1999年8月1日16時26分

がちゃがちゃ、と鍵穴にスペアキーが差し込まれ、ぐるりと回される音がする。かちり、と鍵が開いて、ドアノブが回される。わずかに開いたドアは、チェーンロックに阻まれて、乾いた音を立てて静止した。予想外の展開だったのだろうか、あら、という戸惑いの声が漏れる。困ったわねえ、と後ろを振り返った気配がして、伸ばされた指先はインターフォンを鳴らした。

ぴんぽーん

何時もだったら鳴らす機会すらないインターフォンの音が八神家に鳴り響く。わずかな隙間からリビングに向かう小さな影があった。インターフォンに設置されている応接機はリビングに設置されているのだ。カメラから撮影されるかくかくの画像と、遅れて聞こえてくる来訪客の声。誰が来るか分からないから、まずはここで確認してから玄関に出るのが普通なのだ。ぺたぺた、というスリッパの音が近付いてくる。リビングの扉が開かれ、パジャマ姿の光が真っすぐに玄関に向かってきた。


「お帰りなさい、お母さん、お父さん!」


ずっと待っていたお父さんとお母さんの帰宅である。山田さんによればミーコが脱走してしまい、それを追いかけてマンションからパジャマ姿で出て行ってしまう、というトラブルはあったものの、そのあとは大人しく眠っていたらしい光は、ずいぶんと元気になっているようだった。お隣さんに頼んでいたとはいえ、病み上がりの小学校2年生の女の子が心配で、真っ先に帰ってきた二人は顔を見合わせて安どのため息である。すっかり顔色が良くなっていて、赤みを帯びている。血色がよさそうだ。それに熱も引いているらしく、足取りは軽やかでふらつくそぶりも見せない。サンダルに履き替えて、チェーンロックを外した光は、ただいまって笑いながら帰ってきたお母さんに抱きついた。お父さんはドアを閉めると、リビングから廊下にやってきたジュンを見て、かるく会釈した。光はよっぽど寂しかったのか、お母さんにべったり張り付いて離れない。まだまだ甘えたい盛りの8歳の女の子である。さみしかったでしょう、ごめんねってお母さんは光の頭を撫でた。そして、うるんだ目じりをぬぐいながら、光はえへへって笑いながらスリッパに履き替えた。お母さんとお父さんが靴をそろえてスリッパに履き替える。ジュンはちょっと後ろに下がった。マンションの玄関は狭いのだ。大人が二人すれ違うのも気遣いが必要になってしまう。お母さんは申し訳なさそうに頭を下げた。


「ほんとにごめんね、ジュンちゃん。山田さんと本宮さんから話は聞いてるわ。せっかくのお休みなのに、光の面倒を見てくれてありがとう。ジュンちゃんにはジュンちゃんの予定があったでしょうに……ほんとにごめんね」

「え?あ、あはは、気にしないでください。どうせ今日は暇だったし、寂しそうにしてる光ちゃん見てたら、ほっとけなくて、アタシが勝手にお世話を焼いてただけですから」

「ありがとう、ジュンちゃん。ほんとうに助かったわ、ありがとね。ほら、光もお礼をいいなさい」

「はあい。ジュンさん、ありがとうございました」

「ううん、いいのよ、気にしないで。それより光ちゃん、まだ風邪をひいてるんだから、ちゃんと寝てなきゃだめよ?ひとりになっちゃだめだからね?」

「はあい」


こくり、とうなずいた光に、ジュンはいい返事ねって笑ってうなずいた。じゃあ、アタシはこれで、ってスリッパを脱いだジュンは、スリッパを重ねて定位置に戻すと、隅の方にそろえて置いてある靴に履き替え始めた。とんとん、と爪先を叩いて、きっちりとかかとまで通す。これでよし、と玄関を踏みしめたジュンを、八神家のお父さんが呼び止めるので振り返った。差し出されたのは、ケーキ屋さんのロゴが入っているビニル袋だ。


