あの話は、あれで片がついたと思っていた。けど、どうもそうじゃなかったらしい。 「あかり」 見慣れた茶色い頭を見かけたから、声をかけた。振り返ったあかりに言う。何でもない風を努めて装って。 「なあ、おまえ、いま帰り?」 「うん、そうだよ」 「なら……途中まで一緒に行くか?」 「えっ」 あかりの肩が跳ねる。というか、今の反応で、もう次の展開が分かった。あかりが眉を八の字に下げて見上げてくる。 「ごめんね、今日は用事があるから」 「ああ、そう………………」 「あの……佐伯くん、ごめんね?」 「別に。用事があるなら仕方ないだろ」 「う、うん……」 本当に、別に。気になんかしていない。昨日の今日で、断られたからって、別に。あかりだって本当に用事があったんだろう。まるで逃げるように駆けて行った。 その日はそう考えて納得していた。どうも様子がおかしい、と思ったのは、次の日も下校の誘いを断られたせいだ。 「今日も?」 「う、うん。今日もこれから用事があるから……」 「何でだよ」 「何でって言われても、用事があるんだもの」 「…………ああ、そう」 そうしてあかりはまた逃げるように駆けて行った。廊下の先で、西本と合流してた。一緒に帰るらしい。……用事があるって言ってなかったか、あいつ。それとも西本と用事があるのか? いずれにせよ、嫌な予感が頭を過ぎる。 ……もしかして、避けられてないか、俺? ○ 盛大に墓穴を掘った気がしなくもない、一昨日の昼休み。自分の意見は伝えたつもりだし、あかりも「分かった」と頷いていた。……多分、意図は通じたはず。……多分。いやでも、どうだろう、あいつ、相変わらず、結構ボケボケだし。もしかしたら、全部額面通り受け取っているのかも。もっとはっきり言ってやらなきゃいけないのか。けど、そんなのって……、 「恥かしすぎるだろう……」 「往来で独り言呟いてんのも、ジューブン、恥かしいだろ」 「…………針谷」 またこいつか。いつの間にか、隣りを並んで歩いていたツンツン頭を睨みつける。針谷は針谷で「ハリーって呼べって言ってるだろ」と抗議している。 「断る。つーか、人の独り言、聞いてんなよ。趣味悪いぞ」 「聞こえたんだから仕方ねーだろ」 「……地獄耳」 「まあな!」 針谷が得意げにふんぞり返る。……いや、褒めてないし。 「何か用か?」 「別に。肩落としてボーっと歩いてるからよ。何してんだって、気になっただけ」 「別にボーっとなんかしてない」 「してたんだよ。悩みがあんなら、乗ってやるぜ? ただし、タダじゃ乗らねぇけど」 「絶対、相談しない」 タダじゃ乗らないって何だ。つーか、こいつ絶対、人のことからかって面白がってるだろ。そんな奴に相談に乗ってもらいたい奴なんかいるか。 「元気出せよ、不機嫌ぼっちゃん」 「不機嫌じゃないし」 「あー、それにしても暑いな、今日!」 「人の話、聞いてないし」 「アイス食いてー」 針谷の言葉通り、暑い日だった。夏場の日暮れは遅いから、まだ日が陰る気配なんて全然無くて、太陽は容赦なく熱を発している。アスファルトの放射熱も相まって全く以って暑い。それでも、夏は嫌いじゃない。嫌いじゃないけど……今日は気分が晴れなかった。原因なんて、認めたくないだけで端から分かってる。分かり切ってる。甚だ癪に障る事ではあったけれど。 「針谷」 「何だよ。つーか、ハリー、な」 「おまえなら、嫌いな場所に誘われたら、行く?」 「は?」 「いや例えばの話な?」 絶対からかわれると思ったけど、針谷はしばらくの間、口を閉じた。まさか真剣に考えてるのか? 「……ま、ケースバイケース、だろーな」 「…………」 ケースバイケース。……それはそれで難しそうだよな。 「断ったら駄目なタイミングってのもあるだろ」 「……ああ、そう」 そういうことだったのか? それで、いま、こんな――、 「ま、オレもプールに誘われたら勘弁だけどなぁ」 「結局断るのかよ」 「苦手なのは仕方ねぇだろ」 「……なんか、真面目に聞いた俺がバカだった」 「お? オレ様のアドバイス、役に立ったか?」 「立ってないし」 「アドバイス料はクリームソーダな」 「却下」 「じゃあ、カリガリ君で手ぇ打つか」 「……却・下。俺、急いでるから、先行くな」 「あ、オイ、佐伯!」 