*** 熱い。血が滾っている。体が重い。骨が鉛のようだ。痛い。痛い。右目が痛い――痛い? もうそこには、何もないのに? 「――秋緋!」 名前を呼ばれ、今まで重かった体がふっと軽くなった。すると目の前が真っ白に光って、次いでぼんやりと誰かの輪郭が浮かんできた。 「……り、…ぃ…」喉に激痛が走り、咽てしまった。リジーは俺の胸を数回優しく叩くと、「大丈夫、大丈夫」とあやすように繰り返した。それに安心してか、俺はようやく自分の置かれた状況を理解した。ゆっくりと視線を動かすと、奇妙な違和感。震える指でそっと顔に触れると、包帯の感触。ああ、そうか。 「リジー、……」 「秋緋、喋るな」 「く、るちゃん、は」 痛みに耐えながらも、切れ切れにリジーに尋ねる。自分でもわからないほど声が小さかったが、リジーは察してくれたようだった。だがリジーはきゅっと眉を顰め、ぐっと唇を噛んだ。今にも泣き出しそうな顔をしたリジーに、俺は彼女に何かあったのだとすぐにわかった。 「くるちゃんに、なに、か……」 「……無事だよ」 「ウソ……」 俺の髪を撫でるリジーの指先は、ちょっとだけ震えていて冷たかった。何があったんだと目だけで訴えれば、リジーは観念したように息を吐いた。「なあ、秋緋。落ち着いて聞いてくれ」 「久瑠ちゃんな、記憶が無いんだ」 *** 日が傾いてきて薄暗くなった時間帯は、人が少なくていい。屋上へと続く階段の隅に腰を掛け、頭を抱えた。 ――恐らく精神的なものだと思います。子供にとっては負担の大きすぎる記憶です。忘れることで、自分を守ったのでしょう。 耳の穴からすり抜けていくように、説明なんて頭に入らなかった。 忘れた。あのガキは。秋緋のことを全て。全部。どうして? ――自分を守るために。 「ふざけんなよ……」 唇を噛み締めれば、じんわりと口内に鉄の味が広がる。それが不快で唾を吐く。赤い唾液を見た瞬間、あの凄惨な事故現場がフラッシュバックした。秋緋から流れる赤が、脳内を埋め尽くす。頭を振って追い出そうとするけれども、ますます広がるソレに耐え切れず、頭を壁にぶつけて追い払おうとした。がつん。頭が割れそうに痛かったが、それでも秋緋が受けた痛みに比べれば可愛いものなんだろう。 「何をしてる!」 肩をぐいと引っ張られ、俺はよろけてしまった。回る目で声の主を見れば、リジーが信じられないものを見るような目で俺を見ていた。なんて顔をしてるんだ。 「馬鹿! お前まで怪我したらどうするんだ!?」 「関係ねぇだろ」 「あるに決まってる!」 パチン、と小気味の良い音がした。一瞬何が起きたか解らず、じんじんと痛む頬に手を当てた。あ、俺、叩かれたのか。 「本当に、ばか……」アルジリアの肩は震えていた。それを見て、ぶつけた頭よりも叩かれた頬のほうが痛んだ。 「秋緋、目を覚ましたぞ」 あの事故から三日が経っていた。「そっか」と呟けば、アルジリアは以外そうに目を見開いた。「会いに行かないのか?」 「こんな情けねぇツラで会えるかよ」 「お兄ちゃんのプライドってやつか?」 「うるせー」 プイとそっぽを向けば、隣でくすくすと笑う気配があった。だがそれもすぐに止んで、アルジリアは声のトーンを落とした。「久瑠ちゃんのことなんだけど」 「聞きたくない!」 自分でも驚くほどの声が出て、アルジリアが息を呑んだ気配がした。あいつらのことは話だけ聞いていた。「フラッシュバックが怖いから、会わないでくれ」と言われたことも。 怒りが込み上げてきて、握った拳がわなわなと震えた。「秋緋に言ったのか?」 「……言ったよ」 やっぱりな、と思った。アルジリアは言うつもりなんてなかったろう。けれど秋緋は聡いから、遅かれ早かれ気づくだろう。アルジリアもそれをよく知っていたから、敢えて言った――否、秋緋が言わせたのだろう。 自分が命を賭けてまで守った少女が、自分を忘れたと知った秋緋は、今頃どんな顔をしているのか。どんなことを考えているのか。想像するだけで、心臓が締め付けられるようだった。聞いた秋緋がなんと返したのかなんて、アルジリアに尋ねることも憚られた。 「別に俺、カミサマっているなんて信じてねぇけどよ、」 「うん」 「なんで……カミサマは秋緋にこんなことするんだろうな」 膝を抱えて、そこに顔を埋めたまま俺はぽつりと漏らした。独り言のようにも聞こえるが、アルジリアは「そうだなぁ」と律儀に返してくる。「秋緋は強い子だから。神様もそれを知ってるから、きっとこんな試練を与えたんだろう」 「でも、」 「秋緋だったら必ず乗り越えられる。秋緋の強さは、お前が一番わかってるだろう? お兄ちゃん」 いつもは子供扱いするくせに、こういうときばかりお兄ちゃん扱いをするアルジリアはずるいと思った。俺の胸中など露知らず、アルジリアは続ける。 「でもなぁ、秋緋はまだまだ子供だから弱いとこだっていっぱいある。だからそのときはお前が守ってやれ」 そっと肩に手を回され、引き寄せられた。他人の柔らかな体温を半身に感じて、俺は一瞬驚きのあまり硬直してしまったが、アルジリアは手に強く力を入れた。 「私は、お前達二人を守るから……」 声を落として訴えるように、自分に言い聞かせるように口にするアルジリアに、俺は瞼を閉じて身を任せた。 なぁ、リジー。そんなお前を一体誰が守ってくれるんだ? ⇒ |