「ジュンちゃん、よかったら、これ、今回のお礼に持って帰ってくれないか?」

「えっ」

「せっかくだから持って帰ってちょうだい、ジュンちゃん。これ、おいしいのよ。お義母さんのお見舞いの帰りには、いつも買って帰ってるものだから味は保障するわ。わたしたち、4人家族だし、ジュンちゃんに断られちゃうと食べきれなくなっちゃうのよ。だから、ね?」

「あー……そういうことなら、ありがとうございます。なんかすいません」

「いいんだ、気にしないで。もともと山田さんのお家にも渡すつもりだったんだ、ジュンちゃんたちの分が増えただけだから大したことないよ。ジュンちゃんのお母さんによろしく伝えてくれるかい?」

「はい、わかりました。じゃあ、すいません、失礼します」


どうやらシュークリームのセットのようだ。思わぬお土産を持たされたジュンは、八神さん一家に会釈して、ドアを閉めたのだった。らっきい、と心の中でつぶやきながら、ジュンは本宮家のマンションに向かって踵を返したのである。









「ただいまぁ!」


リビングのインターフォン応接機にでるまでもなく、玄関の扉越しに大輔の大声が響き渡る。お隣さんにまで響き渡る威勢のいい声を制止する気配がない。ドアにかかった鍵を開ける気配もない。ただ家にいる人に鍵を開けてもらう気満々でジュンの名前を呼んでいる。お母さんいないの?もしかして。苦笑いしながら玄関に向かったジュンは、チェーンロックを開けた。ドアを開けるなり、聞いて聞いてって顔をしている大輔が飛び込んでくる。お母さんがいない。どうやらエレベータから出た瞬間、よーいどんって感じでお母さんを置いてきぼりにして、全速力で走り抜けてきたらしい。はあはあ、と息を切らしながら、元気印の弟はジュンを見上げている。


「お帰り、大輔。はやかったじゃない」

「ただいま、お姉ちゃん!ねえ、聞いてよ、ジュン姉ちゃん!今日ね、サマーキャンプ、中止になっちゃったんだ!」

「え、そうなの?なんで?」

「雪、雪が降ったんだよ、夏なのに!すっごい雪がふってね、辺りが真っ白になっちゃったんだ!いつまでたっても雪がやまないから、サマーキャンプ中止になっちゃったんだ。僕、みたんだよ!オーロラ、12時くらいにね、オーロラが見えたんだ!誰も見えないって言ってたけど、太一さんたちは見えたっていってたし、それくらい寒かったんだよ!」


今日あったことを物凄い勢いでまくしたてる大輔は、ジュンが驚いた顔をする様子を見て、大満足といった様子でにっこりと笑った。それでね、オーロラっていうのはね、って同じバスに乗っていた光子郎から教えてもらったという話をそっくりそのままジュンに教えてくれる大輔は、まだまだ足りないと言った様子でしゃべり続けている。ジュンが驚いたのはもちろんサマーキャンプが大雪で中止になったことではない。デジタルワールドと現実世界が繋がるデジタルゲートを選ばれし子供である7人の他に、まだ選ばれてすらいないはずの大輔が目撃していたという事実に衝撃を受けただけだ。オーロラから7つの流れ星が見えた、と興奮気味に喋っている大輔は、凄いの見たわねえ、アタシも行けばよかった、って残念そうなお姉ちゃんを見て、うらやましいでしょ、えっへんって得意げである。大輔曰く、光子郎の隣の席に座っていた太一は、バスに乗った途端すぐに寝てしまい、大輔のおしゃべりに付き合ってくれる人が光子郎しかいなかったらしい。大輔がみたオーロラからおっこちた7つの流れ星の先が、光子郎たちが避難していたお堂だったこともあり、何か見たのか、と興味津々で聞いてくる無邪気なまなざしにさらされ続けた光子郎はご愁傷様である。きっと太一君、寝たふりして光子郎君に全部押し付けたわねって思いながら、ジュンはニヤニヤしながら大輔の話を聞いていた。信州地方にあるキャンプ場から帰る時、太一さんたちはみんなで集まって内緒話してるみたいだった、って大輔は不思議そうな顔をしている。もちろんそれについてもバスで光子郎につっこみをいれたらしく、しどろもどろだったらしい。光子郎は雪山の遭難で体調が悪くないかどうか、病院に行かなくちゃいけなくなったって大輔に伝えたようだ。なんか変な光子郎さん、って大輔は疑問符だ。なんとなく、で大輔はいつだって確信に近付いてしまうだけの直観力をもっているだけに、それをよくしっている光子郎は大輔の知らない難しい話を織り交ぜることでお茶を濁すことにしたらしい。嘘を言えば一発でばれてしまう。いつもの言動や態度、性格から相手を観察するのではなく、なんとなく、直感で違和感を嗅ぎつけてしまう大輔を誤魔化すには、嘘を混ぜないで意図的に真実を隠す方が向いている。おつかれさま、って今頃おうちに帰っているであろう光子郎に思いをはせつつ、ジュンは大輔をリビングに呼んだ。


