何が起こるかわからないなぁ、と弟が言っていたのをふと思い出した。長年つけていた眼帯を外し、前よりもずっと柔らかく笑うようになった弟は、前髪を掻き揚げた。あいつの目の手術が成功したとき、俺が手に職をつけたとき、結婚を決めたとき、秋緋はいつもそう言って自分のように喜んでくれた。そして俺はいつもつられて笑ってしまう。これが幸せということに気付いたのは、もう何年も前のこと。 「おにーさん」から「雹ちゃん」と呼び方が変わっていったのに気付かないふりをしたのはいつだったろう。何だか指摘するのも照れくさかったので、お返しとばかりに「紅」と面と向かって呼んでやった。その時の紅の表情を今でも思い出し、胸が温かくなる。初めて愛しいという感情を理解した。 「海が見たい」思いついたように呟けば、紅は一瞬きょとんとしてから「いいよ」と笑った。こいつはいつもそうだった。文句も言わずに俺に着いてきてくれた。一度だけ日本に帰りたくないのかと聞けば、「だってそこには雹ちゃんがいないよ」と大真面目な顔で答えられた。戸惑いもあったが、素直に嬉しかった。 最初は秋緋のために撮り始めた写真がきっかけで、現在では俺はカメラマンというやつらしい。本格的に勉強して写真を撮り始めたのは十年ぐらい前だが、未だにピンとこないから不思議だ。秋緋曰くファンもいるらしいし、俺の撮った写真を買ってくれる人間もいるという。面倒なことは紅がやってくれるので、俺は詳しいことは知らない。 「ねえ雹ちゃん」 「あ?」 「幸せだね」 紅はたまにこういうことを嬉しそうに言ってくるから、いつもどう返事をしていいのか困る。わざとシカトしても、頭をぐしゃぐしゃにしてやっても、小突いてやってもケラケラと笑うのだ。俺がずっと見たかった、幸せそうな笑顔で。自分が笑われてるようでちょっと腹立つが、まあ、別に、いいかと思うようになった自分を、十八歳の俺が見たらどんな顔をするだろう。驚くか、怒鳴るか、暴れるか。それしか自分を表現できない子供だった。 「なに笑ってるの?」ガイドブックと睨めっこをしていた紅が俺を見上げて首を傾げた。何でもないと首を振り、ふと身を屈めて紅を覗き込んだ。 「なに?」 「……お前、老けたか?」 ビシリと固まった紅は、一瞬のうちに足を振り上げて見事な踵落しを決めた。 「な、何すんだてめぇ!」 「雹ちゃんはもっとデリカシーってもんを勉強したほうがいいよ」 ほがらかに笑いながらも纏う空気には明らかに怒気が含まれている。どうやら俺は失言をしたようだ。頭を抑えつつ何がいけなかったのだろうと考える俺に、紅は呆れたように溜息を吐いた。 「もう君と一緒に十年以上も世界を回ってるんだよ。年を重ねれば、そりゃ老けるさ」 人間だもの、と紅は笑った。そりゃそうだ。数え切れないほどの時間を過ごしてきたんだから。 「そうだ、秋緋ちゃんからメールきてたよ。次はいつ日本に帰ってくるんだーって」 「あ、あー……落ち着いたらな」 「前もそう言って帰らなかったくせに。また約束破ったら、かわいいチビちゃんに忘れられちゃうよ」 「…………絶対帰る」 赤が嫌いだった。嫌いだけど、秋緋だけは特別だった。そんな狭くてちっぽけな俺の世界に飛び込んできたのは、ムカつくチビの赤毛。付き纏われてウザいと思ってたが、いつの間にか彼女もまた、特別になった。そして彼女との間にまた一人、特別な赤が増えるなんて、本当に何が起こるかわからないものだ。 「さあ、次はどこへ行く?」 まるで答えはわかっているような顔で紅は訊ねる。 どこへだって行けるさ。お前と一緒なら。 |
20120516 |