「疲れた……」 瑛くんはすっかりお疲れモードだ。無理もないと思う。合同文化祭の企画が決まって以来、準備期間中に、そして当日にと本当に大忙しだったのだから。 瑛くんはごく控えめに言って方々から引っ張りだこ、大活躍だった。 文化祭前のラジオ放送のゲスト出演に始まり、珊瑚礁出張店のウェイター、演劇での大役、当日は飲食コーナーの中継まで、本当にたくさん、いろんな役をこなした。 その上、喫茶珊瑚礁の出張店で出すメニュー作りという裏方の仕事も。普段から勉強に珊瑚礁のアルバイトにと忙しい瑛くんだけど、文化祭の準備期間中はそれにも増して忙しそうだった。 「瑛くん、お疲れ様」 ことり。 瑛くんがほとんど突っ伏しそうになってしまっている机の上にカップを置いた。購買部でこっそり買ってきた珊瑚礁ブレンド。瑛くんは紙コップを見つめて、それからわたしの顔をじっと見つめた。 「……おまえにしちゃ、気が利いてるな」 「もう!」 折角持ってきたげたのに、と頬を膨らませたら、小さく噴きだされてしまった。笑いを堪え切れなくて、つい笑ってしまった、というような笑い方だった。今日の実況や先日のラジオ放送で見せていた余所行きの顔じゃない、素のままの瑛くんの笑顔だ。……もしかしたら、くつろいでいるのかも。それはそうかも。だって、いろいろなことがようやく一段落したのだから。 文化祭の後の教室の中にはわたしたちしかいない。他のみんなはというと、文化祭の打ち上げのダンスパーティーの最中だ。音楽に混じって楽しげにダンスを踊っているだろう、男子女子の賑やかな様子が微かに伝わる。この場所は、何だか隔離されたように静かだ。 瑛くんは確か、ダンスの申し出も引く手あまただったはずだけど、良いのかな。こんなところにいて。 「サンキュ。一応な」 相変わらず笑いの余韻を声に残したまま、瑛くんが手を伸ばしてきたから、思わず肩が跳ねそうになった。瑛くんの手はコーヒーカップの近くで所在なげにしていたわたしの手じゃなく(それはそうだ、もちろん)、ワインレッド色に花柄の、珊瑚礁ブレンドが入ったコーヒーカップを掴んで引き寄せた。 「う、ううん」 慌ててかぶりを振る。どうしてこんなことで動揺しているんだろう。きっと、この場所が静か過ぎるせいだ。 「どういたしまして、です」 口が滑って“ですます”口調になってしまった。瑛くんがまた噴きだす。 「なんで敬語なんだよ?」 「な、なんとなく……」 おかしいなあ、今日は何だか調子が変かも……。何故だか暑い気がする。もう暖房なんて、入っているはずもないのに。 瑛くんが、やっぱりくつろいだ表情で目を細めて言う。 「コーヒー、もらうな?」 「うん……」 瑛くんはコーヒーに口をつけた。わたしも自分用に買った飲み物を口元に運んだ。……この手の、テイクアウト用の温かい飲み物の小さすぎる飲み口って、少し苦手かも。油断したらヤケドしてしまいそうな気がするし。いっそのこと蓋を外してしまおうかなと飲み口と格闘していたら、瑛くんから声をかけられた。 「おまえもコーヒー?」 「ううん、守村くんの猫舌あつあつミルクティー、だよ」 すると、瑛くんは心なしか肩を落として前のめりになってしまった。 「……そこは珊瑚礁ブレンドにしとけよ。おまえだって珊瑚礁の従業員だろ」 「うーん、それはそうなんだけど……」 ぼやくように言う瑛くんに頷きながら、言葉を選んで答えていった。 「でも今日は折角だから、今回しか飲めないものを頼んでおきたかったんだ」 普段は珊瑚礁でアルバイトをしているから、珊瑚礁ブレンドの味は……うん、よく覚えていると思う。 だから、今日は今日しか飲めないものを飲んでおきたかった。 「……ふうん」と頬づえをつきながら瑛くんが言う。 「案外勉強熱心なんだな。……ちょっと見直した」 「“ちょっと”?」 「ああ、“ちょっと”な」 「もう!」 頬を膨らませた様子がおかしかったのか、瑛くんがニヤリと笑う。いけない、さっきと同じパターンだ。今日は瑛くんにからかわれてばかりな気がする。 背を伸ばして、首筋をさすりながら瑛くんが言う。 