「シュークリームだ!どうしたの、これ」

「光ちゃんのお見舞いに行ったら、光ちゃんのお父さんたちが帰ってきたのよ。お礼にってもらっちゃった」

「えっ、なんで!?」

「お母さんに頼まれてね。元気そうだったわよ、光ちゃん。しばらく寝てれば元気になるんじゃない?」

「そっかあ、よかった」

「ほらほら、手洗いとうがいしてきなよ、大輔」

「はーい」


つまみ食いしようとしていた不届き者の手をぱちんと叩き、手洗い場に促すと不満げに返事を返しながら大輔は消えていった。本当にしたのか怪しい速度で帰って来たものの、一応水が流れる音はしたし、手はほんのり濡れているのでよしとする。取り出したばかりのシュークリームを前に、いっただきまーす、と大輔は笑った。

2時間にもわたる退屈なバス移動、唯一の楽しみは子供会が用意してくれたビデオの上映である。ジブリ映画が見れる、と楽しみにしていた大輔は、ほんのちょっぴり不満そうだった。なんでもバスのビデオデッキが故障していたようで、映るのは映るのだが、白黒の映像がまじったり、砂嵐になったり、変な映像がうつり込むのでやめてしまったらしい。テレビもラジオもそんな調子だったため、とてつもなく退屈な移動時間だったという。始めこそ光子郎が話し相手になってくれていたのだが、途中からバスの中はみんな眠り始めてしまったため、大輔はひとり外を眺めて時間を潰していたようだ。散々な一日だった、と締めくくった大輔はふてくされている。大輔の手にはTUTAYAの蒼い袋がにぎられている。どうやらお母さんにねだってレンタルしてきたらしい。バスで見れなかった続きが見たい、とごねるのも無理はない。どうやらサマーキャンプの中止で暇になった数日は、ビデオ鑑賞に費やすつもりのようだった。

そっかあ、太一君たち、そのままサマーキャンプのバスからお台場まで帰ってきたんだ、ってジュンは思った。バスのテレビやラジオ。ビデオデッキが壊れたのは、バスの中に隠れているデジモン達のせいだ。デジモン達が傍にいるだけで電話がうまくつながらないのだから、何人もいれば電波障害が発生するのは当たり前である。最後まで壊れたままだった、って大輔は言った。光ヶ丘の休憩のあとも。それが意味するところはただひとつである。ゲンナイさんから捜索を依頼されるはずの8人目は、すでに光ちゃんだってことが分かっている。だから『デジタルワールドの冒険』のように、まだ見ぬ8人目を求めて、4年前の事件の手掛かりを光が丘に求めてわざわざ帰りのバスで降りる理由がないのだ。それなら、さっさとお台場に帰って、パートナーデジモンがいない光を守るために家に帰った方がいい。選ばれし子供たちが東京に繰り出す理由は、光のパートナーのデジモンを捜すため、に変更されるはずだ。この場合って、太一君はずっとお台場にいるのかしら?それとも、光ちゃんがついていくことになるのかしら?って思うが、さすがにそこまでは分からない。少なくても、ずっと光ちゃんがひとりぼっちになるよりはましなはずだ。ジュンは時計を見た。


