プールを縦に一本線、真ん中から区切った向こう側で突然水しぶきが上がった。向こう側、つまり、男子側が騒がしくなる。釣られる様にして女子側も。 騒ぎの中心、発端ともいえる水しぶきの主がよく通る声で佐伯くんの名前を呼んだ。何が起こったんだろう、ということよりも、佐伯くんも騒ぎに関係していることに動揺してしまった。昨日から今日にかけて、気まずくて佐伯くんを避けてしまっている。名前を聞くだけで心臓が跳ねるなんて。どうしてこうなってしまったんだろう。 プールに落ちてしまったらしいハリーに佐伯くんが何か話しかけている。例の王子様スマイルで。プールの水面が太陽光を受けて、ゆらゆらと光が揺れていた。水面の照り返しを受けてその笑顔さえ眩しげ。小鳥のさえずりめいた女の子たちのヒソヒソ声が聞こえてくる。なぜだろう、さながら浮き輪から空気が抜けるように音を立てて胸が凹む心地。流石に本当に空気が抜けて凹むわけにはいかなかったから、代わりにため息をついた。隣りに座る西本さんの気遣わしげな「どうしたん?」という問いかけに向けて、取り急ぎ笑顔を作った。 「ううん、何でもない」 「そうなん?」 心配そうな声。本当に何でもないんだよ、こんなことは。ただもう、わたしの気持ちの問題であって、もういい加減に慣れっこになっていることなのだし。 なのに、今日に限ってどうしてこんなに堪えているんだろう。……理由なんて、分かりやす過ぎるくらい明白だ。昨日のことが堪えているんだ。 「それにしても、何してるんやろ男子……」 ぽつり、呆れまじりの声で西本さんが呟いた。「そうだね」と答える。何してるんだろう。佐伯くんも。……わたしも。 プールの水面の、白っぽい照り返しが愈々眩しすぎて目を背けた。対岸では騒ぎが続いている。収束する気配はまだ、ない。 ○ 見慣れたツンツン頭が今日は様子が違っていて、違和感。さっきのプールでの騒動のせいなのかな、と思う。いつもより大人しめに見える髪型のせいか、心なしか元気がなさそう。その背中に向けて声をかけた。 「ハリー」 「ん? おー、あかり」 「大変だったね、さっき」 ハリーは「あー……死ぬかと思ったぜ。マジで」とぼやいている。顔色が思わしくない。あれれ、ハリー、もしかしてプール苦手なのかな? わたしの視線に気づいたのか、ハリーが勢いよく頭を振る。 「べ、別に、泳ぎが苦手なんじゃねーぞ! あれは……あれだ、不意打ちだったからだ!」 「ふいうち?」 「佐伯の野郎、いつか絶対ツケ払わしてやる」 何気に恐ろしい台詞。それ以上に上がった名前に反応してしまう。佐伯くん、一体ハリーに何をしたんだろう? 「なんだ? ヘンな顔してんな、おまえ」 「へ、ヘンな顔!?」 思わず声を上げてしまう。頬を押さえながら「してないよ! そんなの!」と続けた。 「してるって。何つーんだ? 鳩が棒に当たったみてぇな顔してる」 「そんな表現聞いたこともないよ……!」 「は? あるだろ? つーか、普通に使うだろ?」 「使わない、ゼッタイ、使わない……」 ぶつぶつ続けると「ヘンな奴」とまで言われてしまう。うう、散々な言われようだ。視線を斜めに向けると、ハリーの手元が見えた。ワックスの缶を指先で転がしている。……そっか、髪の毛、整えに行く途中だったんだ、と今更ながら気づく。邪魔しちゃってるのかな、なら、そろそろ……。 お暇しようかな、と顔を上げたら、ハリーと真正面から視線がかちあった。思いのほか、真面目……ううん、真剣な目。さっきまでの気楽な調子が息を潜めてしまったみたいに。 「おまえ、佐伯と何かあった?」 「えっ」 それこそわたしは鳩が豆鉄砲で打たれたような顔をしていたに違いない。もしかしたら、鳩が棒に当たったような顔でもあったかもしれない。でもこのときは、さっきみたいに茶化されなかった。……茶化してくれた方がよっぽど良かった。 「……何も」 「ウソこけ」 ぴしゃり、遮られてしまう。……佐伯くん、ハリーに何か言ったのかな? でも、何て? 「海野さん」 背中から声をかけられた。……何てタイミングだろうと思う。真正面に立つハリーが「……げ」と呟く。わたしも呟きたい気分。……気分だけ、だけど。 振り返ると予想通りの人の姿がある。昨日から今日にかけて、意識的に避けてしまっていた人の姿。 「……佐伯くん」 「ちょっと良いかな?」 佐伯くんは笑顔だったけど、笑っていなかった。バイト初日、『ちょっと、ツラ貸し――』とか何とか、物騒なことを言われたのを思い出す。そのときと比べて、ほとんど変わりのない表情。あのときは突然バイト先に応募してきたことを怒っていた。でも今は、何だろう? 大体において、佐伯くんがわたしを名字に“さん”づけで呼ぶのは相当怒っている時ばかりだった。