そうして土曜日。飛び入りアルバイトの最終日。
ケーキ棚の整理をしていたら、お店の奥に引っ込んでいた西本さんがパタパタとやってきて、わたしに言った。

「あかり、あんた早く上がってもいいんやって!」
「えっ?」
「今日は早く帰らんへんと。店、閉まってしまったら、あかんやろ?」
「で、でも……」
「店長のお許しなら、もらったで」
「えっ」
「あと、これ。今日までのアルバイト代やって」

そうして茶色の紙封筒を差し出される。

「あ……」
「んん?」
「ありがとう西本さん……!」

思わず西本さんに飛びついてしまう。ぽんぽん、と肩を叩きながら西本さんが言ってくれた。

「いーから、お礼なら、店長に言うんやで?」
「うん!」

でも、きっと西本さんが店長さんにいろいろ言ってくれたんだよね? 西本さんには後でまたきちんとお礼を言おうと思う。封筒を受け取って、短い間、お世話になったアルバイト先を後にした。ちゃんと、店長さんにもお礼を忘れずに。





アナスタシアを出た、そのままの足でお店に向かう。事前に見当をつけておいた品物はあった。まだ、残ってるといいけど。と、言うより、お店、まだ開いてると良いけど……! 逸る気持ちで、足を急がせた。夏の日暮れは遅くて、まだ外は明るいけど、時間だけなら、もうとっくに夕方。急がなきゃ。





「西本さん!」
「あかり!? どうしたん?」

お目当てのお店に向かった足で、もう一度、アナスタシアに戻った。
レジに立っていた西本さんが目を丸くする。無理もない、ついさっき送りだしたばかりなのに、また出戻って来たんだから。

「まさか、店もう、閉まってたん……?」
「ううん、あのね……」

西本さんの耳元に口を寄せて、耳打ちをする。途端、西本さんが目を輝かせる。

「そんなことなら、お安いご用や!」

そうして、一週間前と同じ調子で、そう言ってくれた。





急ぎたいけど、今度は走らないようにして、目的地に向かう。いろいろ用事をこなしている内に、日が暮れてしまって、辺りは薄暗い。海の地平線が少しだけ、夕焼けの名残を見せて薄赤い。あとはもう、夜の色。空も辺りも、海も。海辺の灯台横、灯台のように、そこだけ灯りをともす喫茶珊瑚礁へ向かって歩いた。

――かららん。

おなじみのドアベルの音。音と一緒に、もう、耳慣れた声がする。

「いらっしゃいま……」

声は途中で急降下。尻つぼみになって、中空に掻き消えてしまう。視線の先で、珊瑚礁の制服に身を包んだ佐伯くんが何とも言えない顔をしてわたしの顔を見つめている。
それでも佐伯くんはプロ意識を発揮して、わたしを席に案内しようとした。近づいた佐伯くんに伝える。

「佐伯くん、ちょっとだけいいかな?」
「……悪いけど」

佐伯くんが声を潜めて言う。

「いま、あんまり暇がないんだ」
「……そう」
「少し、待ってて」
「えっ」

佐伯くんはわたしをカウンター席に案内した。内緒話をするみたいに、密やかな声で耳打ちされた。

「……またあとでな?」

お店の照明が逆光になって、佐伯くんの表情はあまり見えなかったけど。

「……うん」

こっそり耳打ちをした途端、佐伯くんは他のお客さんのところに戻って行ってしまったから、わたしの返事は聞こえていなかったかもしれない。けど……。

――佐伯くんの声、優しかった。少しだけ、笑ってくれていた気もする。はっきりとは、見えなかったけど……。

一週間、頑張ったのが、今頃堪えている気がする。一足先に、少し、安心してしまったせいかも。そうして、佐伯くんのそういう声を随分久しぶりに聞いた気がした。忙しくて、何だか余裕がなくて、気づかなかったけれど。





アイスコーヒーかホットコーヒー、どちらにするか迷って、結局、ホットコーヒーを選んだ。まだ外は蒸し暑いけど、日中に比べて大分暑さは和らいでいたし、それに、お店の中は空調が利いていたから、あまり暑さを感じない。
運ばれてきたコーヒーのふわんとした湯気に安心する。ホッと一息ついた心地。カウンター越しに、マスターさんから声をかけられる。

「お疲れのようですね」
「えっと、そうでもないです……」

自分ひとりで勝手にバタバタしていただけだし。それに……。

「今日は何だか、混んでいますね?」

きょろきょろと店内を見回す。お店の中は、そろそろ遅い時間帯にも関わらず、いつもよりお客さんで賑わっているようだった。特に女性のお客さんが多いみたい……。

「これはね、僕のミスなんです」
「え?」

マスターさんが仕方なさそうに眉を下げて笑う。……何だろう?

「マスター、シフォンケーキふたつ、です」

佐伯くんがマスターさんにオーダーを伝える。……佐伯くん? 何だか、少し顔色が悪いみたい。

「あの、マスター……」
「はいはい、何でしょう?」
「わたし、手伝います」
「そんなこと……」
「……いいから! おまえは座ってろ!」

佐伯くんがマスターさんの台詞を掻き消す勢いでわたしを引きとめた。ヒソヒソ声ではあったけど、有無を言わせぬ強い調子だった。わたしはというと、佐伯くんの勢いに押されて、思わず頷いてしまう。