「どーしたの、お姉ちゃん」

「アタシ、そろそろ行かなくちゃ。ほら、今日は百恵たちと一緒に夏フェスに行くって約束してるからさ、もう迎えが来るころなのよ」

「そっかあ、行ってらっしゃい」

「それじゃ、行ってきます」

「今日は帰って来るの?」

「大輔とお母さんがいるなら、百恵んとこにお泊りする必要もないしね、断って来るわ。たぶん、帰ってくるのは10時ごろになると思うから、ご飯はいらないって言っといて。どっかで食べて帰って来るから」

「はあい」


リビングに鎮座している旅行鞄を背負い、ジュンは大輔に見送られて本宮家を後にしたのだった。










「太一、もう大丈夫?」

「ああ、もう大丈夫だぜ、アグモン。出てこいよ」


大型バスの下の方を覗き込んで手招きする太一に呼ばれて、アグモンは這い出てきた。泥だらけだよ、とアスファルトで突っ伏していた不満を溢しながら、体についた石ころをはらった。仕方ないだろ、と太一は肩をすくめる。ゴマモンとパルモンは丈とミミのリュックが大きかったから、なんとか入ることができた。だからバスの荷物置き場に潜り込むことができた。パタモンは小さいし、ツノモンは幼年期だから、キャンプ場で買ったお土産のぬいぐるみだと言い張ればなんとかなる。問題はどうやってもリュックに入らないアグモン、ピヨモン、テントモンだった。結局、バスの屋根にしがみついて、なんとかここまで来たのである。バスが止まると同時に飛び降りて、上手く身を隠していたアグモンを連れて、太一は担任の藤山先生に捕まらないように大きく迂回した。目指すは解散場所である臨海公園近くの茂みである。


「あ、きたきた。太一、こっちだ」


太一とアグモンに気付いた丈が声を上げる。選ばれし子供たちとデジモン達は、太一を除いてみんな集合していた。どうやら太一が一番最後のようである。


「よかった、よかった、てっきりバスから落っこちたんじゃないかって、みんなでひやひやしてたんだ。テントモンもピヨモンも空を飛べるけど、アグモンは完全体にならないと空を飛べないからね」

「大丈夫だよ、丈。僕にはこれがあるからね」


鋭い蹄をかざしたアグモンをみて、あーあ、と丈は帰路についた大型バスを見上げる。天井に穴が開いてなけりゃいいんだけどね、とつぶやかれた言葉は溶けていった。


「ごめんごめん、藤山先生にばれないように遠回りしてたら遅くなったんだ」

「ま、仕方ないわよね、太一が迎えに行ってあげないと、アグモンもいつ出てきていいんだかわかんないし、迷子になっちゃうもの。臨海公園は広いしね」

「そーいうこと。で、どうすんだよ、これから」


太一の問いに、パイナップルマークのノートパソコンを起動させている光子郎が応えた。


「今のところ、ヴァンデモン達が暴れている、というニュースはないですね。光さんのパートナーがどこにいるのか、紋章がどこにあるのかは全く分からない状況です。これについてはゲンナイさんの連絡待ちじゃないでしょうか」

