久瑠が敬語を使う理由について述べるには、まず僕達の両親のことから知ってもらう必要がある。 実際のところ、僕と妹の久瑠は父親が違う。所謂腹違いならぬ種違いの兄妹で、僕の実父は母が僕を出産する前に亡くなってしまったらしい。不慮の事故だ、と母は言った。何故か父方の親族とは全く面識がなかったが、僕は不思議と理由が気にならなかった。幼心に触れてはならぬ問題だと察していたのかもしれない。 母は気丈な人で、誰にも頼らず僕を一人で生み、育てた。働きながらも女手一つで僕を育てるのは並々ならぬ労力があっただろう。だが母はそんなものは些細なことだとばかりに鼻で一笑するような豪快な人だった。僕は小さいながらも、母を尊敬した。 それから一年か二年ほど経ったある日、母が家に一人の男性を連れてきた。 「あなたのお父さんになる人よ」 男性はきっちりとスーツを着込み、傍目からわかるほど緊張していた。清潔そうな短髪に、彫りの深い顔立ち。世間一般から見て『好青年』と呼ばれるような人間だった。 僕は母の一言で全てを理解し、承諾した。「おとうさんができて、うれしいよ」とでも言ったような気がする。何せ相当昔なので、記憶が曖昧なのだ。 子供相手に何を緊張していたのだろうか、男性――現在の父親は、僕の言葉を聞くと嬉しそうに破顔した。その表情を見て、僕は何となくこの人とは上手くいかないだろうと思った。理由なんてないけれど、強いてあげるなら生理的に受け付けなかったのだ。 それからまもなく母が妊娠していることが発覚し、二人は正式に籍を入れた。僕の苗字も変わり、「塒久遠」となった。 母も義父も共働きで互いに忙しく、結婚式は挙げなかった。母は根っからのキャリアウーマンで仕事優先な考えだったし、義父もそんな母をよく知っていたから渋々と承諾した。 母は自由奔放で束縛されるのを極度に嫌い、義父は律儀で真面目な人だった。間逆な二人が何故結婚を決めたのか、と訊ねれば義父は「学生のときからずっと憧れていたんです」と照れくさそうに言った。どうやら義父は、母の後輩だったらしい。敬語なのはその名残らしい。 憧れがどういった敬意で愛情へ変わっていったのか、二人の間にどんなロマンスがあったかなどとは微塵も興味が沸かなかった。僕はただ、「ふぅん」と適当に頷くだけだった。勢いだろう、と当たりをつけるくらいだ。 特に何もないままあっという間に月日は流れ、久瑠は元気な産声を上げて生まれた。星が綺麗な、芯まで凍えそうな夜だった。 「ほら、久遠君。君の妹ですよ」 義父の喜びようといったらなかった。その喜びっぷりに僕は少し引いた。 しわくちゃでぎゃあぎゃあと泣き喚く小さい塊を義父はそっと抱きしめ、僕に見せた。赤ん坊など見たことなかった僕は、恐る恐る触ってみようと指を伸ばした。そのとき、きゅっと久瑠の紅葉のような掌に掴まれた。 「っ!」僕はとても驚き、反射的に手を引っ込めようとしたが久瑠はなかなか離してくれない。 母も義父も僕の様子を見ておかしそうに笑っていて、そのうちなんだか僕も自分がおかしくなってきた。ただ一人久瑠が泣いていて、その泣き声が愛おしく感じた。守ってやろうと思った。何よりも、誰よりも。 *** 久瑠が生まれて五年たち、僕は七歳になった。母は相変わらず仕事優先だったが僕達の良い母親で、義父は久瑠を目に入れても痛くないほど溺愛していた。僕と義父の関係が冷め切ったものになっていたのは言うまでもあるまい。 母はそれに気づいていたが、僕が対して反応も見せないので特に何も言わなかった。僕と義父の問題は二人だけの問題で、他の家族には迷惑をかけなかったから、というのが一番かもしれない。 