1999年8月1日19時26分

光が丘の集合団地はまるで夜のように真っ暗だった。隙間なく空を覆い隠す雲のせいで、今日のお昼頃から一度も太陽の恩恵にあずかれない。ヴァンデモンが活動の拠点に据えたことで、闇を好むデジモンにとって、またとない住処に変貌しつつあった。ウィルス種しか入れない結界が張られているため、データ種やワクチン種のデジモンは入ることができないのだ。そして、普通の人間はそこを認識することができないから、近づかなくなるのだ。周囲は24時間ぼんやりとした闇に覆われている。許されたものだけがはいることができるその先には、ぐにゃりとゆがむ空間がある。石造りの城を思わせる苔生した回廊が出現した。陰気な雰囲気が漂っている、不気味な廃墟に続いている。闇を愛し、光を嫌うヴァンデモンが月が満ちる時まで眠りについている隠れ家がその先に存在しているのだ。一番奥の扉を開くと、焦げ臭い匂いがあたりに広がった。


「ぎゃあああああああああああああ!」


廃墟の主の悪趣味な拷問器具が陳列されている。彼はデータを吸収、破壊し、悪質なデータとして復活させる能力があるアンデットの王だ。どす黒く変色した血痕が染み付いている床や壁の先には、お仕置きを受けている使い魔の成長期がいた。棒に括られて磔にされ、火であぶられている。魔女裁判、異端審問を連想させるシルエットは、訪問者に気付いたもののそのまま続行している。大きな襟を立てたマントが揺れる。礼装が揺れる。ヴァンデモンは非常に残虐なデジモンだ。用済みになった部下は容赦なく自らの手で始末し、配下として復活させる。その繰り返しである。彼にとって使い魔は生死すら自由に扱える奴隷のようなものなのだろう。目は本気だった。ピコデビモンは本気で殺そうとしている主に冷や汗である。


「お許しください、ヴァンデモン様!」


必死で許しを請う。赤い仮面の男は笑っている。冷酷で無慈悲な笑みだった。ピコデビモンは、ヴァンデモンが一切許す気がないことを悟って青ざめる。あつい、あつい、とわめき散らす騒がしい騒音にご満悦の様子である。ゴムを焼いたような不快なにおいが広がった。


「紋章を奪うことが出来なかった上に、隠し通すとはどういう見解だ?」

「そ、それは、その、あの」

「愚か者が」


ピコデビモンの絶叫が響いた。ヴァンデモンは怒っているどころか嬉しそうである。愉しいのだ。恐怖におびえて、苦しみにゆがむ表情をみて、悲鳴を聞くのが楽しくて仕方ないのだ。悪趣味なことこの上ない。夜にならないと地上に繰り出すことができないいら立ちをこうして紛らわせていた廃墟の主は、ようやく気が済んだのか天井に吊り下げられている紐をひく。あれ、とピコデビモンは瞬きした。でっきり殺されると思ったのだが。パチクリしていると、扉の前で直立不動のママ壁になっているデジモンが、ヴァンデモンと密談をしたいと進言しているのが聞こえてきた。どうやら主の気まぐれで、何度目になるか分からない死亡と復活を繰り返すのは今回なしになったらしかった。釣鐘がうごく。がらがらがら、と鎖がのぼり、ピコデビモンのお仕置きが終わった。ぐったりとしているピコデビモンは、ひきつった笑いを浮かべながらヴァンデモンの翻るマントを見る。


「あ、あの、ヴァンデモン様、そろそろ解いてくださっても……」

「この程度で仕置きが済んだとでも思っているのか?」

「えっ」

「しばらく反省していろ」

「え、ちょ、あの、ヴァンデモン様、このままって、あの逆さまだと頭に血が上って、くらくらしてきたんですけど、あの、嘘ですよね!?ヴぁ、ヴァンデモン様あーっ!」


猛禽類を思わせる細くて鋭利な指先が、青白い額に垂れている金髪を掻き上げる。唇は弧を結んだ。扉の傍で待機していた待ち人を確認したヴァンデモンは、こい、と合図してヴァンデモンが寝床にしている一番奥の部屋に向かう。ピコデビモンの必死の懇願は完全無視で、ばたん、という無情な音が響いたのだった。