「とりあえず、ヴァンデモン達が東京で大暴れする前に、倒してしまうのがいいんじゃないか?」

「ああ、やっぱりそうなるんだね。せっかく東京に帰ってこれたのになあ、おちおち勉強もできないなんて」

「げっ!?嫌なこと思い出させんなよ、丈!そんなことより、オレたちにはしなきゃいけないことがあるだろ、忘れんな!」

「わかってるよ」

「ならいいけどさ」


さて、とすっかりみんないなくなってしまった臨海公園の駐車場をみた空が話をきった。


「とにかく、今日は一旦帰るしかないわ。みんな疲れてるし、うちの人を心配させるわけにはいかないしね」


そうでしょ?ってみんなを見回した空に、みんなうなずいた。


「これからどうやってヴァンデモン達を捜すか、行動するのは明日からよ。とりあえず今日は、ここで解散。朝の7時ごろにまたここに集合しましょう。それでいい?」


わかった、と返事が6つ揃う。空は笑った。じゃあ、また、明日ね。

タケルを御茶ノ水まで送り届ける、ということで、ゆりかもめに向かったヤマトとタケルとはここでおわかれである。のこりの5人はお台場に向かった。現実世界では朝の9時に出掛けて、夕方の4時に帰ってきたばかりのシーリアお台場の高級マンション群を前に、ミミは半泣きだった。みんなが明日のことについて話し合っている間、ずっと心あらず、って感じだったのも無理はない。あたしのおうち、とつぶやかれた言葉に、そうねって空は返す。現実世界では7時間ぶりに帰宅する我が家でも、デジタルワールドの一日が現実世界の一分という時間の感覚がくるってしまうような大冒険をしてきたのだ。ミミ達にとっては半年ぶりの帰宅になる。キャンプ場に帰って来たばかりのころはわかなかった実感がようやくわいてきたミミは、パルモンを連れてマンションに向かって走っていった。ばいばい、空さん、また明日!っていう言葉が空に返ってきたのは、ミミがマンションに消えていく間際のことだった。この付近に住んでいる丈とも別れを告げて、空は太一と光子郎と共に帰路を急ぐ。

目が覚めた時、周りは雪景色だった。デジタルワールドに旅立つ前にふった豪雪だとすぐに思い出せなかった空たちは、山の中の祠から外に出た時、もう現実世界は冬になっていると錯覚を起こしたのは無理もない話である。山の上の祠からキャンプ場に降りた空たちは、藤山先生や友達と再会して、ようやく1999年の8月1日だと気が付いた。たった2時間しか経っていなかったのだ。驚きと喜びが湧き上がってきた空たちを待っていたのは、2時間も豪雪の中遭難していた子供たちを心配する大人とトモダチたちである。8月の夕焼けに照らされるお台場を見渡しながら、空はまっすぐにマンションに向かって歩き出した。踏み出す足の速度が速くなっていく。交差点の手前で空は太一に声をかけた。太一のマンションは、この交差点を渡って右に渡ったところに立っているのだ。


「じゃあ、また明日ね、太一」

「おう、じゃあな。そうだ、一応、光を連れて行こうと思うんだけど、いいかな?」

「光ちゃん風邪をひいてるんでしょう?大丈夫なの?」

「たぶん大丈夫だと思うんだけどなあ、結構元気そうだったし。さすがに一人にはできないだろ?でも、完全体になれるやつがいないとこの先不安だしさ、おれが抜けるのもどうかと思うんだよ。まあ、様子を見てってとこかなあ」

「そうね、太一は光ちゃんと一緒にいた方がいいってゲンナイさんもいってたし。じゃあ、一回私の家に電話してくれる?出てこれそうかだけ教えてくれればいいから」

「わかった。ありがとな、空。また明日」

「うん、じゃあね!」


交差点の信号はまだ赤だ。足早にかけていった空と上空から追いかける鳥の影を見送った。


「あれ、光子郎はいかねえのか?空と一緒のマンションだろ、おまえ」

「空さんが帰ったら、にします。僕は一階だからいいけど、空さんは上層でしょう?もしエレベータが使えなくなったら困るんですよ。一応、テントモン達には窓から入ってもらうことにしますけど、念には念をいれないと」

「あー、そういえば忘れてた。また13階もあんのに、階段使わなきゃいけねーのかあ。めんどくせえ」

「あはは、仕方ないですよ、太一さん。光さんにも無理はさせないようにして下さいね」

「わかってるって」


信号機が点滅を始めた。


「そうだ、太一さん。ジュンさんにも手伝ってもらうことってできないですかね」

「ジュンさんに?何をだよ、光子郎。あの人、パソコンにはとっても詳しいけど、選ばれし子供じゃないんだぞ?迷惑かけらんねえよ。もしものことがあったらどうすんだ」

「それはそうですけど……今の僕たちに必要なのは、協力者です。デジタルワールドのことやデジモンのことを信じてくれて、太一さんをゲンナイさんに会わせる手伝いまでしてくれた人じゃないですか。ヴァンデモン達が東京で何を企んでいるのか分からない以上、ジュンさんに協力してもらうのは一番だと思うんです」