走り出した背中に針谷のデカイ声がぶつかる。抗議の声かと思ったら、 「早くあかりと仲直りしろよー」 だって。思わず前のめりにこけそうになった。振り返ったら、癪に障るニヤニヤ顔が見えた。……やっぱりからかわれた。半ばヤケで言ってやった。 「余計なお世話だ!」 ○ 週半ば、珊瑚礁に顔を出したヤツは心なしか、心ここにあらずと言った風だった。バイト中なのに、いつもより二割増しはボンヤリしてるし、反応も薄い。……何だってんだ、一体。 「あかり」 「っわあ!」 客足が引いて、手持ちぶさたになった頃合いを見計らって、声をかけた。瞬間、小さな悲鳴と、ぐしゃり、何かを握りつぶす音がした。 「……何、してんだ、ボンヤリ」 「ごめん、ちょっと、ビックリして……」 あかりの手の中のものが気になって視線を向けていたら、視線に気づいたボンヤリが後ろ手に手を隠した。……小癪な。 「何コソコソしてるんだよ?」 「し、してないよ!」 「してるだろ? 何隠したんだ、それ」 「何でもないの! カンペだから、これ……!」 「カンペ?」 「あっ」 どうも、このカピバラはこっちの伺い知れないところで墓穴を掘りまくっているらしかった。話の筋は全然読めなかったけれど。読めないのと、あかりのはっきりしない態度に益々イライラが募る。 「……何をコソコソしてるか知らないけど」 「う、うん」 「仕事はきちんとやること。今日おまえ、すごいボンヤリしてる」 「えっ」 「しっかりしろよ」 ぺこん、トレイで頭を叩いた。……叩いたというか、乗せた、と言うか。発破をかけたつもりが、あかりは大げさに痛がった。頭をさする手の間から恨めしげな目が覗く。上目づかいの涙目って、何て言うか、始末に負えない。しばらく、無言で見つめ合って、先に逸らしたのはあかりだった。珍しく。強めていた目を、ふっと、伏せて呟いた。 「……うん。しっかりする」 「あ、ああ。しっかり、な」 「うん、頑張る」 まるで何かの決意表明みたいな言い方。かさかさと、後ろ手に隠していた皺苦茶の紙を伸ばして、畳んで、スカートのポケット入れた。 「佐伯くん」 「何だよ?」 「ごめんね、わたし、しっかり頑張るから」 「………………」 一体何をそんな、思い詰めたような顔して。 実際に疑問を口に出して訊く前に、ドアベルが鳴った。客だ。俺もあかりも切り替えて入り口を振りかえった。 そのあとは、割と客足が途絶えなくて、話しを聞き返す余裕がなかった。でも、帰りに聞けば良いと思った。けど……。 「先に帰った?」 「ああ、止めたんだけどね。どうも急いでるみたいだったから、止める暇もなかったよ」 「そんな……」 いつもならバイト帰りに送ってやっていた。その日は、俺が少しバックヤードに下がっている間にあかりは先に帰ってしまったらしい。じいちゃんも困ったように言う。 「女の子に夜道は危ないだろうに」 「俺、追ってくる」 言って、外に出た。携帯で電話もかける。しばらく待って、聞きなれた声が応答した。あっけらかんとした、ほのぼのとした、いつもの声。 「佐伯くん?」 「おまえ、何で先に帰ってんだよ?」 「ご、ごめん。でも、いつも迷惑かけちゃってるから……」 「そんなの、いいから! 何かあったら、危ないだろ?」 「佐伯くん」 「何だよ?」 「ありがとう。心配かけちゃって、ごめんね? もう、家に着くから、大丈夫だよ」 「おい……」 「……今日は、ちょっと一人で頭を冷やしたかったの。心配かけて、本当にごめんね」 ――おやすみなさい。 電話の向こうでドアを開くような音と一緒に通話が切れた。ほとんど一方的な会話。こっちはというと、置いてきぼりをくらっている気分。何なんだ、一体。 次の日。 昨日の帰りの様子が気になって、放課後すぐ、あかりに声をかけようと思った。けど、何を急いでいるのか、授業が終わった途端、あかりは鞄を掴んで教室を出て行った。まるであらかじめ準備してたみたいに。 追いかけるのと、声をかけるのを躊躇ったのは、何が起きているのか、把握できていなかったから、だと……思う。一昨日前の嫌な予感が頭を過る。――もしかしなくとも、これって、本格的に避けられてないか? 8/say it ain't so(そうじゃないって言ってよ) |