そうやってちょっとギスギスしてはいたものの、僕にとっては大した問題ではなかった。久瑠だけは何も知らずに屈託なく笑っていてくれたからだ。 だがある日突然終わりはやってきた。忘れもしない、あの夜だ。 ぱちり、と瞼を上げた。むくりと起き上がって耳を澄ませば、かすかに怒声や罵声が聞こえてくる。 ああ、またか。僕はうんざりするように溜息を吐いて、また横になる。 最近両親の仕事の忙しさが原因で、二人は徐々にすれ違っていった。夜遅くに帰ってきたり、朝帰りなこともしょっちゅうある。僕達を近所のおばさんに預けて家を留守にすることだってあった。 互いにストレスからか、義父と母は顔を合わせる度に口論になった。それはもはや恒例となり、僕は久瑠に聞こえないようにそっと耳を塞いだものだ。 ――あれ? そこでようやく、僕は気づいた。隣で眠っているはずの久瑠が、いない。 何故だか無性に嫌な予感がして、僕は飛び起きた。眠気なんて吹っ飛んだ。廊下へと続く襖が少しだけ開いてるのを発見し、僕は嫌な予感を抑えきれずにそっと廊下を出た。 ぎしり、ぎしりと床が軋み、僕は極力音を立てないように慎重に階段を下った。階段を下りてすぐ茶の間へ続く襖がある。 その奥にトイレや風呂場があるので、もしかしたら久瑠はトイレに起きてそのまま眠ってしまったのかも――そう僕は自分に言い聞かせた。どこへ行くにも必ず茶の間の前を通らねばならない。もし幼い久瑠があの二人のドロドロとした修羅場を見たら……考えるだけで空恐ろしかった。 久瑠はすぐに見つかった。だが僕の願いも虚しく、彼女は茶の間へと続く襖の前で立ち尽くしていた。かすかに開いた隙間から、中の明かりが漏れる。そこから二人の互いに罵る声に眉を顰め、僕はそっと久瑠の肩を叩いた。「……久瑠?」 襖の隙間を覗くように、久瑠はその場に立っていた。大きな紅い瞳が、極限まで開いて中の様子を伺っている。 「久瑠、」ぴくりと表情を崩さずに、時間が止まったように停止する久瑠の姿を見て、僕は手が震えていることに気づいた。ああ、いけない。今すぐこの子をここから遠ざけねば。 何も反応しない久瑠の手を半ば強引に掴むと、僕は早く部屋に戻ろうと促した。そのときだった。 「だから何度も言ってるじゃない。浮気なんてしてないってば」 「じゃあどうしていつも夜遅くに帰ってくるんです? 昨日も朝帰りでしたよね?」 「仕事が忙しかったのよ」 「嘘ですね」 「嘘じゃない」 「他に男がいるんでしょう」 「いるわけない」 「思えばそうだ、あなたは結婚する前からそういう節がありました」 「久瑠は本当に俺の子なんですか!」拳で強く机を叩いた音が響いた。 僕はそれを聞いた瞬間頭が真っ白になって、唇がわなわなと震えた。早く逃げなくちゃいけないのに、足が動かない。 そんな僕らの存在に気づくはずもない母と義父の口論はますますヒートアップした。 「何それ、どういう意味?」 「そのままの意味ですよ。あなたは僕と結婚する前から、妊娠する前からこうやってフラフラと夜中に出かけることなんてザラにあ ったでしょう」 「仕事上の接待よ!」 「もしかしたらその時他の男と寝て、久瑠が出来たんじゃ――」 「てめぇもっと自分に自信持てよ!」 パァン、と張り手打ちのような乾いた音がした。 それを合図に、僕は久瑠の手を引いて階段を上った。母の漢前な言葉を最後に、それからはもう互いを罵る汚い大声も聞こえず、水を打ったように静かだった。 寝室に戻り、僕はようやく手を離して安堵の息を吐いた。 「久瑠、大丈夫?」僕は久瑠の顔を覗き込んだ。 久瑠は襖からあの二人を見つめていたように瞳を極限まで見開いていて、小さな唇は真っ白になるぐらい強く噛み締められていた。 