換えるができない。」
「なら、どうするつもりだ。」
「わたしはプランシー家の当主よ。プランシー家は悪魔に魂を売り、悪魔と通じて知識を得てきた。」
ぱたん、とウィネは赤本を閉じる。
手にはチョークが握られていた。
「魔方陣を書き換えることなく、魔方陣を書き直す。しかし、それでは魔方陣の効力を無効化したわけにはならないし、ただの魔女の真似事にしかすぎない。だけれど魔方陣の力を半減させることはできるはず。」
インテグラルはじっとウィネを見つめた。
彼女の真っ直ぐな瞳に思わず、インテグラルが視線を逸らしたくなってしまう。
彼女は本気なのだ。
本気で自らの吸血鬼と戦おうとしている。
「・・・セラス、ウォルター。ウィネを手伝ってやれ。」
セラスとウォルターが目を丸くしてインテグラルを見つめた。
そしてウィネも驚いたようにインテグラルを見つめる。
インテグラルは鼻を鳴らし、口角を上げた。
「返事は?」
「・・・は、はい!」
「承知しました、お嬢様。」
二人は有無も無く、インテグラルの言葉を承諾したが、ウィネは首を傾げた。
どうして、とウィネが問うがインテグラルは答えない。
変わりにベルナドットに命令を下した。
「ワイルドギースを集合させ、武装させろ。」
「本当にこの女の言葉を信じるんですか?予言だとか、まじないだとか・・・」
「ここは何処だ、ベルナドット。」
半信半疑に問うベルナドットにインテグラルは鋭い視線を与えた。
しかし、ベルナドットの言葉の真意にもインテグラルは良く理解している。
まだアスカが本当にウィネを殺そうと考えているのか、疑ってしまう。
ひょっとしたらウィネの狂言かもしれない。
だがウィネの瞳に当てられると、彼女の言葉が本当のものだと思ってしまうのだ。
しかしそれは、インテグラルがそれほどにアスカという吸血鬼に脅威を感じているからかもしれない。
「ここは王立国教騎士団。化物たちの吹き溜まりの場所だ。物語に出てくるような吸血鬼も居れば、吸血鬼ハンターも居る。」
「だから、何があってもおかしくないってことですかい?」
インテグラルの言葉にベルナドットが鼻を鳴らして笑った。
「了解しましたよ、局長。」
金を払っている間は裏切らない。
それが傭兵部隊・ワイルドギースだ。
インテグラルはウィネに渡された日記を眺める。
コラン・ド・プランシー。
地獄の辞典の著者。
その男の日記だ。
「インテグラ。」
呼ばれたのでインテグラルは顔をあげた。
するとそこにはウィネの満面の笑みがあった。
「ありがとう。」
満面な笑み。
彼女の笑みをインテグラルは久しぶりに見た。
すべての始まりはすべての終わりのために。
すべての終わりはすべての始まりのために。
アスカは美術館に居た。
イギリスに来て初めて吸血鬼を殲滅した時に訪れた美術館だ。
事件があって間もない美術館は、未だに閉鎖されている。
人の気配は感じられない。
アスカは一枚の絵の前に佇んでいた。
その絵は名画・黄道十二宮の天使。
それは堕天使たちのおぞましい絵画だ。
偽神・プセウドテイ、嘘つきの霊・スピリトゥス・メンダキオルム、不法の器・ウァサ・イニクィタティス、犯罪の復讐者・ウルトレス・スケロルム、奇跡の模倣者・プラエスティギアトレス、空の軍勢・アエリアエ・ポテスタテス、中傷者・クリミナトレス、悪の誘惑者・テンタトレス・マリゲニー、犯罪者・マレフィキ、背教者・アポスタタエ、不誠実な者・インフィデレス。
そして、復讐の女神・フリアイ。
アスカは絵画を見つめ、絵画に嘆いた。
月光が天窓から差し込み、アスカを照らす。
まるでそれは劇場の舞台のようだった。
「フリアエ。私の女神よ。もうすぐだ。もうすぐ。」
すべてを燃やしたよ。
すべてを燃やし尽くしたよ。
村も、裏切り者も、お前の両親もお前の兄弟もすべて燃やしたよ。
もう何も無い。
もう何も。
私の魂はずっとずっと昔に燃えて消えてしまった。
あの日の晩に、私の母親と共に私の魂は消えてしまった。
私は何者か。
私は何者であるのか。
「私は魔女だ。魔女になる。あの日の晩にすべてが燃えて終ってしまった。時計の針が燃えて、時間が止まってしまった。」
吸血鬼は跪く。
絵画の堕天使たちが吸血鬼を嘆くように、アスカを見下ろしている。
哀れな哀れな吸血鬼。
己の存在も認められない吸血鬼。
お前は化物なのだよ。
お前は吸血鬼なのだよ。
魔女ではない。
人間になどは戻れない。
堕天使たちが謳っている。
「それを押し進めるときがやっときたのだ。私はもう独りじゃない。」
鴉が鳴く。
鴉が羽ばたく。
舞う翼。
舞う羽。
黒い羽が吸血鬼を包む。
「私の100年間。」
「ウィネさん!ここにもありました!」
セラスが声を上げた。
その声にウィネが返事をすると、捲られた絨毯の裏をセラスと共に覗く。
「これで34個目ですね。」
ウィネとセラス、ウォルターは応接間に居た。