怒っている? 昨日のことを? 佐伯くんが? わたしはどんなに恐ろしい地雷を踏んでしまったんだろう。首筋が粟立つ心地がした。 「……佐伯くん、怒ってる?」 「別に? 怒ってないよ?」 笑顔。笑顔ではあるけど……。 横合いから、声が差し挟まれる。 「ウソこけ。この“不機嫌ぼっちゃん”」 「“不機嫌ぼっちゃん”?」 「針谷。おまえは関係ないだろ」 「うるせぇ。俺はもう二度と、プールに突き落とされるのはゴメンなんだよ! 何をこじらせてんのか知らねーけど、今ここで誤解を解け! そんで、さっさと機嫌なおせ!」 「針谷、おまえ、何言って……!」 「ハリー」 「あ? 何だ?」 「突き落とされたの?」 「は?」 「佐伯くん」 「何だよ?」 「突き落としたの?」 「は? 今関係ないだろ、そんなこと……」 「関係なくないよ」 向き直って、佐伯くんを見上げる。急に見上げたせいか、佐伯くんが少し言葉に詰まったようにのけ反った。 「関係なくない。もしそうなら、ちゃんとゴメンしなきゃダメだよ?」 沈黙。じっと見つめていると、ややあって、佐伯くんが小さく頷いた。首筋に手を当てて、呟く。 「………………ああ、そう」 「分かってくれた?」 「分かった」 ――よかった、分かってくれたんだ、と安心しかけた。でも、佐伯くんは不機嫌な声のまま、こう続けた。 「おまえ、針谷の肩持つ訳な?」 「え?」 「分かった。もういい」 ふい、と顔を背けられてしまう。まただ、取り付く島のない感じ。 「待って!」 声を上げた。佐伯くんが顔だけ振り返る。 「……何?」 「佐伯くん、ヘンだよ。昨日から、ずっと……何を怒ってるの? わたしが酷いこと言ったなら、謝るから」 「理由、分からない?」 「ちゃんと言ってくれないと分からないよ」 「ふうん」 佐伯くんが向き直る。 「昨日のことなんだけど……」 「昨日?」 「昨日、帰りにおまえ、誘ってくれただろ」 「うん」 「……なんで、プールなんだよ」 「えっ」 ――佐伯くん、そんなにプール嫌いだったんだ……。泳ぐの得意そうだったから、そうは思わなかったけど……。 晴天の霹靂を受けていたら、横合いから声が挟まった。 「なんだ、おまえもプール嫌いなのかよ?」 「一緒にすんな。“も”って何だ、“も”って」 「でも、そーなんだろ?」 「……分かったよ、佐伯くん」 「ん?」 「嫌いな場所に誘っちゃって、ごめんね?」 「ああ、うん……分かったなら、いいけど……」 「もう誘わないね……」 「はっ」 佐伯くんがぽかんと口を開けた。これこそ鳩が豆鉄砲を食らった顔というのかな、という模範的な表情。そんなことを考えている場合ではなかったけど。 「何で、そうなるんだよ!?」 「え? だって佐伯くん、プール嫌いだっていうから……」 「……まさか、他のヤツと行くのか?」 「えっ」 「ぶはっ」 吹きだす声。ハリーだ。 「何笑ってんだよ針谷」 「いやだって、おまえ、分かりやす過ぎだろ……!」 「ハリー、何のこと?」 「そんで、おまえは激ニブなのな」 ぽん、と肩を叩かれる。そのまま脇を通り過ぎて、佐伯くんに釘を刺すように何か言った。 「ま、喧嘩もほどほどにしとけよ?」 からかうように言われて佐伯くんが「ウルサイ」と言い返した。何だか、状況に置いていかれている気分だ。わたしはまだちょっと、笑う気分にはなれない。 佐伯くんが向き直る。 「とにかく!」 「う、うん?」 「俺はプールが嫌いだ」 「う、うん……」 「いいか? プール“が”だからな? 嫌いなのはプールだ。あくまで、プール“が”だ!」 「う、うん、分かったよ、佐伯くん……」 そんなに何度も言ってくれなくても……。幾らわたしでも分かる。佐伯くん、そんなにプールが嫌いなんだなあって。 「うん、分かったなら……よし」 そう言って、佐伯くんは小さく頷いた。予鈴が鳴る。ハッと我に返ったように佐伯くんが何度か瞬きをした。 「とにかく! そういうことだから!」 何かを仕切り直すようにそう言って、佐伯くんが脇を通り過ぎていく。行きかけて、もう一度、振り返った。わざわざ戻ってきて、言う。 「あと、誰かほかのヤツとプールに行くのは絶対ダメだ」 「えっ」 ――そんな理不尽な。 「ダメだからな!」と釘をさすように(実際、子犬に“待て!”をするみたいに、びしり、と指さしまでして)強く言われた。 どこかへ急いでいるのか、佐伯くんはそのまま補足説明もなく足早に去ってしまった。その広い背中を呆然として見つめていた。言えなかった台詞を遠くなっていく背中にぶつける。 「訳が分からないよ、佐伯くん……」 7/puppy love(幼い恋) |