そこにはヴァンデモンが眠る棺桶が鎮座している。ヴァンデモンは、構成している吸血鬼を彩る数々の伝説から誕生したアンデット型デジモンだ。だからその伝承と同じ性質をしているため、ニンゲンに知られている弱点がたくさんある。それに抵触しないよう細心の注意を払っている。デジタルワールドの彼の居城と違い、現実世界は曇りであろうと太陽の影響は色濃い。夜にならなければ外に出ることができないのだ。でも、夜はヴァンデモンのものだった。その時が来るまで待っているのだ。無音の部屋である。ヴァンデモンは周囲に誰もいないことを確認し、そばにある巨大な鏡を見つめた。ヴァンデモンは写らない。かわりに傍にいる配下のデジモンだけがうつっている。


「お前がここにくるということは、だ。お目当ての人間が見つかったとみえる。そうだろう?」

「さすがはアンデットの王、お見通しというわけですね。ええ、そうです。いかにも。ワタクシがあなたと契約して配下に加わった理由はお忘れではないご様子、安心いたしました。さて、ではワタクシが申し上げたいことはご承知だと思います。あの女には手を出さないでいただきたい。あれはワタクシのものですのでね」

「ああ、もちろん、好きにするがいい。お前が召喚した魔獣は好きに使わせてもらうがな」

「どうぞお使い下さい。ワタクシが召喚した魔獣はあなたの手足として役立つことでしょう。デビドラモンの馬車をご用意いたしましたので、お食事の際はお役にたてるのではないかと思います。なにか御用事がおありでしたら、なんなりとお申し付けくださいませ。ワタクシはあの女のところに参ります。しばし、お暇をいただきたい。ワタクシの代わりにこやつが代役を務めますが故」


召喚されたのは、影だった。


「あなたのお望みの姿になります。こやつは特定の姿を持っておりませぬので、なんなりとご命令を」


ヴァンデモンはそれに目をやった。影はファントモンに姿を変える。たくさんのバケモン達を統括する司令官、幹部クラスの完全体の複製に姿を変えた。これで実質2体のファントモンがいることになる。オリジナルには闇の眷属たちの軍隊を任せることにして、こいつには護衛をさせるつもりだった。現実世界にいる子供たちの恐怖の象徴が実体化した伝説上の怪物、という情報から誕生したこのデジモンは、特定の姿を持たないらしい。ダークエリアから魔獣を召喚することができる彼は、ヴァンデモンから預かっている紋章をファントモンに手渡した。魔道の知識によって作成された紋章の複製は、その紋章の持ち主の近くに行けば反応する。ちなみにオリジナルの紋章の居所はヴァンデモンしか知らない。ファントモンは一礼して壁後ろの肖像になった。ヴァンデモンの命令がなければ、主を守る監視役として銅像の姿になるのだ。

ウィルス種しか入れないこの空間に、白い翼をもつ天使型デジモンの使い魔が存在しているのは、違和感しかない光景である。光の眷属を嫌うはずのヴァンデモンがこのデジモンを配下に加えた理由はただひとつ、このデジモンがもつ神聖なるデジモンの癖に隠しきれない邪悪な気配を感じ取ったからだった。ヴァンデモンは本能的に悟ったのだ。なにをトチ狂って天使の姿をしているのかは知らないが、このデジモンの本質はヴァンデモンと同じ闇の存在であると。そうでなければ、そもそもヴァンデモンがデジタルワールドで居城にしていたサーバ大陸の城には入れないはずなのだ。入ることができるのは、結界を破ることができる実力者、もしくはウィルス種のデジモンだけである。謁見を求めてきたこのデジモンは、そのどちらも満たしていた。天使の使い魔でありながら、ダークエリアから魔獣を召喚できる、天使型デジモンの生息するエリアから聖獣を召喚できるこのデジモンは、ヴァンデモンにとって優秀な同士だった。全身をギブスで拘束された姿をしている成熟期の魔獣型デジモンは、ガーゴモンと名乗った。このデジモンが望んだことはただひとつ、現実世界の進撃に同行させてほしいというものだった。実力は折り紙つきだった。今となっては、幹部クラスのデジモンである。

ヴァンデモンは鏡に触れた。ゆらゆらと波紋を描いて鏡が現実世界の光景を映し出す。そこにはガーゴモンが固執している女がいた。ガーゴモンが現実世界への侵攻に志願したのは、この女と会うためだというのだ。ヴァンデモンは目を細める。どこにでもいそうな子供だった。しかし、ガーゴモンにとってはそうではないらしい。


