まだ夏休みの真っ最中、バイトの帰りにあかりを家まで送る途中だった。他愛もない世間話を切りだすのと全く同じ調子だったから油断していた。「あ、そうだ」と前置いてあかりが名前を呼ぶ。 「ねえ佐伯くん」 「何だよ?」 「今日はハグの日なんだよ」 「……は?」 「だから、今日はハグの日なんだよ」 言うに事欠いてハグ。ハグってあれだよな? 多分、間違ってないよな。日本語で言えば、要するに抱きしめるって、そういう意味の単語。 ご丁寧に台詞を反芻してくれたボンヤリに言い返す。 「いや、聞こえてたから。……ハグの日って何だよ」 「ほら、8月9日だから、ハグ、だよ」 「……あー、語呂合わせ的なヤツか」 「そうそう」 こいつって、そういう情報が早いっていうか、イベントごとが好きだよな。能天気そうなニコニコ顔……いや、ニヤニヤ顔をじっと見つめてしまう。あかりはニヤニヤしながら、腕を広げて見せた。そうして、軽く小首を傾げて言う。 「はい、どうぞ」 「……何が、どうぞだって?」 「え、だからハグの日だから、どうぞって……」 何故か不思議そうにきょとんとした顔であかりは言う。『それ以外何があるの?』みたいな表情。何があるのって、ありありだ。あり過ぎて困る。つまり、問題が。 「アホかおまえは!」 「痛っ! ひどいよ! 何でチョップするの!?」 「何でも何もないよ! おまえがあんまりバカなこと言うからだろ!」 「ば、バカなことじゃないもん……」 チョップが痛かったのか何なのか、あかりの目が心持ち潤んでいた。……うん、そんな目をして見上げたって無駄だからな! ほだされて飲まれちゃダメなときもある。今がまさにそう。 「おまえ、自分が言ってる意味、分かってないだろ」 「意味って?」 「ハグの日だから『ハグどうぞ』って」 分かってないんだ。それがどんなに迂闊で危うい悪ふざけなのかってことを。ハグって横文字だしな。難しかったんだろうな。……勿論こいつのボンヤリ具合がそこまでひどいとは思ってないけど、でも、後先考えずに悪ふざけに走り過ぎてしまう傾向が、こいつにはあると思う。今がまさにそうだ。 あかりが心外そうに眉を持ち上げる。 「意味くらい、分かってるよ?」 「いいや、分かってないね。おまえはお子様だから、分かってないんだ」 「お子様じゃないよ!」 「いいや、お子様だ」 「そんなことないもん」 そう言ってむくれたような顔をしているから、まるで子どもみたいに見えた。分かってる。横を歩くこいつが子どもなんかじゃないことくらいは。子どもじゃないからこそ、簡単にハグとか、抱きしめるなんて、しちゃいけないんだ。でもあかりはそういう微妙な境界線があることを分かってない。つまり、中身はまだ半分くらいお子様で、それが問題だった。 「……なあ」 少しの悪戯心と、あと、お灸をすえてやりたくなったんだと思う。 「……何よ」 へそを曲げたようなむくれた声のままであかりが答えた。反応を試すような気分で言った。 「……俺はハグしないけど」 あかりが少し眉間に皺を寄せたままちらり、と見上げる。続けて口を開いた。 「ハグ、する?」 「え?」 はい、出た。お得意の『え?』。これはまあ、分かっていた反応。 「ハグの日なんだろ。だから…………どうぞ?」 言って、さっきあかりがしたみたいに両手を広げてみせた。あかりはというと、黒目がちな目を睫毛の先ほど見開いて見つめ返してきた。おお、驚いてる、驚いてる。そういう表情が見れただけでも意趣返しに成功した気がして、まあ、大方の気は済んだ。 ――なんてな、そう言おうとしたところで、小柄な体が胸に飛び込んできた。柔らかい鳶色の髪が胸元で揺れた。つむじがすぐ鼻先に見えていた。何かひどく柔らかいものが触れていた。ちょっと待て……。 「……お、おい?」 「……ハグ、したよ」 胸元に埋めていた顔を上げたあかりの頬は真っ赤に染まっていた。胴から腰にかけて、あかりの細い腕が回されていた。 頭の中に色んな言葉が渦巻く。そうやってくっつかれると、感触が直接伝わってしまう、だとか、何かいい匂いがする、だとか、人前でこんなこと……だとか、色々。でも、浮かんだ言葉はひとつも口からは出ていかなかった。黒目がちで、負けず嫌いそうな目が見上げていて、その目の色に吸い込まれそうだった。 ようやく口をついて出た言葉は率直な感想だった。 「おまえ、顔真っ赤……」 言い返すようにあかりが目を強めて言う。 「……佐伯くんだって、真っ赤だよ」 「ウルサイ」 大きく分けて二択、目の前に選択肢があるような気がした。ひとつは、あかりを押しのけて体を離すこと。もうひとつは、本当にハグしてしまうこと。 どう考えても前者が正解だったけど、何故だか手が動かなかった。かといって、あかりの背中に腕を回して、抱きしめることも出来ないでいた。 でも早く心を決めなきゃいけないのだと思う。ここは外だし、いつまでもこうしてる訳にはいかないし、直に夜がくる。選択を迫るようなあかりの強い目に誘われるように、引きこまれるように腕を華奢な背中に回した。一瞬強張った体の力が抜けて、腕の中に体を預けられた。あかりが小さく息をつくのを胸に感じた。釣られたように、俺も息をついた。何故だか、ひどく安堵している自分がいた。 2012.08.10 ハグの日(8/9なのですが)に寄せて(※間に合いませんでした) うーーーん、最後、上手く書けませんでした(すみません;;) こういうなしくずし的なのはちょっと大分非推奨かなーーーと流石に思います。すみません……。 [back] [works] |