「う、うん……?」
「今日は俺とマスターだけで大丈夫だから、おまえは何も気にしないように。分かったな?」
「分かった、よ?」

全く分からなかったけど頷くと、佐伯くんは安心したように頷きを返して、客席に戻って行った。その後ろ姿を呆気にとられて見つめながら、マスターさんに訊いてみる。

「……本当に大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫ですよ」

マスターさんがニコニコと笑いながら、頷く。「でも……」佐伯くん、あんなに疲れた様子なのに、と心配していたら、マスターさんが笑いながら言った。

「心配しなくとも、今日はもうじき店じまいですよ」
「えっ?」

でも、まだラストオーダーには随分と早い時間だ。どうしてだろう、と首を傾げていると、佐伯くんがまた戻ってきた。ケーキのオーダーを告げる。マスターさんが申し訳なさそうに返す。

「ああ、ケーキなら全部、さっきのオーダーでラストだったよ」
「……了解」

あれっ? 佐伯くん、少し嬉しそう。というか、お客さんに見えない位置で小さくガッツポーズしてた……。どういうこと?
どこか意気揚々とお客さんのところへ断りに戻って行く佐伯くん。そんな姿を呆気にとられて見つめていると、マスターさんが「ほらね」と言って口元を微笑ませた。……ど、どういうこと?





「つまり、個人情報がお客さんに筒抜けってこと」

あの後。
用意していたケーキが全部出てしまったということで、珊瑚礁はいつもより随分早い時間に閉店。簡単な戸締りだけ済ませて、佐伯くんはいつものアルバイト帰りと同じようにわたしを送ってくれている。
歩きながら、佐伯くんが今日の不思議な珊瑚礁の謎を種明かししてくれた。曰く……、

「随分前にさ、じいさん、客に聞かれて、俺の誕生日ばらしちゃって。それ以来、誕生日の日はケーキおごられまくってるんだ」
「そうだったんだ……もらったケーキは全部、佐伯くんが食べるの?」
「まあな……そうしないと、悪いし」
「そうなんだ……」

それで佐伯くん、顔色が悪かったんだ……。
手の中の紙袋の中身を思う。知らなかったとはいえ、これは余計なこと、だったかな……。多分、今日の佐伯くんはケーキなんて二度と見たくないはず。佐伯くんがため息を吐きながら言う。心底ウンザリしたような声で。

「正直、あと一週間はケーキ見たくないよ」
「そ、そっか……」

一日どころか、一週間だった。思わず下を見つめてしまう。「ん、どうした?」と佐伯くんが横からわたしの顔を覗き込む。「何でもないよ」と頭を振って見せる。佐伯くんは何か言いたそうに、視線を彷徨わせたのち、言った。

「それで、今日は何の用だったんだ?」
「え?」
「今日バイト休みの日だろ? 何か用事があって来たんだよな?」
「あっ、うん、あのね……」

持っていた紙袋を佐伯くんに差し出す。

「佐伯くん、はい、これ」

立ち止まって、佐伯くんが紙袋を驚いた様に見つめる。

「誕生日プレゼントだよ」
「…………俺に?」
「うん、そう」
「……そっか」

かさり、紙袋が音を立てる。受け取ってくれた佐伯くんに「ね、開けてみて?」と伝える。

「いいな、これ」

街灯の淡い光の下、佐伯くんが柔らかく微笑む。その笑顔を見た途端、この一週間の忙しさや疲れが吹き飛ぶ。頑張ってよかったなあって心から思えた。

「大事にする」

本当に大事そうに。噛みしめるように、佐伯くんは言ってくれた。灯りの下で、ガラスの人魚が光を受けて、キラキラと輝いて、とても綺麗。胸の奥がじんわりと温かくなる。

「そっちは?」

佐伯くんが、わたしの手元のもう一つの紙袋に気づいたのか、訊いてきた。わたしは『うっ』と言葉を詰まらせてしまう。実を言うと、もうひとつの紙袋の中身は、一週間こっそりとお世話になったアナスタシアのケーキだった。
プレゼントを買って、もう一度戻ったアナスタシアで、西本さんにお願いして、誕生日用のケーキを買ったんだ。ちゃんとバースデーカードまで添えて。誕生日なら、ケーキも一緒に……という、考え。とってもいいアイディアだと思っていた自分がうらめしい。まさか、誕生日の日の佐伯くんが珊瑚礁でケーキをおごられまくっているとは思わなかったので。ケーキなんて、向こう一週間は見たくもない、と思っているとは思わなかったので……。
いつまで経っても返事をしないわたしに痺れを切らしたのか、佐伯くんが先に口を開いた。

「……もしかして、ケーキ、とか?」
「えっ? う、ううん……!!」

物凄い勢いで頭を振ってしまう。佐伯くんが片目を眇める。物凄く疑わしそうに。……うう、バレバレかもしれない。

「ちょっと、貸して」
「あっ、だ、ダメ……!」

言葉空しく、紙袋の中身を見られてしまう。リボンに挟めるように添えられていたバースデーカードの宛名を確認して、佐伯くんが呟く。

「……嘘つき」
「だって、佐伯くん、ケーキ何か見たくないっていうから……」
「バーカ」

ぽすん。
つむじの辺りめがけてチョップをされてしまう。全然痛くない、手を乗せるだけのチョップ。
そのまま、しばらくの間、手を頭の上に乗せられたままだった。ぼそぼそと、小さな声が降ってくる。

「…………おまえからのは、特別なんだよ」

乗せられた手のせいで、よく見えなかったけど。
佐伯くん、街灯の暗い光の下でも分かるくらい、顔が赤かった……。

「……佐伯くん、お誕生日おめでとう」

佐伯くんの手の下で、言いたかった台詞を告げる。ずっと伝えたかった言葉。

「……うん。サンキュ」

手の向こう側、少し恥かしそうにくぐもった声で返答があった。




10/happy birthday,dear...(誕生日おめでとう、佐伯くん!)

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