「でも、そうだよな。おまえの言うとおりだよ。普段店で出ないメニューも今日はたくさん出てたんだよな……全然、回れなかったけど……」 「あ、もしかしてコーヒーじゃない方が良かった?」 「ん? いや……」 お馴染みの珊瑚礁ブレンドが入ったカップを見つめて瑛くんはかぶりを振った。 「いや、良いんだ。今日はこっちのが落ち着く」 「そう?」 「うん……」 頷いて、瑛くんはコーヒーを口に運んだ。釣られたようにわたしもカップに口をつける。あつあつ、とあったけど、適度に冷めたのか、舌をヤケドしてしまうほどじゃない。温かいミルクティーを飲みながら、気持ちが落ち着いていくのが分かった。とても慌ただしい、忙しい日だったけど、大きなトラブルもなく無事に済んで良かったな……。 こうして二人で静かに温かい飲み物を飲んでいたら、だんだんと今日一日の緊張がほぐれていくような気がした。向かいの席に座る瑛くんも、同じ気持ちだと良いな、と思う。きっと一日、ううん、そのずっと前から、とても忙しそうだった瑛くんだけど、この瞬間だけは、一息つくことが出来ていたら良いな、なんて。 ふと、気がついたら瑛くんがわたしの方をじっと見つめていた。色素の薄い赤銅色の瞳と視線がかち合う。なんだろう? 何かな? 「…………」 あんまり見つめられると居たたまれない。わたしたち以外に人気のないせいか、教室の中も静かだし……。 「えと、瑛くん……」 「ん?」 自分のカップを掲げ持って訊いてみる。 「もしかして、ミルクティー、飲みたい」 ――のかな? 訊いてみたら、瑛くんは呆れたようにため息をついた。 「別にいいよ」 「そっか……」 「つーか、そんなことしたら、間接……」 何か言いかけて、ハッとしたように瑛くんは口元を覆った。どうしたんだろう? 「間接?」 「や、何でもない……」 「?」 そのまままた瑛くんは押し黙ってしまう。沈黙が重い。遠く、ダンスパーティの音がする。 「ねえ、瑛くん」 「……何だよ」 「ダンスパーティー、行かなくてよかったの?」 「行かなくて良い、あんなの」 「でも、瑛くん、いろんな人から誘われてたのに……」 「だからだよ。これ以上疲れるようなことしたくないから、良いんだ」 「そっか……」 そうだよね。瑛くん、今日一日忙しかったし、これ以上、パーティーでダンスなんて、大変だよね。うんうん、と内心で頷く。でも、何だろう、少し……。 「残念、かな」 「何が?」 瑛くんが片目を眇めて訊いてくる。 「瑛くんとダンスパーティー、出たかったなあって」 高校生活は一度しかないのだし。 瑛くんは人気者だから難しいかもしれないけど、一緒にダンスパーティーに出てみたかった。 瑛くんは呆けたように口を開けて「は?」と言った。ぱちぱちと何度か目を瞬きさせる。頬づえをついていた手も、頬から離れてしまっている。 慌てたように瑛くんが言う。 「おまえ、ダンスパーティー出たかったのか?」 「う、うん……」 「ごめん……俺、全然気づいてなくて……」 「え? ううん、いいの」 「今からなら間に合うかな」 そう言ってわたしを促して立たせようとする瑛くんを慌てて止めた。 「いいの、瑛くん」 「でも…………」 「瑛くんと一緒じゃなきゃ意味が無いから、いいの。ワガママかもしれないけど……」 「…………」 瑛くんは疲れてるから、ダンスパーティーに一緒に行ってもらうのは、申し訳ないし。 瑛くんが椅子を引いて立ちあがった。椅子を元に戻す瑛くんの長い指と、一歩、二歩、歩いて、わたしの席の横に立った瑛くんの足もとが見えた。顔を上げると、教室の窓から射す夕日の色に染まった瑛くんの端正すぎる顔が見えた。 「あのさ……」 「う、うん?」 「ダンスパーティー、ここじゃダメか?」 「え?」 「ここで一緒に踊るのじゃ、ダメか?」 むしろおそるおそる、という風に、瑛くんは言った。 一回、二回、ゆっくり瞬きをして、わたしは頷いた。 「うん、喜んで!」 「……そっか」 安心したように瑛くんが微笑んでくれる。 何も言わずに差し出してくれた手に、自分の手を重ねる。