目を閉じればすぐに眠気がやってくる。だがそれは、安らかな眠りではなく地獄への誘い。

「お前は鰐淵家の長男なのだからしっかりしなさい」「ちゃんとお父様の言うことをお聞きなさい」「なぜこんな簡単なことが出来ないのだ」「大丈夫、あなたは立派な軍人になれるわ」「言うことを聞け」うるさい「お父様に殴られたのはちゃんとした理由があるのよ」「わからないなら理解するまで考えろ」うるさい黙れ「答えがわかったら出してあげるから」黙れって言ってんだろ「いやはや、本当に出来の悪い息子でお恥ずかしい」「どうしてそんなに反抗的なの?」「本当にお前には失望したよ」「あなたのせいで私まで怒られるの。お母様を悲しませて楽しい?」うるさいうるさいうるさい!

 お前らはいつもこうしろああしろって命令ばかりする。なぜと聞けば叩かれ、怒られる。なんて理不尽なことだ。ただ理由を聞いただけでこの仕打ちか。何様だ。神様か? じゃあ殺してやろう。
 先祖代々続く軍人の家系である鰐淵家は、親族にも軍を始め政治や医療の人間が多く、所謂エリートの血筋であった。生まれて数年でこの『家』から腐臭を感じた俺は、その根源が父であることに気づいた。
 金、地位、名声、富、権力――それを持っている父の周りには、常に人が群がっている。奴らの貼り付けた笑顔の醜悪さといったら、初めて見たときは恐ろしく感じたものだ。

「坊ちゃん、お父様にどうかよろしくお伝えください」「うちに同い年の娘がおりますの」「息子が坊ちゃんとお友達になりたいと」うるさいそんなのいらない「なぜですか?」「うちの子が何か失礼を」違う違う違う「あのガキは駄目だ」「次は秋緋坊ちゃんに」「長男は落ちこぼれなんですって」「本当、次男が生まれてくださってよかったわね」「旦那様も大層お喜びになったって」「先日、鰐淵の旦那様がなんて言ったかご存知?」

「秋緋坊ちゃんに向かって、『お前は自慢の息子だ』とお褒めになっていたのよ」

 ああ、そうかよ。だからどうした。コソコソと内緒話してるつもりだろうが、こっちには丸聞こえなんだよ。
 長年ずっとこんな扱いを受けていれば、感覚が麻痺してきたのだろう。些細なことでは泣かなくなった。
 秋緋の周りには常に人がいて、あいつはその中心でにこにこと馬鹿みたいに笑っていた。俺はその笑顔がどうしようもなく嫌いで――?

 何か聞こえる。なんだっけこれ、ああそうだ、歌だ。

 突然場景が変わった。ぐりん、と映画のフィルムが変わるように。
 どこだ、ここは? 青々と茂った木々や草花。外だ。ペンキの剥がれたベンチもあり、錆び付いた遊具がある。まだガキの頃の俺が、誰かと向かい合っている。誰と?


「でも、笑ってほしいから」


 いつだったか、誰かがこう言っていた。笑ってもらえるなら、自分は傷ついても構わないと。
 馬鹿じゃないのかと俺は無性に腹が立った。なぜ? 放っておくことも出来たのに、なぜ自分はそうしなかったのか。放っておけなかったのだろうか、紅い髪をしたあいつのことを――あ。
 そうか、こいつ、秋緋と同じ顔で笑ってたんだ。辛いのを我慢して、無理に笑って。だから俺はあんなにも腹が立ったんだ。
 だから俺は、辛かったら泣いてもいいんだと伝えたかったんだ。泣くことは恥ずかしいことじゃないと、泣いて強くなれるんだと――そう信じていたから。信じて、いたかったから。
 
 違うだろう、何を綺麗事を言ってるんだ、お前?
 本当は泣いてほしくて、それを見て弱いのは自分だけじゃないんだって安心したかったんだろう。それだけのために、利用しようとしたんだろう?

 利用なんてしていない。本心からだ。俺はあの子の笑顔が見たかった。あんな道化の仮面じゃなくて、本心からの――。

 ちょっと待て。あの子って、誰だっけ。




「……あ?」

 ふと肌寒さを感じて瞼を開ければ、視界が紅で染まった。驚いて背を仰け反らせれば、同じ机に頭だけを置いて寝息を立てるアイツの姿だった。
 アイツというのは、秋緋の自称親友であり最近自分に纏わりついてくる――なんだっけ、こいつの名前。なんか色の名前だったような気がするが、別に思い出さなくても支障がないことに気づき、俺は背伸びをした。
 長時間机に突っ伏していたせいか、背骨がバキバキと音を立てた。首を回すと同じように音がしたが、目の前の紅い髪をした女は全く起きる気配がない。つーかなんでここで寝てるんだ、こいつ。むしろ自分がなんでここで眠っているのかすら解らない。
 放課後と呼ばれる時間はとっくに過ぎており、外はもう星が見える時間だ。よく遅番の教師に見つからなかったな、と自分の悪運に舌を巻いた。

「おい、起きろ」

 肩を揺さぶって起こそうとするが、「うーん……あきひちゃんそれはたべれないよ……」とわけの解らない寝言をほざいている。なんでお前が秋緋の夢を見てるんだと殴りたくなったが、たかがそれだけの理由で女を殴るとアルジリアが怒るし、あの傷だらけの彼女を通して秋緋に伝わるし、爆笑する悪友の姿が浮かんだので止めた。

「おいコラ、起きろっつってんだろ」

 髪をぐいと引っ張ってやり、ふと我に返った。待てよ、なんで俺がここまでしてコイツを起こそうとしてるんだ?
 今だったらウザイぐらい纏わりつかれずに帰れるし、俺の住んでる場所を知ろうと尾行されることもない。コイツを撒くのは結構疲れるし、わざわざ起こすこともないだろう、うん。じゃあさっさと帰ろうと静かに立ち上がれば、暗闇の中でも目立つ紅い髪が目に付いた。

「俺よりもずっと綺麗で紅い髪の子なんだ」

 いつだったか、秋緋がそう言っていたような気がする。紅い、と聞いただけで良い印象は持てなかったが、実物はもっといけ好かない奴だった。
 何となく手を伸ばしてそっと指先に絡めれば、思ったよりもずっと手触りがよくてすぐに指の隙間からさらりと零れた。その際にシャンプーだか何かの……所謂女の匂いがして、こいつもちゃんとした女なんだな、と思った。当たり前だが。

「――あ、?」

 目の前のこいつと、何かが重なった気がした。だがそれは一瞬のことですぐに元に戻った。なんだ今のはと顔を近づけて観察してみるが、先程のようなことは起こらなかった。
 気のせいか、と顔を離そうとした瞬間、閉じていたはずの教室の扉がガラリと開いた。

「おい、まだ誰かいる、の……か……」

 直後、俺の頭に恐ろしい速さでスリッパが直撃した。見事に勘違いしたアルジリアはぎゃあぎゃあ喚きながら俺の首を絞め殺さんばかりに掴んできて、それを見てようやく起きたアイツが「お兄さんとアルジリア先生は仲いいね」とケラケラ笑った。よし、殺す。



見間違いの赤

title by ラズバン
20100531

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