アスカが隠し残している魔方陣を探し回ってすでに33個を見つけ、ウィネが魔方陣に白いチョークで×印をつけて回る。
この様子だとまだ魔方陣が残っていそうだ。
「よくもまあ、アスカ様もこれだけ誰にも気づかれずに魔方陣を書いて回れましたね。」
「放つのは簡単よ。回収をするとなると面倒なだけであってね。」
ウォルターの言葉にウィネは小さく溜息を吐いた。
その姿にウォルターもつられて溜息を吐いてしまう。
インテグラルと幼馴染であるはずのウィネだが、性格も体格も正反対なウィネがインテグラルと同じように吸血鬼退治などできるはずがない。
ウォルターはウィネの小さな背中を眺めながら、インテグラルの出方を考える。
本当にアスカと闘うのだろうか、と。
闘うとなるときっとインテグラルは心を痛めるかもしれない。
何故ならば、彼女もまたアスカを慕っていたからである。
「あ、綺麗なネックレス。」
セラスがウィネの十字架の首飾りと一緒に首から提げているネックレスを指差した。
ネックレスのチェーンには指輪が通されている。
シンプルな指輪ではあるが、とても綺麗な輝きを放っている指輪であった。
「綺麗でしょう?」
ウィネはその指輪を掲げてセラスに見せた。
「誰からかのプレゼントですか?」
「ええ、まあ。」
ウィネの表情が曇る。
その表情を前にしてセラスは慌ててウィネに謝った。
「ごめんなさい!聴いちゃいけないことを・・・」
「いいのよ。」
そのウィネの反応と笑顔にウォルターは、やはり彼女も大人の女だと再確認した。
「これはわたしの大切な人からのプレゼントだったの。」
ウィネは次ぎの部屋に向うために立ち上がり、歩き出す。
その後ろをセラスは慌てて追いかけ、ウォルターもそれについてゆく。
「でももう、その人はこの世には居ないのだけれど。」
とても寂しそうに指輪について話すウィネはとても美しい女であった。
「本当にアスカを殺すのか。」
インテグラルは書斎のソファーに座り、コランの日記をしてずっと思案を続けていた。
ウィネの言ったとおりにアスカを殺すのか。
彼女は吸血鬼だ。
こちらには充分な大義名分がある。
しかし、アスカはウィネの従僕である。
そんな考えをずっと巡らせ続けていた。
アーカードはインテグラルの横でずっと自らの主を眺める。
「まだ分からない。分からない。」
日記を読めばすべてが分かるとウィネは言っていた。
「お前が求めれば、私はアスカを殺せるぞ。私ならアスカを殺してやれるぞ。」
口角を上げてアーカードは言った。
それは悪魔の囁きでもあった。
「あんなにもアスカと親しくしていたのに、か。」
インテグラルはアーカードの顔を見ずに問いかけた。
アーカードは楽しそうに高らかに笑い、鼻で笑う。
「ああ、何故ならば私は化物であるからだ。そして彼女もまた、化物だ。」
インテグラルにはアーカードの心の中など読めなかった。
吸血鬼の心など人間に読めるはずがない。
本当にお前にアスカが殺せるのか。
インテグラルは今一度、問いかけたかった。
「アイツはとても貪欲で哀れな化物だ。潔癖でありすぎているのだ。己の穢れも受け止められずに居る。」
「400年間も?」
「自ら進んで堕ちた者と、強制的に堕とされた者とでは雲泥の差がある。」
「お前は一体、どのくらいまでアスカの心を覗いたのだ。」
初めてインテグラルとアーカードの視線が重なる。
紅い瞳がにやりと笑い、歪んだ。
「吸血鬼の血は反吐の味がする。だが、アスカの血は別だ。奴の血は悲しみと憎しみと自虐の念の味がした。」
「それが美味くて、心の奥まで覗いたという訳か。」
インテグラルはもう一度、コランの日記に目をやる。
アスカの心の奥がこの日記の中にある気がしたのだ。
悲しみと憎しみと自虐がこの日記の中にある気がする。
アーカードはインテグラルの座るソファーの背に凭れかかった。
「アスカは本当にウィネを殺しにここへ戻って来ると思うか。」
インテグラルが問う。
「ああ、アイツは戻って来る。何故ならばアスカは寸分の狂いも無く、コラン・ド・プランシーの予言を信じているからだ。」
耳が痛くなるほどの静寂。
大きく深くインテグラルは深呼吸をした。
そして、コランの日記を手に取ると表紙を開き、1ページ目を開く。
今から100年以上も前に書かれた日記はとても重厚で重苦しい雰囲気を漂わせて、1ページ目の一行目からその日記は始まっていた。
『1830年4月18日。天候は極めて良好。バチカンの命により、本日よりフランスのロワール地方へマルセイユから馬車で向う。なにやら60年以上もバチカンの討伐隊やハンターを諸共しない吸血鬼が居るらしい。今回も数名、神父を送り込んでむらしいが討伐できる希望は極めて薄い。しかし、私にはもって来いの話しだ。私は聖水と白木の杭に変わって、紙とペンを持って討伐隊と共に向う。』
to be continued...
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