「そりゃそうだけどさー……」

「明日の7時に臨海公園に来てくれないか、連絡してもらえませんか?」

「なんでオレなんだよ」

「バスの中で寝たふりしてましたよね、太一さん。大輔君からの質問に僕がどれだけ苦労してたのか見てたのに、助けてくれなかったじゃないですか。酷いですよ、太一さん」

「……わかったよ」


はあ、とため息をついた太一に、光子郎はそれじゃあ、また明日!と笑ってマンションに消えていったのだった。あの野郎、とマンションを見上げて舌打ちをした太一は、あーあ、とぼやきながらようやく青になった横断歩道を渡ったのである。


「………あれ?」

「どうしたの?太一」


びくっとして振り返るとアグモンが茂みから出てきてしまっている。しーっあわてて人差し指を手に当てると、アグモンが口に手を当てて、わたわたとしながら茂みの中に飛び込んだ。変な声がした、とあたりを見渡す通行人をやり過ごすため、大慌てで遊歩道に設けられている茂みの中に太一も飛び込んだ。人目がなくなるまで木陰で涼む人のふりをする羽目になった太一は、じとめでアグモンを見る。ごめえん、とアグモンは肩をすくめた。がさごそ、ともう一度顔を上げる。遊歩道の向こう側にはシーリアお台場のマンション群が広がっている。はあ、とため息をついた太一は、ああびっくりした、と胸をなでおろした。


「どうしたの?」

「え?ああ、ジュンさんがいたんだよ」

「ジュンが?」

「あそこのマンションにジュンさん住んでないのに」

「ふうん、そうなんだ。でもなんでびっくりするの?おかしいことなんかないよ?」

「なんか気まずいだろ」

「なんで?」

「なんでってそりゃ……」


太一は言葉に詰まってしまった。それはきっと、いつもボーイッシュな格好をしていて、おしゃれとは無縁の女の子が、おしゃれをして女の子の格好をしているところにうっかり遭遇してしまった感覚とよく似ている。化粧映えするタイプの女の子は、やり方ひとつで化けるのだ。それを知らない女の子がお母さんや友人に手伝ってもらっておしゃれをするのと、それを知っていて映えるポイントを抑えたうえでドレスアップするのでは雲泥の差である。ただでさえ女性比率が深刻なプログラマー業界では、数合わせ的な意味で飲み会に声を掛けられる頻度は尋常ではなかったし、誰にでも合わせられるという稀有な性質を見込まれて大事な商談の宴会場に呼ばれることも多々あったのだ。20歳になるまで化粧に手を出す気は微塵もなかったジュンなのだが、いつもの自堕落生活を知っている親友がそれを見過ごすはずがない。夏フェスにノーメイクってどういうことよとマジ切れである。ちょっと忘れ物にも関わらず井之上家にお邪魔することになったジュンを待っていたのは、すでにスタンバイしている井之上家のお母様だった。着せ替え人形状態なのはいつものことにしても、マネキンにまで手を付けられたのは今回が初めてだった。散々抵抗しても結局かなうわけもなく、泣く泣くおしゃれに応じたのである。意気揚々としている親友にエスコートされ、井之上家のマンションから降りてきたジュンは、先に乗り込んだ百恵に促されて車に乗り込んだ。馬子にも衣装とはこのことか、と失礼極まりない発言をされて、さすがに怒ったジュンは、万太郎さんに抗議の声を上げたのだった。買ったばかりの新車が夏フェスの会場に向かって走り出す。そんなことを知る訳もない太一からすれば、彼氏いたんだ、という何とも言えない気まずさだけが残ったのだった。

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