よく日に焼けた、瑛くんの褐色色の大きな手のひら……わたしの手とは全然違う。 手に手を取ってダンス。瑛くんは優しげに微笑んでいる。そうしていると、何だか本当に王子様みたい。まるで、童話に出てくる王子様のような。例えば、人魚姫をダンスに誘う、王子様みたい。 「瑛くん、王子様みたい」 「……勘弁しろよ」 わたしの手を引いて、空いたスペースへエスコートしながら、瑛くんは恥かしそうにぼやいた。逸らした顔の頬の高い部分が、心なしか赤く染まって見える。もしかして、照れてる、のかな? 思わず、小さく噴きだしてしまったら、「ニヤニヤすんな」と怒られてしまった。チョップは飛んでこない。両手がふさがっているから。 机を後ろの方へ寄せて、空いた教室の前半分の方へ歩いていって、わたしたちは向かい合って立ち止まった。 恥かしそうに、瑛くんはぼそぼそと言う。 「……笑うなよ。あんまり得意じゃないんだ、ダンス」 「だから、ダンスパーティーに出ないの?」 「違う」 即座に否定されてしまった。 「疲れてたからだ」 「……疲れてるなら、踊ってくれなくてもいいよ?」 「そうじゃなくて、人ごみが疲れるんだよ」 「でも……」 「いいからほら、踊るぞ」 「う、うん……」 遠くから聞こえるダンスミュージックに合わせてステップを踏む。瑛くんは確かに、こういうのが苦手みたい。足元に気を使いながら、おぼつかなげにステップを踏む。でも、構わないし、うれしい。瑛くんと一緒に踊れるなんて。 「あのさ……」 「なあに?」 「文化祭、楽しかったか?」 「うん、楽しかったよ」 二つ返事で答える。準備とか、当日もいろいろと忙しかったけど、とても楽しかった。いい思い出になった。高校生活の、かけがえのない思い出の一つに。 「そっか」と瑛くんが頷く。「俺も。楽しかった」 繋いだ手に、きゅ、と力を込めながら瑛くんが話す。 「最初は、嫌だったんだ。余計な仕事が増えるし、面倒だし……どんどん、余計な仕事、頼まれるし……」 「瑛くん…………」 「当日も当日で、メチャクチャ忙しくて、全然ほかの場所、回れなかったしさ……」 「そうだね……」 「でもさ」 ふと、瑛くんは口元を綻ばせて言った。 「楽しかったよ。準備も劇の練習も、当日のドタバタも、全部が全部大変だし忙しいしで、散々だったけど、過ぎてみるとさ、悪くなかったって思えてくる。高校生活の貴重な思い出だよ。そういうの、あんまり、積極的にしてこなかったから、分からなかったけど……」 「瑛くん…………」 瑛くんがそう思ってくれていたなんて。準備期間中も、本番中さえも、瑛くんはことあるごとに「面倒くさい」「忙しい」「何で俺が……」という風にぼやいていたから。 でも、知ってる。ぼやきながら、瑛くんは誰よりも一生懸命に仕事や準備をしていたこと。決していい加減なことはしなかったこと。それから……楽しそうだったこと。珊瑚礁の出張店の行列や、お客さんの笑顔を見ながら、実は嬉しそうだったことも、知ってるから。 「じゃあ……」 「ん?」 「これも、高校生活の思い出のひとつ?」 これ、と踊っているわたしたちを示すように目配せをする。 瑛くんは“うっ”と口ごもった後、不承不承、頷いた。 「ああ、そうだな」 「ふふっ!」 「……何だよ、ニヤニヤするなよ」 「してないよ〜」 「してるだろ。足踏むぞ」 「痛っ! ほ、ホントに踏むことないじゃない!」 「仕方ないだろ、ダンスが苦手なんだから……って、イテっ! おまえ、今のワザとだろ絶対!」 「仕返しだもーん」 「いい度胸だ!」 その後なぜか、甘い空気はどこへやら、ダンスと言うより互いの足を狙ったステップの踏み合いになってしまったけど、うん、楽しかった。何より、悪態をつきながらも楽しそうに笑う瑛くんの顔を見て、思った。 ――うん、いい文化祭だったな! 相変わらず悪態だらけだったけど手は繋いだまま、心から、そう思った。 2012.04.02 *おしまい! *文化祭、(本当に)お疲れさまでした(*^▽^*) [back] [works] |