鳴り響いていた時計台の鐘は、今しがた鳴りやんだ。崩れて消えたかぼちゃの馬車。それでも走り続ける。片方になってしまった硝子の靴を大事そうに胸に抱き、裸足で走った。
息を切らせて辿り着いたのは、静かな森の中。ふと振り返り、耳を澄ます。追ってきていた城の召使たちの気配はもうない。

「よかった、捕まらずに済んだのね」


ほっと胸を撫で下ろして、力なく座り込んだ。木々の間から射し込む月明かりに自分の身なりを目の当たりにして少し胸が痛む。
ぼろぼろのスカートに埃まみれのエプロン。さっきまでの煌びやかなドレスなどもう見る影もない。灰かぶりの私。いつもの、私。
こんな姿を彼に見せるわけにはいかない。

この現実とはあまりにかけ離れたあっという間の出来事に、全てが夢だったのではと思いそうにもなる。けれども手の中に残った片方の硝子の靴はキラキラと光っていて、先ほどまでの幸せな時間を私に思い出させる。


「いっそ、夢だったなら良かったのかもしれないわ」


どんなに恋焦がれようと、どんなに望もうと、もう二度と王子に逢うことなど叶わないのだから。
ずきり。また胸が締め付けられるように痛む。夜風ですっかりと冷たくなってしまった手を強く握り締めた。


「Hum…そりゃあ一体どういう意味だ?」


誰も居ないはずの森の中で何者かに背後から声を掛けられ、ビクリと肩が跳ねた。
おそるおそる振り返れば、恋い焦がれた彼。嗚呼、私はおかしくなってしまったのかしら…王子の幻覚までみてしまうだなんて。


「どうして、此処に?」


震える声で問い掛ける。だって王子様がこんな場所にいることなど、あり得ないはずなんだから。それでも、目の前の彼が現実であることを望んでやまない私はどこまでも貪欲だ。


「あんたが急に逃げるからだろ?」

「なんで、私なんかを追って…」


そこまで言い掛けて、急に自分の身なりを思い出す。魔法はとけて、灰かぶりに戻った姿。裸足で走ったせいで泥だらけの素足。ぼろぼろの服。そんな風貌で薄暗い森の中に、へたりと座り込んでいるのだ。つい半時ほど前に彼と踊っていた私とは、似ても似つかぬはずだろう。


「いいえ、きっとお人違いをなさってるわ」

「Ha、魔法だかなんだかしらねえが俺の目は誤魔化せないぜ?あんたは、さっきまで俺とdanceしてた女だ」


真っすぐに見据えられ、吸い込まれてしましそうなあの隻眼と視線が交わった。身体の中心からぞくりと何かが這い上がってくる感覚に襲われる。不思議な引力に捕われて、逃げられない。


「なぜそのようなことを?貴方様と共に舞踏会にいらした方は、こんなみすぼらしい女ではなかったでしょうに」


泣き出したくなるのを必死に堪える。そうなのです、と頷いて彼の胸に飛び込みたい気持ちを飲み込む。無意識に硝子の靴を握りしめた。


「なんでそんな身なりになったのかは知らないが、そんなことは問題じゃねぇんだよ。俺が欲しいのはただ着飾った女じゃない、あんた自身だ」

「なぜなのです?なぜ、」

「理由なんかねぇ、俺はあんたが欲しい。あんたじゃなきゃ駄目なんだって、失いそうになって気がついたんだ。だからこそ、追いかけてここまで来た」



冷たい土の上にぺたりと座り込んだ私のもとへとゆっくり歩み寄り目の前に片膝をつくと、王子は硝子の靴を握りしめる私の手のひらに自分のそれを重ねる。冷えきった手にじんわりと熱が伝わってきて、泣きそうになる。


「これは、あんたのだろ?」


そういって王子が差し出したものは、もう片方の硝子の靴。その問いかけに涙を堪えながらもこくりと頷くと、彼は至極満足そうに笑ってみせてから私をふわりと抱き寄せた。


「もう逃がさねぇぜ、honey」




ガラスの靴の持ち主は
(愛しい王子様に捕まりました)









企画サイト「お伽の国へいざ行かん」様に提出

(2009.06.03 葉月)




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