「久瑠、」 そんなに噛んだら血が出てしまうよ。僕は腫れ物に触れるようにそっと頬を撫でた。すると僕の意を感じ取ったのか、久瑠は少しずつ噛む力を弱めた。は、と短く息を吐くと、僕の手をぎゅっと掴む。 堰を切ったようにぽろぽろと、赤い瞳から大粒の涙が零れた。 「おまえは、なにも悪くないよ」 久瑠は決して声を上げず、顔をくしゃくしゃに歪めることもなく、全く表情を変えずにただ涙を流していた。その姿を見て、僕はどうしようもなく悲しくて、辛くて、久瑠をこんな風に追い詰めたあの男を憎んだ。 「みんな久瑠が生まれたとき、嬉しかったんだから」 こういうときはどうすればいいのだろう。頭を撫でればいいのだろうか。抱きしめればいいのだろうか。僕は何も考えずに、ただ久瑠をぎゅっと抱きしめた。この子の心が壊れないように、守るように。 それから久瑠が敬語を使うようになったのは、その次の日のこと。 *** 「お兄ちゃん、朝ですってば!」 「あ?」 突然眩しい光に襲われ、僕は思わず手で目を覆った。指の隙間から様子を伺えば、ピンク色のシンプルだが可愛らしいデザインのエプロンを身に着けた久瑠が眦を吊り上げていた。「遅刻しますよ」 「あ、あーあーあー、うん、わかった」 僕は朝に極端に弱いので、目覚ましを何個かけても無意識のうちに止めてしまい、結局は久瑠に起こされてしまう。久瑠は勉強は不得意だが家事全般のことは何でもできるので、僕よりも何時間も早く起きては二人分の弁当と朝食を作ってくれる。見目は母そっくりなのに、中身は全く似ていない。 のっそりと僕は、だるい体を引きずるようにして起き上がる。ベーコンの匂いが香ばしかった。Yシャツとズボンだけを身に付け、トーストを齧る。久瑠が早く早くと急かすので、僕は大丈夫だと宥めた。いつもの朝の光景である。 前に秋緋から「くお君ってくーちゃんがいなかったら絶対死んでたよね」と笑われたことがあったが、実際その通りかもしれない。いや流石に死なないと思うが。雹にまで鼻で笑われたが、あいつは人のことを笑えないと思う。腹立たしいことだが、あいつと僕は似たり寄ったりなところがある。非常に不愉快だが。 「そういえば私、今日変な夢見たんですよね」 「夢?」 その単語に思わず食が止まる。そうだ、僕はあの忌々しい過去を夢に見ていたのだ。自然と顔が曇るが、久瑠は気づかずに話を進める。 「ええ。お母さんって今カナダに住んでるじゃないですか」 「うん」 言い忘れていたが、あれから両親は離婚した。夫婦という名の呪縛から解き放たれた母は僕が高校生に上がったと同時に外国へと移り住んだ。父のことは久瑠とは連絡を取り合っているようだが、詳しくは知らないし興味もない。 ただ、僕らの養育費の半分を払ってくれているのは父なので、その点だけは感謝している。将来必ず返すつもりだが。 「そこでお母さんはものすごくガタイがよくて顎が割れてるナイスマッチョと結婚して、双子の男女の子を産むんです」 「……生々しいな」 あの母ならばやりそうだ。僕らを生んだ母は誰よりも豪快で行動力や好奇心が旺盛すぎる人だ。夫に先立たれ、そして離婚という壁を乗り越えた彼女は人間としても一回り以上成長し、今も遠いかの地で酒を煽りつつガハハと笑っていることだろう。安易に想像できて嫌だ。 「じゃあ僕らに幼い弟妹達が増えるってことか?」 「はい。それでその子達が突然、今みたいな朝食を食べてるときに突然訪ねてくるんです。ピンポーンって、三回ぐらい」 「そんなまさか――」思わず笑い飛ばそうとした僕の耳に、ピンポーンピンポーンピンポーンというインターフォンの音が三回した。 ……え? これでお終い title by リタ 20100519 |