「選ばれし子供でもない、ただの子供ではないか。なんの存在価値もないと見えるが、なぜここまで執着する?」


ヴァンデモンが8人目の子供に執着するのは、デジモンを進化させることができる不思議な力があるからだ。触れるだけで幼年期のデジモンを一気に完全体のデジモンと拮抗する実力を備えた成熟期にまで進化させることができる。デジタルワールドにとって、まさに神の所業のような力である。デジタルワールドにとって、巫女ともいうべき存在だ。その子供を手中に収めることさえできれば、ヴァンデモンはその力を手に入れたも同然ということになる。選ばれし子供がもつデジヴァイスの機能は、その子供の力が元になっているのだ。ヴァンデモンの魔道の力をもってすれば、もっともっと恐ろしいことに使えるだろう。それこそ、その力を自由に行使できる兵器すらできるだろう。そうすれば、この世界も、デジタルワールドも支配することは可能である、とヴァンデモンは踏んでいる。利用価値があるから探しているのだ。

しかし、ガーゴモンが求めている子供は、なんのちからもない普通の子供にしか見えない。ヴァンデモンには全く理解できない領域だった。ガーゴモンはそうですねえとつぶやく。もっとも、顔の半分以上は黄金色のギブスで覆い隠されているので、わかるのは口元だけだ。光の眷属は共通して目元を覆っている。それは神の信仰にのみ従順であることを示している盲目の証である。闇の存在であるヴァンデモンは光の眷属を見るたびに、おろかなものたちだ、としか思えないのだが、自ら望んでその姿をしているガーゴモンはそんなヴァンデモンの様子が見えているらしい。ヴァンデモンはガーゴモンが同士だと知っている。光の眷属の皮を被った闇の存在であると知ってはいるが、その封印がとかれた時、どのような正体を現すのかまでは把握していなかった。謁見したのち、契約を持ちだした時点で悪魔、もしくは魔人型のデジモンだろうと目星をつけている。相手と契約を交わし、その順守を求める誠実さを持つのはそのデジモン達の共通の誠実さだったからだ。その契約を行使するためだったら、裁判まで行おうとするのが魔人型、悪魔型デジモンの共通点なのである。その契約は悪魔の契約、対価も生じるもの、悪徳業者のそれとよく似ているが、ヴァンデモンにとってはなによりも信じられるものだった。契約さえ履行すれば、絶対に裏切ることは無いのだ。ガーゴモン達にとって、契約というものはそれくらい重大な意味をもつ、それこそ命と同じくらいの価値を持つのだ。ヴァンデモンの問いにガーゴモンは微笑む。


「あの女はワタクシと契約を結びました、しかしこともあろうにあの女はその契約を一方的に破棄したのです。そして、ワタクシの前から姿を消した。いやはやこれで2回目ですよ。参りましたね。一度、この国ではない出身の男に24年にも渡って辛抱強く延滞された挙句契約を破棄されたことがありましたが、今回はそれ以上の年月が経ってしまいました。ワタクシが寿命を終えるまで発見することが出来なかったのは初めてです。ようやく発見したのは、もう何十回の転生を繰り返したのちのこと。逃がすわけには行きませんのでね」

「お前はずいぶんと自身を構成している情報、お前が誕生する元となったデータの影響を受けているのだな。記憶すら引きずられているとは難儀なことだ」

「それは少々違いますね。ワタクシはあの女でなければならないのです。そうでなければ、何のためにわざわざ別次元のデジタルワールドからこのデジタルワールドに移転してきたというのでしょう。あの女さえいればワタクシはどこだっていいんですよ」

「フォレストリーフ、だったか」

「ええ、あなたに忠誠の証として献上した異次元のデジタルワールドに移動できる証です。ワタクシがいた次元のデジタルワールドは、デジモンの爆発的な増加により、デジタルワールドの容量を超えてしまいました。ですから1つだった世界は複製され、3つになったのですよ。過去、現在、未来とね。それぞれの世界は独立していて、自由に行き来はできません。自由に行き来するターミナルはホメオスタシスの上位にいる存在を守護する者たちによって守られ、フォレストリーフはその保護下にありました。それを強奪した時点でワタクシはもうもとの世界には戻れないのですよ。むろん、ワタクシにはどうでもいいことですがね」


フォレストリーフ、と呼ばれる未知の物質で出来ているアイテムも、光の紋章と共にヴァンデモンが保管している。なるほど、お前にとってはあの女だけが存在意義というわけだ、酔狂な奴め、とヴァンデモンは不敵に笑う。ガーゴモンは恭しく礼をした。


「それでは失礼したします。ワタクシはそろそろ、あの女のところに行きますが故」

「ああ、好きにするがいい。お互いに不干渉、そういう契約だったからな」


ガーゴモンが鏡の向こうに消える。ヴァンデモンは鏡がなにも映さないことを確認して、マントを翻した。

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